以下に紹介する「原左都子エッセイ集」バックナンバーは、過去に数回再掲載しているため、既に読まれている読者の方々も多いことと想像するが…
今一度、2009.03.29公開の 「存在自体が迷惑??」 と題するバックナンバーの一部を、以下に紹介させていただこう。
事情を抱えて生まれてきた子どもを持つ親の苦労は、日頃のケアや教育においてのみではない。 子どもが持つ“事情”に対する周囲からの誤解や無理解に苦しめられる日々である。
一般人からの誤解、無理解に関してはある程度やむを得ないものと、元より諦め半分だ。 これに対し、子どもをその道のプロとしての立場からケアし自立へと導くべく専門職である教育関係者や医学関係者等からの誤解、無理解は保護者にとって耐え難いものがある。
今回のエッセイにおいては、その種の専門家からの度重なる誤解、無理解を耐え忍んだ我が子育ての歴史の一部について振り返ることにする。
一般人からの誤解、無理解に関してはある程度やむを得ないものと、元より諦め半分だ。 これに対し、子どもをその道のプロとしての立場からケアし自立へと導くべく専門職である教育関係者や医学関係者等からの誤解、無理解は保護者にとって耐え難いものがある。
今回のエッセイにおいては、その種の専門家からの度重なる誤解、無理解を耐え忍んだ我が子育ての歴史の一部について振り返ることにする。
子どもの小学校入学前に我が家が「就学相談」に臨んだことについては前記事でも公開したが、この「就学相談」における教育委員会の担当者の発言内容を取り上げてみよう。
前回のエッセイにおいて既述した通り、我が子の場合、6歳時点までの家庭におけるケアが功を奏したのか、表向き(あくまでも表向きであるが)は事情を抱えていることに気付かれない程度にまで成長を遂げてくれていた。
だが残念なことに、生まれ持っての“事情”とは本人がどれ程努力をしても完全に克服できるという性質のものではない。 その辺の事情を親として出来得る限り学校へ伝えておくべきだと考えたことが主たる理由で、入学前に「就学相談」に臨んだとも言える。
医学関係の職業経験があり元教育者でもある私は、生後6年間の子どもの生育状況に関する医学的教育学的な科学的データと共に、6年間で私自身が培ってきた子どもの持つ事情に関しての専門的、学術的なバックグラウンドについて担当者に分かり易く説明しつつ、我が子の生育暦に関する私見を伝えようとした。
ところが、定年を目前にしている教員経験もある女性の担当者は、私の話にはまったく耳をかさず、持参した子どもに関するデータ等の資料を見ようともしない。
そしてその担当者は持論を述べ始めた。
「障害児は障害児なんですよ。これは誰が見てもわかります。あなたの子どもさんは“普通の子”です。お母さんが勘違いしているだけで、この子には障害なんてありませよ。むしろ今時こんな“いい子”は珍しいくらいで、この子は十分に普通学級でやっていけます。」
(親の私だって我が子は“いい子”だと思っている。 出産時のトラブルさえなければ、もしかしたらこの子は非の打ち所がない程の“お利口さん”だったかもしれないとも思う。 だた、それを思うと無念さが募るだけだ。 現実を見つめて生きなければ親の役割は果たせないのに…)
そして、担当者はこう続ける。
「あなたの子どもさんは障害児ではないから言いますけど、今時の母親はなまじっか“学”があるばかりに、その“学”をひけらかして屁理屈を並べる事に一生懸命になっている。 障害児とは『存在自体が迷惑』なんですよ。 そんな障害児を自分が産んでおきながら偉そうにしていないで、社会に対して頭を下げるべきだ。 障害のある我が子の人権を学校に尊重して欲しいのであれば、母親としてまずやるべきことは、入学する学校に頭を下げることだ。 PTAの親御さん達に対して、“我が子が入学することで皆さんの子どもさんの足を引っ張って申し訳ない”と頭を下げるべきだ。」
あなたに言われなくとも、そうしてきている。 特に幼少の頃程周囲に迷惑がかかるため、母の私はどこへ行っても頭を下げる毎日だった。 幼稚園でも公共の場のどこでも「申し訳ございません。」の連続だった。 家では人の何倍もの手間暇かけて育て、外では頭を下げてばかりの過酷なほどにストレスフルな日々だった。
