原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

日本人は勝手にやってこれたのか??

2020年05月30日 | 時事論評
 今回の我がエッセイは、本日2020.05.30付朝日新聞 別刷「be」内コラム記事、 作家 保坂和志氏による 「夏の手前で 日本人は勝手にやってきた」 に対する反論の形となろうか。


 今回のエッセイは、保坂氏論評の部分部分を取り上げつつ、我が私論を展開させていただく形式としよう。


 「(日本は)政府が無能なのに、コロナ対策がなぜかうまくいっている」 
 これに対し保坂氏の友人男性は、「無能なのに、じゃなくて、無能だからこそうまくいっているんだ」とのご見解だそうだ。 
 日本人は放っておけば勝手に努力して、勝手にせっせと働いて、勝手にあれこれ工夫する、そういう人達の集まりなんだと、保坂氏のご友人がおっしゃるとのことだ。

 原左都子の見解だが。
 そもそもこの国の「コロナ対策」がうまくいっているとは思わない。 当初“日本のコロナ対策はばくち”とまで諸外国から後ろ指をさされた日本政府だった。 どうやら現在コロナが小康状態に入ったように一見国民皆が勘違いさせられているだけで、必ずや第2波、第3波が押し寄せるであろう。 (個人的には特に来年の冬が怖い気がしている…)  その原因とは確かに「政府が無能だから」であろう。 これには同意する。
 「日本人は放っておけば勝手に努力して…」云々に関しても、私は決してそうは思わない。   確かに日本人の特質として、“馬鹿素直”なところがある点は認めるがそれは「努力」と表現出来るほどの代物ではなく、そもそも主体性無き国民性と捉えている。  その“主体性の無さ”を作り上げたのは我が国の教育体制、すなわち政府の責任と判断している。  「工夫」に関しても、ちまちまどうでもよい事に関してはそれをする国民が存在する(失礼な表現をお詫びしますが)ようだが、基本的に創造性無き国民が多数である感覚を私は抱いている。 これに関しても教育体制が一番の原因であろう。

 
 保坂氏による「日本人は規則に対する強い敬意がある」との記述にも同意する。  
 原左都子の視点で少し言葉を変えるならば「規則に対する敬意」ではなく「規則に対する従順さ」の方が適切かも知れない。 とにかく、“主体性”に欠けた国民性を学校教育により作り上げられてしまい、それにいつまでも国民ががんじがらめになっている印象がある。 


 保坂氏が面白い表現をされている。
 「無能だからうまくいっている」と言ったご友人が、日本人が勝手に努力して勝手に働くことを喩えて、「猫が暇さえあれば毛づくろいをしているのと同じ」と言っておられるらしい。
 原左都子の感覚としても要するにそういう事だ。 これを努力とは言わないだろう、と言いたいのだが。


 保坂氏は作家であられるが、小説を毎日書いておられるらしい。 周囲から「創作活動は大変ですね」と言われるが、勝手にやっているだけだから大変ではないとのことでもある。 出来不出来など関係無く、とにかく毎日書いておられるとのことだ。 そしてそれが一番好きだからやっているだけ、とのご記述でもある。

 原左都子の場合、保坂氏とはまったく立場が異なり、単なる“しがない”ブロガーであり、これによる一銭の収入も得ていない。 
 まあそれでもやはり自分で勝手にやっているだけ、との自由度に救われている感覚はある。 私の場合も現在に於いてはこの業が一番の達成感が得られるため、日々励んでいるだけのことと言えよう。


 最後に保坂氏は、「ならば国家は何をすればよいか?」とのテーマで結ばれている。 そして、これを機に一気にベーシック・インカムにするのがいい、との結論に至っておられる。
 以下、保坂氏の記述を引用するが。  「一律10万円の給付を毎月続けるのだ。 家計に余裕のある人は寄付なりクラウドファンディングなどするだろう。 国が自動的にお金をくれたら、働かなくなってギャンブルばかりする、なんて心配は無い。 そんなことをするのは(国民の)一部で、大半はマイペースで働き続ける。 課された労働でなく、喜びとしての仕事をそれぞれが見つける。 これこそ、コロナ以後の大転換。 コロナが人類に与えた、試練と恩恵だ。」



 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 
 作家の保坂先生。
 最後のご論評は冗談か、あるいは“見果てぬ夢”でいらっしゃいますよね??

 原左都子として“コロナ後”を語るのは、(まだまだ“コロナ禍”が続行するとの論者として)もっとずっと先に伸ばしたいが。

 この国の国民それぞれが“喜びとしての仕事”に就けるまでの国家の大転換など、“コロナ禍”にはかかわり無く夢また夢の物語であろう、と結論付けて。

 今回のエッセイを終焉に持ち込もう。