一時前の、我が国の社会風潮として。
身近な他者に対して平然と「暗い」と後指を刺す時代が、我が国に於いて確かに存在していた事実を私は今尚記憶している…
そんな侘しさを悲しく思った私は。
過去に我がエッセイ集にて「人間は明るくあるべきか?」と題するエッセイを公開してしている。
当該文章を我が娘の大学時代にレポートして提出させているため、以下にそれを反復させて頂こう。
本レポートの趣旨は、○○先生が「社会心理学」において講義された多種の心理学理論の中から、第6回「ステレオタイプ」~第11回「対人魅力」の内容に関連すると私が判断する具体例を記した題材を取り上げ、講義との関連について述べることにある。
私が今回取り上げる題材は、原左都子著「原左都子エッセイ集」である。 これは、私の母である著者 原左都子(ペンネーム)が2007年9月よりネット上に公開しているエッセイ集であり、その内容は時事等の社会問題など題材を幅広く取り上げてそれに対するオピニオン論評をエッセイとして綴ったものである。
上記エッセイ集「人間関係カテゴリー」バックナンバーから、2008年8月公開の「人間は『明るく』あるべきか?」と題するエッセイの一部を取り上げ、○○先生の講義内容との関連について述べたいと思う。 参考のため、これは著者である母が当時中学生だった娘の私の事を綴ったエッセイでもあるのだが、早速その内容を以下に要約して引用する。
<自宅での昼食時間帯に放送されているテレビドラマに“涼子”という役名の中1少女が登場するのだが、これが我が家の中学生の娘に瓜二つであり、とても他人とは思えず私は涼子の母になった気分だ。 涼子は素直で真面目な女の子である反面、寡黙で自己表出が下手なところがあるため、周囲から“暗い”イメージを持たれている。この“暗い”涼子を何とか明るくしようと(私に言わせてもらうと余計な)お節介を周囲が焼くとのドラマ設定だ。その後涼子は級友とダンスに親しむ等により少しずつ明るくなるとの、よくある陳腐なストーリー展開だ…。 ここで私はどうしても「待った!」をかけたい。涼子は「明るく」なければならないのか? そもそも涼子は「暗い」のか? 私の目には涼子が登場した当初「興味があるものは?」との質問に、消え入りそうな声で「ドストエフスキー…」と答えたそのままで、涼子は十分魅力的な存在なのだが…。 涼子風の娘を持つ親としては、軽はずみなドラマ作りこそ勘弁願いたいものだ。 まず「明るい」「暗い」とは如何なる概念であるのか? 人間集団現場において主観的表現で安易に語られるそれらの用語の分析から、人の上に立つと自覚する人間は考察し直す必要もあろう。とりあえずは、ドラマの涼子も我が娘もそのままでありのままで十分に素敵な女の子だよ。>
母が上記エッセイをネットで公開して後数年の年月が流れている。 私が大学生になったらその種の事象を学問レベルで分析できるよ、とずっと言い続けている母でもある。
人間は「明るく」あるべきか?との問題提起の根源的発想は、○○先生が講義された「ステレオタイプ」理論や「自己開示と自己呈示」理論内での分析対象と捉える。 それはともかく、私は○○先生が講義要録の最後に記して下さっている「自分自身に対して心配しすぎないでね」や「なんでも適材適所。自分の性格をよく把握してアピールの仕方を考えよう」等の言葉に励まされている一学生であることには間違いない。
(以上、我が娘が大学生時代に、レポート課題として提出した文書より引用したもの。)
まさにその当時は、他者に対して「暗い」と蔑むマイナスの人間関係がまかり通っていた。
じゃあ、一体「明るい」って何なのか? そもそも人間は明るくあらねらならないのか!! との大いなる反発心を抱きつつ我が「原左都子エッセイ集」にてそのテーマのエッセイを公開したものだ。
それを、我が娘が大学から課せられたレポート課題として提出したとの訳だが。
その後10年足らずの年月が過ぎ去り…。
そう言えば、この世は既に「明るくあるべき」とのポリシーを忘却して長年が経過している気もする。
むしろ下手に笑顔を作ると「慎め!」との暗黙のお叱りを受ける程に、世は全体的に「暗く」成り下がっている印象すら受ける…
これを「進化」と受け止めるべきか…
常に他者に対して笑顔で対応したい私など、大いなる抵抗感を抱くのに加えて…
本来自由であるべき人の表現であるはずなのに。 それすら受け入れられない世の中に移ろいだ現在。
何だか、恐ろしい社会に成り下がりつつある現実を憂えるのだが…