冒頭より、本エッセイ集2019.06.06 公開の冒頭表題と同題名のバックナンバーの一部を再掲載させていただこう。
ネット情報によれば、どうやら殺害された長男氏は、既に中学生頃より学校にていじめを受ける等々の問題を抱えていたようだ。 その後も引き続き諸問題が解決しないままに現在に至ってしまった様子だ。
にもかかわらず44歳にて殺害されるまで、一度足りとて家族が適所に相談を持ちかけたらしき様子が見当たらない。
ただ、その家族の思いが分かる気もする。
にもかかわらず44歳にて殺害されるまで、一度足りとて家族が適所に相談を持ちかけたらしき様子が見当たらない。
ただ、その家族の思いが分かる気もする。
我が家の娘も多少の不具合を持って生まれたが故に、特に娘幼少時代には親子共々多難な日々を経験してきている。
そんな我が家でも、娘小2の秋にて一切合切の公的・私的機関への相談は終了し、その後は“サリバン(私の事だが)指導”のみに絞り込んで娘の成長を見守って来ている。
その決断を下したのには、様々な理由がある。
一番大きな理由は娘本人の成長度合いが素晴らしく、今後は相談機関に依存せずしてサリバン指導一本でやって行ける! との確固たる自信が私に芽生えた故だ。
マイナス面での理由もあった。 (これに関しては、前回のバックナンバーにて公開したため割愛する。)
このバックナンバー事例は極端とも言えるが、そうでなくとも、何と言うのか、被相談者と相談者間に“上下関係”を感じさせられるような場面を私も数多く経験している。 こんな場で我が(医学・教育)バックグラウンドを執拗に表に出すことは、専門家が一番嫌うであろう事を承知している故に、自ずと相談者である私が控えめな態度にならざるを得ない場面も多発する。 その事態イコール、私側からの発言が抑制され、正確な相談が不能な感覚を抱くことも多かった。
そんなこんなで娘小2の秋に一切の相談活動を終了したのだが、これが我が母娘の場合、その後大きく功を奏する結果となったと自負している。
元農水次官による長男殺害事件に話題を戻すと。
当該家庭が、何故適当な公的(私的)相談所に長男の問題行動に関する相談を持ちかけなかったのかに関しては、計り知れない。
一つ考えられるのは、国家事務次官としてのプライドがあったのではなかろうか?
あるいは、相談したところで解決策が得られない事を頭脳明晰な父親が予測した可能性もある。(誤解を恐れず言うならば、私が娘の相談を終焉した理由の中にもそれがあったのも事実だ。 相談員の資質が低く、こちらが発言を選択せねばならない状況が幾多あったことか…。)
実際問題、同様の子供が抱える問題を相談したにもかかわらず、結果としては何らの支援も得られず最悪の事態に至っている事例は悲しいかな社会に数多い。
そして、元農水次官が実行した「自力救済措置」。
この長男は、生前「真っ先に愚母を殺す!」と宣言していたとの情報もある。 母・息子関係が劣悪だった事実を物語る発言だ。
長男が中学生の頃いじめに遭っている時に誰かが親身に向き合えたならば、こんな残虐な結末とはならなかったのか??
その人物として思い浮かぶのはやはり母親だが…
下手な発言は控えるべきだが、実際問題、一番身近に子供を救える人物とは母親でしかない。 何をさておいても御母上が長男を守るべく行動に出ていれば、これ程長男の心が崩壊する事も無かったのか、と思ったりもする…。
とにもかくにもこの事件、一家3人がずっと地獄を彷徨っていた光景が我が目に浮かんでしまう…。
(以上、2019年6月バックナンバーより、一部を引用したもの。)
引き続き、ネット情報より当該事件に関する記事を引用しよう。
東京都練馬区の自宅で今年6月、無職の長男を刺殺したとして、殺人罪に問われた元農林水産事務次官の熊沢英昭被告(76)は11日、東京地裁(中山大行裁判長)で開かれた裁判員裁判の初公判で「間違いありません」と起訴内容を認めた。
警視庁や捜査関係者によると、長男は中学生の頃から家族に暴力を振るうようになった。 中高一貫校を卒業後、私立大や専門学校、大学院に通い、就職した時期もあった。 両親とは別居していたが、事件前の5月25日に電話で「(実家に)帰りたい」と伝え、同居を開始。 その後は自宅に引きこもってゲームで遊び、両親に暴力や暴言を繰り返したとみられる。
6月1日の事件直前、隣接する小学校で開かれていた運動会の音に腹を立てて「うるせえな、ぶっ殺してやるぞ」などと発言し、熊沢被告から注意されて口論になったとされる。事件後に被告が自ら「息子を刺し殺した」と110番して発覚した。
熊沢被告は「自分が刺さなければ(長男に)殺されていたと思う。人に危害を加えるかもしれないと不安に思った」などと供述していたといい、体にはあざも残っていたという。
(以上、比較的最近のネット情報を引用したもの。)
結論にならない私論に入ろう。
殺害された息子氏が当時44歳だったとのこと。 我が娘と20年少しの開きがある。
我が娘の「発達相談」を開始したのが2歳時だったが。 おそらく、母親の私に医学や教育関係業務の経験があったからこそ、娘の不具合に気が付くのが早かったと振り返る。
当時は未だ「発達障害」との言語はなかったか、あるいはあっても一般的ではなかった記憶がある。
我が高校教員時代に「LD」「ADHD」等の言語に触れる機会はあった。 何分、「底辺高校」勤務だった故に、もしかしたら底辺中の底辺を彷徨う生徒(度重なる失言をお詫びするが、話を分かり易くするために敢えてこの差別発言を使用させていただく。)に、これらに匹敵する対象者が存在するかもしれない、等の認識が一部の教員間に存在した。 これに関しても教員間で意見の齟齬があり、「そんなものは無い! 本人の努力不足か家庭環境が悪い!」と、悲しいかな決めつける教員も少なからず実在した。
私はどうやらその種の生徒達に懐かれるタイプのようで、それらの生徒が積極的に私に接触してくれる事実が功を奏した。 いやいや実に可愛いのだが、高校生にしてそれ程までに“懐いてくる”こと自体が問題行動であるとも受け取れたものだ。
出産退職後も、それらの生徒の一部より手紙や電話をもらった。 誠意的に対応してきたつもりだ。
ある女生徒などおそらく本人が30代半ば頃まで私の元に定期的に電話をかけてきた。 その後我が家が転居し電話番号が変わったため、今現在は音信不通状態だ。 今、どうしているだろう…
ただ、相談とはこれ程までに長期間に渡る作業ではあるまいか? 無償かつ自身の時間を犠牲にせずして成立し得ない生業ではなかろうか?
元農林水産省事務次官氏の長男殺害事件に関して、相談専門筋が「相談して欲しかった」とニュース報道等で語るのを見聞するにつけ…
そりゃ、無理じゃないか?? と思わざるを得ない。 一度のみ相談者より話を聞いて、適当な回答をして済まされる問題であるはずが無い!!
相談者と長年に渡り “1対1” の関係で親身に相談に乗る体制作りを構築することが先決問題と結論付けたい気もする。
その場合、それが可能な相談員育成をするとの手段もあろう。
もしこの私でもよろしければ、その「相談員」に応募したい気もするが…
ただ、それをボランティアでさせられるのは、我が信条に基づききっぱりとご勘弁願いたい! その道のプロ経験が無ければ絶対的に成せない生業と結論付ける故だ。