原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「年賀状」など、もう本気でどーでもいいが…

2018年11月01日 | 人間関係
 日本郵便は本日(11月1日)、平成最後となる2019年用のお年玉付き年賀はがきの販売を全国で開始した。
 当初発行枚数は24億21万2000枚。 記録が残る04年用以降で最少だった18年用をさらに7.2%下回った。
 日本郵便は減少に歯止めをかけるため、20年東京五輪・パラリンピックのマスコットを印刷した寄付金付き年賀はがきを用意し、お年玉賞品に五輪のペア観戦チケットを追加。 くじの抽選は例年と同じ1月20日に行うほか、新元号記念として4月20日にもう一度実施する。
 料金は通常はがきと同じ62円で、寄付金(5円)付きは67円。
 (以上、本日のネット情報より引用したもの。)


 昨年12月下旬にも私は、「年賀状作成、今年こそ『もう辞めよう』と思いつつ…」と題する本日の表題と同趣旨のエッセイを公開している。
 以下に、その一部を反復させていただこう。

 結局、今年も作成して昨日投函した。
 ただ、これ程投函が遅くなったのは今までにない事だ。
 本気で「今年から虚礼廃止しよう!」との決意が強かった故である。
 その一つの理由は、昨年郷里の実母が高齢者施設に入居した事により、私にとっては極めて不毛な「虚礼」でしかなかった郷里の親戚筋への年賀状を廃止しても不都合でないだろうと判断した故だ。 まったくもって我が実母は、米国在住の姉には何ら依存せず好き勝手に暮らさせているくせに、妹の私に対しては自分のわがまま放題自分に都合よく使い放題なのだが、年賀状の虚礼に関しても例外ではなく長年私に依存して来た。 母の論理によれば、一人暮らしの自分が郷里の親戚筋にお世話になっている、そのお礼を娘の私がするべきとの事のようだ。
 一度「たまには長女の姉に頼んだらどうなの?」と母を責めたことがあるのだが、「あの子は米国暮らしだ。日本に住んでいる貴女がするべき!」と主張して譲らない。 年賀状のみならず、盆暮れの挨拶菓子折り等々もすべて私の負担で実施している。
 昨年、その実母が施設へ入居したことにより、実母の親戚筋とのかかわりが希薄になっていることには間違いない。 ここは、“虚礼廃止”の潮時かと読んだ。

 そもそも毎年届く年賀状とは、私の場合もう交流が無くなって2,3十年の年月が経過する人物がほとんどだ。 今更ながらそれらの人物と再会せねばならない用も無ければ、その気もないし、申し訳ないが再会してプラスになるとも思えない。(そこまで言うと、我が人格が疑われそうだが。)
 いえいえ、もちろん再会したい人物もいる。
 ただそれらの人物達とは、何も年賀状という形式を採らずとて、電話・メール等々他にも連絡手段は保存してあり、こちらの意思次第でいつでも連絡可能な相手だ。
 ということは、年賀状を廃止しても何らの不都合が無い事との結論に至るではないか! 

 そうこう考え、しばらくの間我が心理は年賀状作成廃止の方向に傾いていた。 
 何故、今年も年賀状を出そうかと方向転換したのかと言えば。
 おそらく皆さんも同様のお気持ちであろうが。 要するに毎年年頭に “年賀状” が届けられる。 これらに対し、年明けに逐一返信年賀状を出す手間を勘案した場合、年内にまとめて作成して投函しておいた方が効率的である事実に間違いない!
 結局、特に年賀状がパソコン作成に移ろいだ現在に於いては、「年賀状文化」とはこの論理により成り立っていることに気付かされる。

 いえいえ、決してそうとも言えない側面もあろう。
 たかがパソコン作成の年賀状とは言えども、一筆自筆で添えられた文言に “感動”や“意外性”や“驚き”を頂くこともある。 これぞ現在の年賀状が果たす醍醐味ともいえよう。 
 それにあやかりたい思いで、今年の我が年賀状を“自筆入り”で作成し昨日投函したのだが、果たして我が年賀状が相手にインパクトを与えられるのやらどうなのやら??

 (以上、昨年12月下旬に公開した「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を反復したもの。)


 本日昼過ぎ、民放の報道番組を視聴している時、この「年賀はがき発売」の話題が取り上げられた。

 その番組に出演していた、若き見知らぬ男性コメンテーターが興味深い発言をした。
 私が記憶している範囲でその発言を紹介すると。 
 「今時、皆が皆日頃からネットで繋がっている時代背景下に於いて、年賀状が果たす役割とは単なる“挨拶”ではなく、むしろ“多くを語る”事ではなかろうか? 例えば、年賀はがきをA4大程にして、自分の意思を伝えたい少数の相手にのみ、心を込めてその大きな文面にてメッセージを贈るのはどうか?」

 一旦私見だが。

 なるほどねえ。 ただ、まさに“私見”だが。  私の場合は当該「原左都子エッセイ集」がその役割を果たしてくれているようにも感じる…。
 若き男性コメンテーター氏に同感するのは、「自分が語りたい相手に“こそ”多くを語りたい」とのご意見部分だ。 これに関しては、私の方からの読者登録を“少数に選りすぐっている”我がエッセイ集に於いては、引き続き年間を通して当該エッセイ集にて実施することとしたいが。
 (いえいえ、失礼申し上げました。 今まで通り我がブログに於きましては幅広く皆様のご訪問をお待ち申し上げておりますと同時に、私側から読者登録を申し上げたい!との思いをそそられるブロガーの皆様も多数この世に存在するのが現実です。)

 あるいは、年賀状に関する別の見解を述べる若手男性アナウンサー氏がいた。
 それによると、「先輩である女性アナウンサー氏が、毎年後輩である自分に“今年の貴方はここが良かった。貴方は今年これで成長した…」等々の年賀状を届けてくれるらしい。
 それを事例に出しつつ、「一般的に年賀状とは自分の近況を知らせる趣旨のものが多い中、受取人である相手の1年を振り返ってくれる、その先輩女性の思いやりが素晴らしい!」

 再び私見だが。

 そうかなあ? それはおそらく貴方が若年層であり当該女性アナの後輩であるからに過ぎない故だよ。 一般人がそれを真似たならば、必ずや相手から反発を食らうだけと私は推測するが。 もしも私がその種の年賀状を受け取ったならばその“お節介ぶり”に辟易とさせられ、その後絶縁に至ることだろう。

 自分の近況を述べる年賀状が、諸悪の根源でもあるまいし。
 私など、パソコン印刷のみのまさに“虚礼年賀状”よりも、少しでもご自身の近況を述べている年賀状の方に親しみが湧く派だが。


 さてさて。

 本日販売された年賀はがきは、20年東京五輪・パラリンピックのマスコットを印刷した寄付金付き年賀はがきを用意したり、お年玉賞品に五輪のペア観戦チケットを追加しているとのことだが。 
 2020東京五輪開催反対派の私にとっては、無用な話題だ。

 そうは言いつつも、おそらく今年も昨年同様の理由(上記記載をご参照下さい)により、年末に差し掛かった頃にやむ無く年賀状を作成する羽目と相成ることだろう。

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