今週から始まったNHKの連続テレビ小説 「カーネーション」 が面白い。
テレビ(特にドラマ)をほとんど見ない原左都子が、NHKテレビ昼の天気予報とニュースをチェックした流れでこのドラマシリーズだけはずっと見ている事をバックナンバーで何度か綴っている。
過去においてしばらく視聴率低迷状態を続けていたこの連続テレビ小説は、3シリーズ前の「ゲゲゲの女房」で息を吹き返した。
そして前回の「おひさま」も高視聴率をゲットできた模様である。
確かに上記両ドラマ共に全体を通して内容が充実していた。(本エッセイ集の2010年9月バックナンバー「ゲゲゲの女房が高視聴率を続ける訳」、2011年8月「退職を決断する時」に於いて両ドラマの論評を展開しておりますので、よろしければご参照下さい。)
ところがこのNHK連続テレビ小説に於ける全体を通しての欠点とは、「走り出し」が貧弱な事にあるのではないかと原左都子は以前より分析している。
高視聴率を上げた「ゲゲゲ…」にしても「おひさま」にしてもそうだった。 今となっては「ゲゲゲ…」の物語が一体どうやって始まったのかの記憶すらない。 「おひさま」に至っては、若い女学生がはしゃぐ“白紙同盟”を登場させるその陳腐なストーリー展開の手法に “またかよ…” の思いでゲンナリさせられたものだ。
という訳で連続テレビ小説長年愛好家の私にとっては、その滑り出しとはいつも“我慢のしどころ”と言ったところである。
今回の「カーネーション」に関しては、個人的な理由で放映前より楽しみにしていた。
我が娘が通う私立中高が、「カーネーション」ヒロインのモデル女性の長女にあたるファッションデザイナー・コシノジュンコ氏が手がけた制服を採用しているのだが、その制服のデザインや作りの良さ故の機能性が素晴らしいのだ! 中高6年間(一部は3年間)ドライクリーニングを繰り返しつつ日々酷使しているにもかかわらず、そろそろ卒業を迎えようとしている今尚“まっさら状態”なのである。 姉妹が3、4人いても皆が着まわして卒業できそうで、一人っ子の我が家などこのままお蔵入りがもったいないくらい新品同様である。
(私がウン十年前に3年間着用した公立高校の制服などデザインもダサければ、時代背景的要因も大きいのだろうが卒業時にはテカテカボロボロ状態で捨てるしかなかったものだ…)
ところがドラマ放送に先立つ予告編を見て、またもや失望させられた私である。
どうもやはり“ドタバタ劇”の様相だ。 この国の一般国民は“ドタバタ劇”を好むのか?? ドタバタはしゃぐ事イコール“明るい未来”でもあるまいし、何でドラマ制作者の発想がこれ程通り一遍で貧弱なのだ??
そして「カーネーション」は今週から始まった。
やはり予想通り子役の女の子が暴れてはしゃぐ“ドタバタ劇”が展開される中で、この一週間に関して言えば私は毎回感動し涙を流させてもらっている。
原左都子が日々何に感涙しているのかと言うと、たった15分間のドラマの中に毎回毎回きちんと “クライマックス” が演出されているそのストーリー展開の素晴らしさにおいてである。 その演出力に私が単純に釣られ乗せられているに他ならないのだが、そもそも作り話の範疇に過ぎないドラマとはこうあるべきではなかろうか。
例えば初回放送時には「岸和田だんじり」が取り上げられていた。 だんじりの最上部の屋根に乗って総指揮を執る“大工頭?”の役割の重みと緊張感が十分に演出されていた。
この「岸和田だんじり」場面の撮影にはスタッフ・キャスト共に並々ならぬ事前訓練と日数を費やしたことであろう。 そんな現場の危機感溢れるエネルギッシュな思いが伝わるからこそ、ヒロイン子役糸子の演技力も視聴者に届くというものである。
そして私にとって肝心なのは、今回のヒロイン糸子は後々世界的デザイナーとして活躍する娘を3人も育て上げているという事実である。 そんな糸子が大正時代において如何なる動機で“洋裁”に目覚めたかに関して、一視聴者の私は興味深々だった。
