原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

6歳未満児の脳死判定・臓器移植に異議申す!

2012年06月16日 | 時事論評
 「脳死後の臓器って、一体如何程の価格で売れるの?  相当の“破格値”なんだろうなあ。」
 臓器移植のニュースに触れる度、“へそ曲がり”の私の脳裏に真っ先に浮かぶのはこれである。

 だって、そうでしょう? 
 特に脳死対象者が子どもである場合、本当に死んだのかどうか分からない「脳死」という段階で、その可愛い我が子の“まだ生きている状態の各種臓器”を小さい体を切り刻んで提供する事に同意する立場に置かれるのは、保護者である親に他ならないのだ。 
 原左都子ならば我が命に替えてもそんな大それた決断は絶対に出来ない。
 ところが、それを即座に「息子は誰かの体の一部となり長く生きてくれる。息子を誇りに思う。」と医師に告げて、臓器提供に同意する親がこの世に実在する現世だ。 これには子を持つ親であれば誰しも仰天させられるのではあるまいか?

 私の解釈では「脳死」とは身体各所の臓器はまだ生命を保っている状態であり、今後何らかのインパクトにより「脳」が活性化されれば命が繋がる可能性が極小の確率であれまだ存在する事態である。 
 そして「脳死」状態者からの「臓器移植」とは、その身体臓器が生命を保っている時間内に移植手術を実行する事が必須条件であるからこそ、医療現場は“時間勝負の血走り状態”を余儀なくされているのである。
 「臓器移植」に関しては関係機関が一般市民にその意向を問うべく「カード」を持たせていると私は心得ている。 その「カード」持参の大人に関しては、医療機関は誰の承認を得ずとも即刻「臓器移植」の手配が可能となろう。
 ところがその対象が子どもの場合、咄嗟の判断でかけがえのない我が子の体を切り刻んで息づいている臓器を取り出す決断は、保護者に委ねられる事となる。
 それを即断する保護者が我が国に存在する現状だ……

 だからこそ「臓器は“破格値”で売れるのだろうか?」との発想が出てしまうのだ。
 それと同時に、一般人とは「脳死」の意味合いをどれ程理解した上で、医師からの切羽詰った臓器移植嘆願に従って、可愛い我が子の体を切り刻み臓器を取り出す事に咄嗟の合意判断を下しているのかを知りたい思いだ。


 一昨日の6月14日に富山大学病院で行われた国内初の6歳未満児脳死判定、及びその後の心臓、肝臓、膵臓移植手術は本日(16日)までに全国各地の病院にてすべて無事に完了したようだ。
 本日昼のニュースによると、臓器提供を受けた側の子どもの保護者から、複雑な思いながらもそれに感謝している旨のコメントも報道されていた。

 一方、臓器提供側の6歳未満男児は“事故”による心肺停止と低酸素性脳症であったらしい。 
 (脳死判定の1週間も前の時点の)6月7日に、主治医が「重篤な脳障害で回復が難しい」と保護者に伝えたところ、その日のうちに両親より臓器提供の申し出があったとの報道である。 
 加えて朝日新聞6月16日付朝日新聞記事によると、病院側は臓器提供に関しては「警察や児童相談所に問い合わせ、虐待はないと報告を受けた。念には念を入れて(脳死判定)をやった」事を強調しているらしい。(これって違う角度から言うと“虐待”が疑われる要素が皆無とは言えない、というニュアンスでしょ??) 
 厚労省が今年1月、47都道府県を対象に児童相談所が医療機関からの虐待の問い合わせにどう対応しているか調べたところ、照会に「対応する」と答えたのは11県のみで、これに富山県は含まれていなかったとの記事内容でもある。

 原左都子が冒頭で懸念した 「臓器とは一体いくらで売れるのか?」 との話題と関連して、実に空恐ろしい報道内容だ… 
 医療移植現場と児童虐待関係機関との連携は、今後も大いなる課題となるのは必須であろう。


 私論に移るが、もしも今回の脳死判定6歳未満児が医学判断上の「脳死」であったとしても、上記に述べた通り、今後極小の確率で生き延びる奇跡が起こったかもしれないと私は無念な思いである。

 少し話が飛躍するが、我が子が多少の事情を持って出生していることに関しては本エッセイ集バックナンバーに於いて幾度となく公開して来ている。
 出生時のトラブルにより仮死状態にてこの世に産まれ出ざるを得なかった我が娘は、当時の帝王切開手術担当医より 「脳に障害が残る恐れがある」 との事実を告げられていた“らしい”。 (出産当時自らの身体も打撃を受けていた私が、身内からこれを知らされたのは遅ればせながらも我が子1歳半頃の事だったのだが。)
 「なんで、そんな大事な話を元医学関係者の私にもっと早く伝えなかったのよ!!」と激しく責め立てつつ、直ぐに娘を医療機関脳神経科受診させると同時に、我が家に於ける「お抱え家庭教師」業を開始した私である。
 何故ならば、“脳の活性化”とは脳が未発達の子ども幼少の頃より実施開始した方がその効果が格段に大きいからである。
 医学関係者でなくとも皆さん既にご存知であろうが、脳神経細胞とは体内他細胞と異なり一旦死んだら再生されないのが特徴である。 ところが生命体の脳を活性化する方策は様々存在して、例えばの話、外部からの働きかけにより生き延びている脳神経細胞を利用して脳内にバイパスを作るという方策があるのだ。(私の知識が古いため、現在に至ってはもっと進化した素晴らしい研究業績が存在するであろうことは想像の上だが。)
 (字数の都合により詳細は割愛するが)それらの医学的知識を活かしつつ、教育的観点から我が子を「お抱え家庭教師」の立場で現在に至るまで導いてきている私であり、我が子は当時の想像をはるかに超える成長を遂げ続けている。

 だからこそ、脳死判定が下った子どもにもその年齢が幼少である程に、今後の医療や家族からの脳活性化努力による生存の可能性がなきにしもあらずではないのかと、無念に思うのだ…。

 今回の6歳未満児の「脳死判定・臓器移植」に関しては、報道されている事実の水面下にはもっと複雑な家庭環境事情が存在したのではないかと推測してしまう。


 そうでなくとも原左都子は元々「臓器移植」反対派であることは、バックナンバーにおいても幾度か綴ってきている。

 2009年7月に公開した 「私はあげないし、要らない」 を参照下されば私の「臓器移植」絶対反対の思いを感じ取ってもらえるだろうが、ここでその結論のみを手短に紹介しよう。 
 人それぞれの「死生観」の差は大きいのであろう。 それにしても、いつをもって“人の死”とするかについて法的に喧々諤々議論した上で、幼き子どもの命までをもここからが「死」であると法改正して“線引き”しようとすること自体に、現代社会の歪みを実感させらる。

 科学の目覚ましい発展は“人の倫理観とのせめぎ合い”をもたらした。
 さらに時代が突き進み人の“倫理観”と“エゴ”との境界線の判定さえも困難にまで成り下がった現在において、我が子の「脳死判定・臓器移植」の医療現場からの要請に親が即座に“OKサイン”を出す現状を、皆さんどのように感じ取っておられるのであろうか??
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