原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

人生は “一発勝負!” の連続

2014年03月30日 | 自己実現
 少し前の朝日新聞朝刊「声」欄に、入学者選抜(あるいは就職志望者選抜)に於ける“一発勝負”試験を擁護・賞賛する趣旨の男性読者よりのオピニオンが取り上げられていた。

 残念ながらスクラップを保存し忘れているため、原左都子の記憶に頼り(かつ内容を勝手に私なりにアレンジしつつ)上記投書を紹介しよう。

 現在、大学等の入学試験に於いて受験者に一発勝負試験を課す事を避け、受験者を長期的あるいは多角的視点から評価しようとの選抜施策が拡大しているようだ。
 ところが、人が歩む現実の世の中とは“一発勝負”こそが避けて通れない道程ではなかろうか?
 その最たるものの例が、オリンピックである。 五輪代表選手達はたった10秒、ごく一瞬の本番のために命がけで日々壮絶な努力と苦悩の下練習に励み、その成果を大舞台で最大限発揮するべく4年に一度の五輪に挑んでいる。
 私(投書者)自身、過去に於いて入学・就職様々な“一発勝負”試験を経験してきた。 その結果届いた通知は「合格」のみならず「不合格」の場合ももちろんあった。 「不合格」通知が届くと誰しも一瞬辛いものだが、それがその後の成功を掴み取る礎となる事もあり得る。
 “一発勝負”こそが人生の関門に於ける有効的な選抜方式であり、それに耐えて関門を潜り抜ける能力を有する者こそが真の勝利者ではなかろうか。 
 (以上は、朝日新聞「声」欄投書より原左都子が勝手にアレンジして紹介したもの。)


 ここで一旦、原左都子の私論に入ろう。

 上記朝日新聞投稿者のご意見にほぼ賛同する私だ。
 特に大学入学者選抜に関し、政権をはじめとする世の中が“一発勝負”を回避しようとしている風潮を批判するエッセイを、本エッセイ集2013.11.21バックナンバー 「“人物本位入試”が掲げる人物善悪の基準って何??」に於いて展開しているため、以下にその一部を紹介しよう。

 (昨年)11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。    (中略)
 (政府が言うところの)「人物本位入試」とやらが実際に大学入試現場で実施されることの大いなる弊害の程を検証していこう。
 朝日新聞(昨年)11月6日文化面記事「『人物本位』入試の怪シサ フーコーらの議論から考える」なる記事の一部を要約して紹介しよう。
 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。
 そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。 氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。 氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 フーコーは一方で、権力からの強制が強まったとして、それを意に介さずのらりくらりと跳ね返す力もまた人間に備わっていると考えていたという。
 原左都子の私論だが、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??  この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう??? 上記のフーコーを手始めとして過去の哲学者達の教えを少しは学び直した後に、政権担当者が大学入試改革案を再び持ち出しても遅くはなかろう。
 人間の個性とは実に多様だ。 そして、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?
 大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。  それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。  それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用。)


 さらに、原左都子の私事及び私論に入らせていただこう。

 私自身も朝日新聞投書者氏同様、世代的に学校も就職もすべて“一発勝負”試験のみしか経験していない。 そしてこれまた投書者同様に、結果として「合格」通知のみならず「不合格」通知をも受け取っている身である。 ただ人生経験を経るにつれ、たとえ「不採用」通知が届いたとて採用者側の力量(キャパなさと言うべきか??)の程を思いやれる心情にもなるものだ。
 
 確かに、未だ人格を築き上げている人生途上のうら若き世代相手の入試や就職採用試験に際し“一発勝負”判定とは、する側もされる側も厳しい現実なのかもしれない。

 それでも、私も今尚人生とは“一発勝負の連続体”に他ならない感覚を抱きつつこの世を生き延びているのだ。
 「ここでしくじったら信頼を失う」なる緊迫した場面に直面する事態は、この原左都子とて日々数多い。
 例えば、義母の財産管理を一任されている立場で私が税務申告で失敗したならば、今後義母の保証人の立場を失うであろう。
 あるいは、自己所有賃貸借物件の補修工事に於いて賃借人である入居者氏より同意が得られなかった場合、多額の賠償責任を追うであろう事態も、現在の私にとって“一発勝負”責任を負わされている際どい立場である。


 だからこそ、たとえ大学入試(就職試験)“一発勝負”選抜に合格出来なかった程度の事で「若者よ、弱音を吐くな!」と言いたい思いでもある。

 むしろ、人生とは日々“一発勝負”の連続であることを年齢を重ねる毎に実感させられる思いだ。
 
 長期的視野や多角的視野で自分を評価してくれ、だと?!?
 そんな弱音を吐いている間に世の中とはどんどん変遷するし、この先もっとあなた方の居場所がなくなりそうだよ。

 世の国家政策が如何に移り行こうと、個々人がこの世を生き抜く最後の砦として日々“一発勝負”可能な強靭な精神力とそれを支えるバックグラウンド能力を培おうではないか。