原左都子自身は、おそらく孫とは縁が無い道を歩む人間であると予想している。
そのため、あくまで“他人事感覚”での今回のエッセイ論評だが。
昨日2019.12.05付朝日新聞「声」欄に、「じーじ」「ばーば」論議に関する投稿が2題掲載されていた。
それは後回しにして、いきなり私事に入るが。
我が家の娘は幼少の頃より、家族の呼び方が特異的だった。 何故ならば、子供とは親を模倣する生き物である故だ。
我が夫婦は、子供が産まれた後も決して互いに「おとうさん」「おかあさん」との呼称を使用しなかった。 私側に亭主から「おかあさん」と呼ばれることに大いなる抵抗感があった故だ。 「今後も名前の〇子で通そう。」と主張し、亭主に対しても「〇〇(亭主の名前」(参考だが、私の機嫌が良いときは「〇〇ちゃん」と“ちゃん付け”にして呼んでやっている。) 亭主の方は、未だに「〇子」一辺倒だが。
それを、必然的に娘が“可愛いくちばし”で真似た。 亭主を「〇〇」と呼び捨てだ!
さすがに多少罪の意識を感じた私が、日頃から亭主を“ちゃん付け”で呼ぶように心した後は、娘もそれを真似るようになった。
郷里の我が父が60歳代で急性心筋梗塞にて突然死した直後の、葬儀会場での話題だが。
私と娘より1日遅れで郷里の葬儀場に到着した亭主を見つけた、当時幼稚園児だった娘が。
何と100人近い葬儀場ロビー出席者の目前で、亭主を指さして「〇〇ちゃんが来たよ!!」と大声で叫んだのだ。 これに一斉が大爆笑だ!
その時、私は葬儀場別室で父の棺桶番を担当していたのだが、葬儀場では稀であろうその“大爆笑”の理由が分からずにいた。
ただ、この事件はプラスのハプニングだったようだ。 そもそも葬儀が楽しい人間など一人として存在しないであろう。 ほとんどが義務感で出席している中、まだ幼き娘の口から咄嗟に出た、自分の父を“名前にちゃん付け”で呼んでいるとのその可愛らしさこそに、一時出席者の心が和んだようだ。
話題が変わるが、私が一番嫌い(というよりも“気持ち悪い”呼称は「パパ」「ママ」だ。 他人様はご自由になされば良いが、これだけはどうしても気持ち悪くて勘弁して欲しい私は、当初「おかあさん」呼称を娘に教えた。 (参考だが、上述の通り亭主はあくまでも「〇〇ちゃん」で一貫していたが、亭主本人もまんざらではなかったようだ。)
その娘からの「おかあさん」呼称もおそらく小学生頃に自然消滅し、その後は今に至ってずっとお互いの愛称で呼び合っている。 (その愛称を披露するならば、私は「ぱっか」、娘は「ムン」だ。 その由来に関しては、機会があればいつか述べよう。)
さてさて、朝日新聞「声」欄の投書に戻ろう。
投書内容の紹介は省略するが、要するに2本の投書共々「じーじ」「ばーば」と呼ばれるのが嫌だ! との趣旨である。
これ、私に言わせてもらうならば、「嫌だから別の呼び名にして!」とお孫さんや周囲に直言すれば済む話ではなかろうか?
その際に私が推奨するのは、表題に掲げた通り、ご自身の名前に「さん」か「ちゃん」を付けて呼んでもらうのが一番簡単ではなかろうか??
我が家でも、娘にとっては「おばあちゃん」が現在も二人いる。
両人共々「おばあちゃん」では紛らわしいため、私は自主的に義母を「〇〇さん」と名前にさん付け、そして実母を「ばーさん」と呼んで区別している。 実際本人に会う時は、義母は「おかあさん」そして実母は「あんた」と呼ぶ機会が多いかな??
最後に究極我が勝手な感覚を語らせてもらうと。
「じーじ」「ばーば」は全く他人の立場として聞かされるのも、気持ち悪さの極みである。 😨 😱