正月三が日最終日の昨日、義母が暮らす高齢者介護施設を訪問した。
外部での親族食事会を希望していた義母だが、このコロナ・オミクロン株感染拡大の中、施設側がそれを許可する訳もない。
また、義母の現在の(歩行能力や認知能力の低下、難聴の大幅な悪化、等々)身体状況では、既に外出は無理だろう。
という訳で、施設内個室で義母との新年の会合と相成った。
以前よりそうなのだが、義母は我々親族の顔を見ると開口一番「死にたい」を口にする。
今まではそれに対応するのは決まって嫁の私の役割であり、心にも無く「お義母さんはまだまだお元気なのですから、死ぬのはずっと先のことですよ。そんなことをおっしゃらずに、長生きして下さいよ。ナンタラカンタラ…」
この“おべんちゃら”を言わされるのがホトホト嫌だったものだが…😭
と言うのも、義母の裏心理が私には読めたからに他ならない。
「死にたい」と言えば、必ず嫁の私がそう言ってくれると義母が期待しているのが見え見えだったものだ。
時が流れてもやはり私の顔を見るとニコニコしながら「死にたい」を繰り返すため、思い切って説諭したこともあった。
「お義母さん、その発言は日々一生懸命ケアをして下さっているスタッフの皆様には失礼に当たります。」
義母が応えて、「そうなの。この前もケアマネージャー氏に『それは禁句』と叱られてね…」
へえそうだったんだ、と思いつつも、やはり私を捕まえると「死にたい」を繰り返す義母…
そして昨日の新年会会合でも。
亭主と私と義母にとっては孫の我が娘を目の前にして、開口一番、「私、死にたいのよ…」
(またかよ…)と思いつつ、今回は家族3人同席のためとりあえず亭主にその対応を任せることにした。
ところが義母は補聴器をつけているにもかかわらず、我々の声が全く聞こえていない様子だ。
亭主にこっそりそれを耳打ちして、「お義母さん、我々の声が何も聞こえていない様子だから、テキトーに対応すればいいよ。」
実際、亭主が何だかだと力説しても義母は「私は死にたい」を繰り返すばかり…
救いは、義母の孫にあたる我が娘の存在だ。
発達障害故の異様なまでの寡黙さが幸いして無駄口を一切叩かない娘が、昔から義母のお気に入りだ。
娘が施設を訪ねる時には、必ずや義母はプレゼントを用意してくれている。
今現在外出不能な義母からの娘へのプレゼントとは、いつも決まって自らが施設へ持参している宝石類なのだが。
昨日も、ダイヤモンドの指輪、エメラルドのペンダント、18金ペンダントに、真珠のネックレス2本。
娘が受け取りを躊躇しているのを見かねた私が、「貰っときなさい、要らなければ後で処分すれば換金できるよ」と耳打ちして…😁
ちゃっかりと娘に受け取らせたのが、昨日の一番の報酬だったのだが。😜
話題を表題に戻そう。
昨日の義母の話を聞いていて感じたのは。
「死にたい」の言葉が少し現実味を帯びてきているのではなかろうか?? との事実だ。
少し前の時代のごとく、「お義母さん、そんなことを言わないで長生きしましょうよ」とごまかして済む課題ではなくなっている感覚を抱いた。
実際義母は、認知症と難聴を抱えている。
その身にして、高齢者施設内の友も既に義母に近づきたくもないだろうし。
義母は、日々寂しい思いをしているのであろう。
ただこれ、義母自身にも責任があるのではかなろうか??
高齢域に達すると、そうなることは目に見えている気もする。
(難聴はともかく)、「認知症」に関しては自助努力によりそれを阻止するべき行動がとれたのではなかろか、と思ったりもする私だ。
要するに、若き時代から常に自分の脳を活性化するべく活動を日々自ら実施していたならば。
義母にとって「成したいことがいつまでもある」状況だったなら日々それに励めて、認知症にならずに済んだのではなかろうか??
現在の義母には酷な発言かもしれないが。
実際、義母が「死にたい」と言い続けるのを、誰も止められない気がする…