写真は、昨日公開した「左都子の『経営管理総論』小講座」より冒頭に掲載した写真を再掲載したもの。
この写真の比較的上部をご覧いただくと、表題の「訓練された無能」との記述がある。
この言葉は、れっきとした「学術用語」である。
我が2度目の大学・大学院講義ノート内の「経営管理総論」より、これに関する部分を引用すると。
1900年代は管理機構のモデル作りが盛んに行われ、「機械の合理化」や「人間も含めた合理化を如何に行うか?」が学者達の間で議論された。
マックス・ウェーバーは、自らが提唱した「官僚制」に於いて、「官僚制とは規則による機械的システム」であり最も合理的な組織だと述べている。
規則を守れば誰が行っても予定された結果が出て合理的、かつ、結果、プロセスが予測出来る(計算可能性)としている。
しかし、予定されざる結果(逆機能)も発生した。(参考だが、現在では「官僚制」とはこの“逆機能”のイメージで捉えられている。)
その“逆機能”の一つが「訓練された無能」だ。
その他の“逆機能”として、「最低許容行動」(これだけやっていればよいという考え)、「目標置換」(規則を守ることが目標となってしまう現象)、「個人的成長の否定」(スペシャリストが養成出来る反面、このマイナス効果も発生する。) 等々がある。
ただ、「官僚制」とは全く駄目なものではなく、状況により決定されるべくもの、との考え方もある。
(以上、我が講義ノートより一部を引用したもの。)
私事と私見に入ろう。
「訓練された無能」。
聞かされて不快であるし、もしもこれが自分の事を指摘されているならば「痛い」言葉でもある。😫
実は私は2度目の大学へ進学し「経営学」を学ぶずっと以前より、自身がこう指摘される事態を「怖れて」いた。
私は、元々パラメディカルの一員として世に出ている。
私が従事したのは英語で「Medical Technologist」と表現されている職種なのだが、まさに最先端医学テクノロジーを駆使しつつ医学・医療に貢献する使命が課せられていた。
そのための修行は実に厳しくもあった。 大学現場でそれを教授されつつ、実習・実験を日々繰り返したものだ。(要するに十分に“訓練”されたと言えよう。)
国家資格取得後就職し、職場では“即戦力”としての働きを期待されていた。
ただたとえ高度な専門職種であろうが、「慣れ」や「惰性」が生じてくるのは他職種も同様であろう。
職員の中にはその「惰性」に身を委ね、「訓練された無能」と成り果てる人材も少なからず存在することを私は見逃していなかった。😨
そうは成りたくない!、との思いが強靱だった私は、「訓練された無能」を回避せんと私なりに頑張ったことを思い起こす。
医学学会に積極的に出席するため全国を飛び回って医学(私の場合は「免疫学」だったが)最新先端情報を得たり、自ら業務の合間に試験研究に取り組み、医学学会発表をこなしたりもした。
その後大きく方向転換して2度目の大学受験を目指したのも、要するに“医学分野のみに”「訓練された無能」を回避したい一心だったとも表現出来そうに思う。
そして、私は30代初頭にして2度目の大学にて新たな学問に取り組んだ。
そこで様々な「社会科学」分野の学問と出会い、また「哲学」等周辺学問とも出会えた。
まだまだ我が脳内が活性化状態の時期に、素晴らしい経験を積めたと今でも嬉しく思っている。
「訓練された無能」。
実に耳障りで厳しい言葉だが…
既に20代にこれを回避せんと志していた私が、後にそれを語る学問に出会えたことに感謝したいものだ。
(我が「講義ノート」よりの引用小講座は、“新型コロナ自粛中”にまだまだ続ける予定でおります。)