ドラマが開始されてわずか2日目の事だったと記憶しているが、糸子は富豪である母方の実家に正月の挨拶に行く。 そこで偶然目にしたのが西洋人が色彩豊かなドレスをまとって踊る“舞踏会”だったのだ。 この場面が史実に基づいて描かれたのか否かについては私は承知しないが、この舞踏会の一場面は私にとってまさに劇的だった。 これぞヒロイン糸子の夢とロマンであり、この物語はこの場面なくして今後成り立たない程の“クライマックス”観を感じ、その日私は15分のドラマが終った後もしばらく感涙に震えたものだ。
ついでに本日(10月8日)放送された「カーネーション」では、少女糸子はついに洋裁を実践する事と相成る。
その描き方も素晴らしかった。 近所のおばさんから“あっぱっぱ”を貸してもらった糸子はそれをすぐさま自宅に持ち帰り、呉服屋である自宅の“はぎれ”を利用して自ら洋裁に着手する事と相成る。 その下手な洋服が仕上がっ場面にも“クライマックス”観が感じ取れた私は感涙しつつ拍手を贈った。
本日の放送の最後から大人役の糸子にバトンタッチしたようだ。
どうも大人の糸子も当初より“ドタバタ”と登場したのが原左都子としてはほとほと疲れる思いだ…
これを見る東日本大震災被災者にとって“ドタバタ劇”はどう映るのだろう?
NHKドラマ制作者は、とにかく元気にはしゃぐヒロイン像こそが好まれるとの分析の上でこのようなヒロインを登場させているのだろうか?
もちろん人それぞれの好みは多様であろうが、幼少の頃より静寂を好む私など“ドタバタ劇”は鬱陶しい限りで、それを見せられるとイライラするというのが正直な感想である。
ただスタートより一週間の「カーネーション」のドラマ展開を考察する限りにおいては、今後に期待出来そうだ。
半年間(撮影は9ヶ月間行われると見聞しているが)はドラマ制作者にとっては長丁場であろうが、こんな一視聴者の思いを裏切らないドラマ展開を半年後まで続行して欲しいものである。
テレビ(特にドラマ)をほとんど見ない原左都子が、NHKテレビ昼の天気予報とニュースをチェックした流れでこのドラマシリーズだけはずっと見ている事をバックナンバーで何度か綴っている。
過去においてしばらく視聴率低迷状態を続けていたこの連続テレビ小説は、3シリーズ前の「ゲゲゲの女房」で息を吹き返した。
そして前回の「おひさま」も高視聴率をゲットできた模様である。
確かに上記両ドラマ共に全体を通して内容が充実していた。(本エッセイ集の2010年9月バックナンバー「ゲゲゲの女房が高視聴率を続ける訳」、2011年8月「退職を決断する時」に於いて両ドラマの論評を展開しておりますので、よろしければご参照下さい。)
ところがこのNHK連続テレビ小説に於ける全体を通しての欠点とは、「走り出し」が貧弱な事にあるのではないかと原左都子は以前より分析している。
高視聴率を上げた「ゲゲゲ…」にしても「おひさま」にしてもそうだった。 今となっては「ゲゲゲ…」の物語が一体どうやって始まったのかの記憶すらない。 「おひさま」に至っては、若い女学生がはしゃぐ“白紙同盟”を登場させるその陳腐なストーリー展開の手法に “またかよ…” の思いでゲンナリさせられたものだ。
という訳で連続テレビ小説長年愛好家の私にとっては、その滑り出しとはいつも“我慢のしどころ”と言ったところである。
今回の「カーネーション」に関しては、個人的な理由で放映前より楽しみにしていた。
我が娘が通う私立中高が、「カーネーション」ヒロインのモデル女性の長女にあたるファッションデザイナー・コシノジュンコ氏が手がけた制服を採用しているのだが、その制服のデザインや作りの良さ故の機能性が素晴らしいのだ! 中高6年間(一部は3年間)ドライクリーニングを繰り返しつつ日々酷使しているにもかかわらず、そろそろ卒業を迎えようとしている今尚“まっさら状態”なのである。 姉妹が3、4人いても皆が着まわして卒業できそうで、一人っ子の我が家などこのままお蔵入りがもったいないくらい新品同様である。
(私がウン十年前に3年間着用した公立高校の制服などデザインもダサければ、時代背景的要因も大きいのだろうが卒業時にはテカテカボロボロ状態で捨てるしかなかったものだ…)
ところがドラマ放送に先立つ予告編を見て、またもや失望させられた私である。
どうもやはり“ドタバタ劇”の様相だ。 この国の一般国民は“ドタバタ劇”を好むのか?? ドタバタはしゃぐ事イコール“明るい未来”でもあるまいし、何でドラマ制作者の発想がこれ程通り一遍で貧弱なのだ??
