原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“お一人さま”が似合う人、似合わない人

2011年10月13日 | 人間関係
 (写真は、一昨日レンタルダンススタジオの個室にて鏡に映った原左都子を自ら撮影したもの。 ご覧の通り、相も変わらずミニスカスタイルで一人ダンスを堪能していま~す♪


 こんな写真を公開すると、皆さんより「レンタルスタジオの個室で“一人で”ダンスを踊って楽しいの??」なるご心配を頂戴しそうである。
 これに関しては「原左都子エッセイ集」2011年7月バックナンバー「喧嘩売らずに身を引くべきか…?」にて既述した通り、私も当初はスポーツジムの“団体プログラム”にてダンスを楽しみたいと欲していた。
 20代前半の頃、都内某ジャズバレエスタジオである程度本格的なダンス団体レッスンを経験している私だが、その時の厳しいレッスンの下ではメンバー皆が上を目指すべく切磋琢磨していた。 音感や体型には恵まれているものの体の柔軟性に欠ける私としては、すべての素質が天性のものとして備わっている人には到底叶わない劣等感を抱く等々、“団体”レッスンであることに刺激を受けつつ自分なりの上達を志す事が出来た。
 片や、単にフィットネス目的であるスポーツジムのダンスプログラムにおいては皆が自分勝手に踊っているだけで、団体であるにもかかわらず“切磋琢磨”するということがなく何らの刺激も得られない。
 それに虚しさを感じた私は“一人レッスン”と相成ったのだ。


 さて、今回の記事のテーマはダンスではなく “お一人さま” なのであるが、“お一人さま”と一言で言ってもそのシチュエーションは多様である。
 例えば、私は現在自主ダンスレッスンを2箇所で実施している。 その1箇所は上記写真のレンタルスタジオ個室であり、もう1箇所は総合体育館の大規模スタジオである。 何故2箇所を併用しているかと言えば、どちらも“一人で”踊る事には違いはないのだが、両者共にそれぞれのメリット、デメリットがあるからだ。
 例えば総合体育館スタジオの場合、不特定多数の人が出入りしている関係上人の目がある。 身長165cmの私がこの恰好(写真参照)で一人踊る姿は目立つようだ。 特に年配女性はフレンドリーに「素敵ですね!」「カッコイイですね!」等々とよく声をかけて下さるのだが、これは励みになる一方で少々の鬱陶しさもある。 あるいは若手のプロなども自主レッスンをしているが、こちらは決してフレンドリーではなく「素人が下手なダンスをやってるなあ」と言わんばかりの冷たい視線を投げかけてくる。(単なる被害妄想か?!?)  いずれにせよ一人で踊っているとは言え、人の目がある以上多少の鬱陶しさは避けられない。
 そこで時にはレンタルスタジオ個室を併用して、人の目を気にせずダンスに集中する時間も設けているという訳だ。
 
 ここで冒頭の「スタジオ個室で一人で踊って楽しいのか」との問いに答えるならば、確かにいつもいつもこの個室のみで踊り続けるとしたら、集団嫌いのこの私ですらいずれ閉塞感に苛まれるであろう予感はある。 人の目というのは鬱陶しくもあるが、人間にとって励みにもなる場合もあるからだ。
 結果として、現在は2箇所のスタジオを併用して大正解といったところだ。


 今回この記事を綴ろうと思ったきっかけは、朝日新聞10月8日「be」の記事“between”のテーマ「一人で外食、抵抗ある?」を見たことに始まる。
 「一人で外食、抵抗ある?」との質問に対し、読者の回答は“はい”が37%、“いいえ”が63%とのことである。
 早速、原左都子がこの質問に応えるならば、当然ながら“いいえ”と即答したいものだ。 他者の目がある中で下手なダンスを踊れる図々しさがある私が、人前で食事が出来ないはずもない。

 本エッセイ集2009年7月バックナンバー「昼飯くらい一人で食べさせてくれ!」に於いても綴った通り、私は20代後半頃より民間企業の社内食堂における昼食を一人で食べるべく行動に出ている。 何故ならば当時さほど結婚願望がなく自身の自己実現意欲が強かった私にとっては、職場の昼休みとて自己鍛錬の貴重な時間帯であったからだ。 同僚のご亭主や子どもの話を聞いて昼の貴重な時間を潰す事が忍びなかった私は、昼食後は新聞を熟読する時間に当てた。 
 それでも鬱陶しいのは、まだ若き私が一人で昼食を取るのを「可愛そう、わびしそう」と捉えた(?)“お節介人種”が昼食中の私の隣にやってくることであった。(当時はまだまだその種の人間関係が濃厚な時代であった。)
 「一緒に食べていいかな?」

 当然、相手にもよる。 会話が充実しそうな相手とは、その後昼休みが終わるまで会話が続いたものだ。
 ところが、そうではない相手には難儀させられた記憶がある。 その“難儀相手”とはまさに単なる“お節介”の意図だったのであろうが、会話に何の接点も持てないのだ…。一応の配慮心がある私としては食事が終わった後早々に「失礼します」と言って席を立つ訳にもいかず、無駄な時間を共有させられたものだ。 

 そのような我が過去の苦い経験に比して、今の時代は“お一人さま”が健全に生き延びられるべく社会が進化を遂げている事を実生活において実感している。
 朝日新聞の質問である「外食」に関しても、“お一人さま”外食を日々実行する人々の多さに元々集団嫌いの私など感嘆する思いだ。

 上記朝日新聞記事「一人で外食」のメリット第1位として “自分のペースで食べられる” ことが上げられているが、これなど私が20代後半に一人昼食を志した理由と同一である。 加えて第4位 “会話するのが億劫” との回答も我が過去の一人飯に遡る思いだ。
 ただし私の場合は、昨今を問わずあくまでも会話において共通項や同質性が見出せない相手と食事時間を共有する事は避けたいとの意図である。 もしかしたら今の時代に生きる若い世代が“会話をするのが億劫”と語る背景とは、単に人間関係の希薄化故の深刻な事情を内在しているだけの話なのかもしれない点は私も懸念する。 


 一方、この朝日新聞の「一人で外食、抵抗ある?」との質問に「はい」と回答した人種の心理は原左都子には容易に分析できそうだ。 
 その第一の理由は「さびしい、わびしい」とのことだ。
 そうだろうね。 私も上記のごとく昔その種の人種からの“お節介”には辟易とさせられたものよ。

 基本的にこの質問に“はい”と応えるか“いいえ”と応えるかにより、それぞれの人種が生きる目的や意味合いが元々根本的に異なるものと私は分析する。
 今の時代において“たかが”一人で外食をする事を「さびしい、わびしい」と捉える人種とは、この国の学校教育がもたらした「集団主義」理念に束縛され、他者に依存しつつこの世を生き延びていく事こそが“最高の幸運”とのポリシーの下に生を営んでいる事なのであろう。
 その素直さは、ある時は素晴らしいと評価できよう。(前回の我がエッセイ「同調意識は身を滅ぼす」において綴った通りである。)
 ただ、我が地球上に築き上げられてきた太古から現代に及ぶ歴史に於いて大いに歪みが生じた今となっては、その価値観が大きく変遷するべきである事は自明の理であろう。

 さて、“お一人さま”が似合う人、似合わない人達が、今後この国で如何に共存していけばよいのでしょうかね???
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