そんな過酷さの中にあっても、親とは子どもの成長を願いたい生き物なのだ。 それ故に、愛情はもちろんのこと、今の時代は科学的専門的な理解は欠かせない。 めくら滅法ケアをするよりも、専門的バックグラウンドに基づいてケアを行っていく方が高い効果が早く得られ、子どもの早期の自立に繋がるのだ。
だからそこ、公開したくもないプライバシーをあえて公開して「就学相談」に臨んでいるのに、教育委員会がこれ程の野蛮とも言える低レベル状態では話にならないどころか、傷を深められただけの面談に終わった。
「障害児は存在自体が迷惑だ。」
そう言い切った担当者を擁する教育委員会が管轄する小学校に入学させる事は、我が子を谷に突き落とすよりも残酷なことのように思えた。 4月の入学までの短期間で、小学校入学を取り止める手段を本気で模索したものである。
(以上、バックナンバーより一部を再掲載したもの。)
この時の面談の様子を、20数年の年月が流れた今尚私は鮮明に記憶している。
最初相談所に訪れこの相談員と対面した時は、穏やかそうな高齢婦人と我が目には映った。
そのご婦人が我が娘を一見するなり、「あら、可愛い娘さんですね!」とにこやかに微笑む。 これで娘も安心したのか、怯える事も無く面談に入れた。
当時は未だ個人情報を公開する時代背景であり、相談者である我々両親の最終学歴や職業、そして娘の現在までの簡単な生育歴等を記入させられた。
それを私が記入している最中も、相談女性は我が娘に話しかけたりしてご機嫌をとって下さっていた。
さて我が記入が終了し、亭主の情報を見るところまでは順調だった。 相談女性曰く「へえ、ご主人は理学博士を取得されて物理学の研究者をなさっているのですね! 恵まれたご家庭に育った娘さんですね。」
そこまではよかったが…
母である私の情報を見るなり、顔色が変わった気がした。 「奥様も大学院修了で高校教諭をなさっていた… (参考だが、記入欄が狭かったため医学関係の職歴は割愛した。)
次に私が鞄から娘のこれまでの医学・教育に関する科学データを取り出したところで、上記の「近頃の母親は、なまじっが学があるばかりに…」の論説が始まったという訳だ。
相談者ご自身が教委の相談員ということは、おそらく地元の小中学校の教諭だったのであろう。 その身分から、母である我が経歴が“癪に障った”のではなかろうか、と後に想像する。
ついでに、もう一例紹介しよう。
娘の若干の発達遅れを指摘した病院の医師から、地元の「児童相談者」にて相談すればどうか、とのアドバイスを頂戴した。 それに従い、地元の児童相談所に娘を引き連れて訪れた。
対応して下さった若き女性職員氏は、実に対応を心得た方だった。
当時未だまとまった発語が無かった娘が、それにも安堵した様子だ。 その娘に合わせて「素敵な“おねえさん”が相談に乗って下さるようでよかったね!」と私自身も安堵し、その後“おねえさん”を乱発してしまったようだが。
“おねえさん”より、ご注意を賜った。 「私は、相談員です。」 😱
はっ、と我に返った私はすかさず、「大変失礼申し上げました! 今後、“先生”と呼ばせていただきます!」と弁解に必死だ。😷 娘にも「“おねえさん”ではなく“先生”よ!」と言い聞かせつつ、未だまとまった発語が無い娘を実に不憫に思ったものだ…
この“事件”も忘れがたい出来事である。 2歳の発達遅れの子どもに対し、それほどまでに相談員自身が “おねえさん”と“先生”の「(呼称の)格差」 にこだわるべき事象なのか?? と、今尚マイナスの意味で印象的な場面であった。
もう一カ所、娘を某私立研究所兼相談所へ連れて行った経験がある。
娘小2の1学期まで週一で指導と相談のお世話になった後に、私の判断できっぱりと「相談活動」を終焉させ、その後、我がサリバン力一本で現在まで娘を育て上げている。
この最後の研究所兼相談所が、娘の相談歴に於いて一番“まとも”だったことは認めるが、それでも問題点も存在した。 それ故に、在所満期を待たずして、我が判断で早期に相談活動を終焉させた。
「元農水省事務次官による長男殺害事件」に於いて“実刑判決”が下された事案に関し、私論を述べたいものの。
どうやら、字数オーバーのようだ。
その論評に関しては、次回以降に回させて頂くこととしよう。