そして「カーネーション」は今週から始まった。
やはり予想通り子役の女の子が暴れてはしゃぐ“ドタバタ劇”が展開される中で、この一週間に関して言えば私は毎回感動し涙を流させてもらっている。
原左都子が日々何に感涙しているのかと言うと、たった15分間のドラマの中に毎回毎回きちんと “クライマックス” が演出されているそのストーリー展開の素晴らしさにおいてである。 その演出力に私が単純に釣られ乗せられているに他ならないのだが、そもそも作り話の範疇に過ぎないドラマとはこうあるべきではなかろうか。
例えば初回放送時には「岸和田だんじり」が取り上げられていた。 だんじりの最上部の屋根に乗って総指揮を執る“大工頭?”の役割の重みと緊張感が十分に演出されていた。
この「岸和田だんじり」場面の撮影にはスタッフ・キャスト共に並々ならぬ事前訓練と日数を費やしたことであろう。 そんな現場の危機感溢れるエネルギッシュな思いが伝わるからこそ、ヒロイン子役糸子の演技力も視聴者に届くというものである。
そして私にとって肝心なのは、今回のヒロイン糸子は後々世界的デザイナーとして活躍する娘を3人も育て上げているという事実である。 そんな糸子が大正時代において如何なる動機で“洋裁”に目覚めたかに関して、一視聴者の私は興味深々だった。
ドラマが開始されてわずか2日目の事だったと記憶しているが、糸子は富豪である母方の実家に正月の挨拶に行く。 そこで偶然目にしたのが西洋人が色彩豊かなドレスをまとって踊る“舞踏会”だったのだ。 この場面が史実に基づいて描かれたのか否かについては私は承知しないが、この舞踏会の一場面は私にとってまさに劇的だった。 これぞヒロイン糸子の夢とロマンであり、この物語はこの場面なくして今後成り立たない程の“クライマックス”観を感じ、その日私は15分のドラマが終った後もしばらく感涙に震えたものだ。
ついでに本日(10月8日)放送された「カーネーション」では、少女糸子はついに洋裁を実践する事と相成る。
その描き方も素晴らしかった。 近所のおばさんから“あっぱっぱ”を貸してもらった糸子はそれをすぐさま自宅に持ち帰り、呉服屋である自宅の“はぎれ”を利用して自ら洋裁に着手する事と相成る。 その下手な洋服が仕上がっ場面にも“クライマックス”観が感じ取れた私は感涙しつつ拍手を贈った。
本日の放送の最後から大人役の糸子にバトンタッチしたようだ。
どうも大人の糸子も当初より“ドタバタ”と登場したのが原左都子としてはほとほと疲れる思いだ…
これを見る東日本大震災被災者にとって“ドタバタ劇”はどう映るのだろう?
NHKドラマ制作者は、とにかく元気にはしゃぐヒロイン像こそが好まれるとの分析の上でこのようなヒロインを登場させているのだろうか?
もちろん人それぞれの好みは多様であろうが、幼少の頃より静寂を好む私など“ドタバタ劇”は鬱陶しい限りで、それを見せられるとイライラするというのが正直な感想である。
ただスタートより一週間の「カーネーション」のドラマ展開を考察する限りにおいては、今後に期待出来そうだ。
半年間(撮影は9ヶ月間行われると見聞しているが)はドラマ制作者にとっては長丁場であろうが、こんな一視聴者の思いを裏切らないドラマ展開を半年後まで続行して欲しいものである。