原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“安請け合い”は人間関係の破綻を招く

2011年10月29日 | 人間関係
 「原左都子エッセイ集」6本前のバックナンバーにおいて、 「人は“プライド”を守るためにクレームを発するのか??」 と題するエッセイを公開した。
 上記エッセイは、朝日新聞夕刊において宗教家であられる小池龍之介氏が現在担当されているコラム「心を保つお稽古」の一記事を取り上げ、その反論私見を展開したものである。

 今回の我がエッセイは再び上記朝日新聞のコラム「心を保つお稽古」を題材に取り上げ論評しようとの意図なのだが、今回は小池氏の見解に賛同私見を述べようとするものである。


 それでは、早速朝日新聞10月27日夕刊小池氏による上記コラムより「“いい人”やめればモヤモヤ解消」と題するエッセイを、以下に要約して紹介しよう。

 「あっ、いいよ、いつでも手伝うよ」「是非あなたの展覧会を観に行きます」… こういった“安請け合い”をうっかりしてしまう時、私たちの心の奥に響いている声は「本当はしたくないんだけどね」である。 そういった場合「行きたいんだけど、忙しくてね…」などと嘘をついたり、あるいは断る事ができずに嫌々ながら引き受けたりする場合もあろう。 共通しているのは「嫌な人と思われたくない」煩悩である。 すなわち無意識に“いい人”を演じようとするからこそ、相手に媚びるために嘘をついてまで引き受けてしまうのだ。 この“いい人”の自己イメージを印象づけることで他者から好意を持たれたいとの煩悩は、多かれ少なかれ誰もが持っている。 ただ「行きたいなんて思ってもないくせに言葉の軽い人だ」と見抜く人に対しては、むしろ負のイメージと苦痛を与える。 “いい人”をやめて、思い切って素直に断るのが互いの心の衛生上良いこともある。


 原左都子の私論に入ろう。 

 最初に断っておくが、私は無宗教のため 「煩悩」 概念のみはあくまでも勘弁願いたい思いだ。
 その上で、今回の小池氏の論評に関しては概ね賛同申し上げる。

 この“安請け合い”は人間関係において日常的に展開される事象であり、おそらく皆さんもよく経験されていることであろう。
 
 早速私事に入ろう。
 私自身の最近の記憶を辿ると、3ヶ月程前まで所属していたスポーツジムで少し親しくなった女性より「一緒にダンスプログラムに参加しましょうよ!」との誘いを再三受けた経験がある。 私もお気に入りの同年代の女性で今後も付き合いたい気持ちはあるのだが、既に団体プログラムには参加しない意思を固めていた私はその誘いに多少迷いつつも「私は団体プログラムへは参加しない意思が強いの。我がままな人間で本当にごめんなさい。」ときっぱり言って断り続けたものだ。 (参考のため、私の思いを理解してくれたこの女性とのお付き合いはその後も“さっぱり、あっさり”とした関係で継続している。)

 人間関係における“安請け合い”と見聞した場合、経済負担も伴う割には何の実りも無い形骸化した付き合いであるが故に一番避けたいのは 「冠婚葬祭」 をおいて他にないのではなかろうかと私は思いつくのだが、如何であろうか??
 現在は「冠婚葬祭」も簡略化する傾向にあって、人間関係においてさほどの苦悩はないのかもしれない。

 未だこの「冠婚葬祭」儀式が濃厚に行われていた時代に私が勤めていた民間企業において、同僚が経験した話をしよう。 
 その同僚は、さほど親しくもない人物の結婚式になど出席したくなかったようだ。 ただ当時は特に“お慶び”の行事である結婚式とは招待されれば出席するのが当然の礼儀であり、到底“お断り”できない時代背景であった。
 それでもその人には果敢にも親しくもない同僚の「結婚式」出席を断る勇気があったのだ!
 職場内において異例の“「結婚式」出席断り”騒動はすぐさま職場全体に広まったものだ。 賛否両論あった中で、私は当然ながらその人物の“断り決断力”に感嘆したものである。

 「葬儀」とてそうであるかのかもしれない。
 私は長年都会に暮らしているからであろうが、人の「葬儀」にほとんど出席する機会の無い人間である。 いや、そうでもないかもしれない。さほど親しくない人物の訃報が突然舞い込む事は何度かあった。 そんな場合、どう対応したらよいのかを心得ない私は、せいぜい後にいくばくかの「香典」を送り届けて済ませたものである。
 それでも今までの我が人生において最大に“いい人”である事を演出せねばならなかったのは、田舎の父の葬儀であったように思う。
 我が父の葬儀であるから出席せねばならないのは当然の事であろうが、正直言って父が“夜中に突然死した直後”に駆けつけろ!との母からの命題とは、遠方に住み子供が小さい我が身にとっては実に大いなる負担であった。 葬儀の場には郷里の親戚や近隣住民が押し寄せているであろう事を鑑みて、まさに父の実子として“いい子”である事を演出しようとその夜は一睡もせずに朝一番の飛行機で、幼い子どもにも黒服を着せて一目散に郷里へ飛び立ったものだ。
 3日程我が田舎に滞在し慌しく葬儀を終えた後東京の自宅に帰った私は心身共に憔悴状態で、直後に帯状疱疹を患いしばらく子育てもままならず苦しんだものである。
 (その後、「今時、葬儀など簡素化しろ! 生きている人間が健全に暮らせてこその世の中だ!」 と我が母を教育し続けている無宗教の私は鬼なのか……

 上記の我が父の葬儀に関しては“安請け合い”の部類ではなく、体を壊してでも出席して当然の事情だったのかもしれない。 (ただ、父の突然死直後に早朝一番に遠方より幼い子どもを連れて駆けつけた身としては、我が命を失いそうな程に過密なスケジュールであった事は事実だ。)


 それはそうとして、世の中には小池氏が書かれているような人間関係における安易な“安請け合い”が横行している感触が私にもある。
 その背景には必ずや“人間関係の希薄化”現象が根底に存在するのであろう。
 親しくもない相手に対して「これ手伝って」「展覧会に出席して」と要望する背景には、対等な関係ではなく要望する側が上位に位置する歪んだ人間関係が存在するのかもしれない。 その種の上下関係が存在する場合においては尚更、下の立場の人間が素直に断ってあげるのが上位に位置する人間にとって今後の身のためともなろう。

 ましてや真に対等な人間関係においては、自分の思いを直言すれば済む事である。  それを直言して成り立たない人間関係など元々大きな歪みを内在している証拠であり、そもそも長続きしない関係でしかないはずだ。 
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