原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

若く見られたい(?)女心

2009年06月16日 | 医学・医療・介護
 昨日(6月15日)、虚偽有印公文書作成・同行使の疑いで逮捕された厚生労働省雇用均等・児童家庭局長の村木厚子容疑者の影像を報道で繰り返し見つつ、事件の内容はさておき、優先して私の頭をよぎった印象がある。
 (あくまでも自分は棚に上げているのだが)、その印象とは……

      「老(ふ)けてるなあ…」

 これは、私が村木容疑者と“同い年”であるからこその着眼点であろうと自己分析している。

 同年代、特に“同い年”の女性の容貌とは気にかかるものだ。その人生の歩みはまったく異なれど、同じ時代に生まれ同じ社会背景の下で年月を経つつ歴史を刻んできている女性の風貌を目にすることは、一種感慨深いものがある。 そして、「他人の振り見て我が振り直せ」との昔からの教えもあるように、その風貌を観察することにより我が身を振り返ることが可能となる。


 朝日新聞6月13日(土)別刷「be」“between"の今回のテーマは「実年齢より若く見られたいですか?」であった。

 このテーマに対する読者回答の結果は75%が「はい」であるのだが、これに関する私論は後に回して、記事の最後に興味深い記述があるので、その部分をピックアップして以下に要約して紹介しよう。
 「実年齢よりも若くみられ“る”」という人が全体の7割を超すのは「うなずける数字」であると劇作家の竹内一郎氏は言う。近年の平均寿命の伸びや生活スタイルの変化を考えると、数十年前の70歳より今の70歳はずっと若々しく見える。古いイメージで今の年齢を判断したら、実年齢よりある程度若く見えて当然の社会となっている。若く見えると言われるとうれしいが、今は若く見えるのが「人並み」だと考えた方がよさそうだ。
 
 この竹内氏の指摘に、私も大いに同意する。
 世間において「自分は年齢より若く見られる」という会話をしょっちゅう耳にする現在であるし、また私自身も知人からそういう話を聞かされることがよくあるからである。 あれは端で聞いていると結構みっともない会話であり、ましてや会話相手から「自分は若く見られる」と話を持ちかけられた場合「そうですね」と回答するしかないのだが、実はそうは思えず顔が引きつりそうになることも多い。

 有名人にも“実年齢より若く見える”ことのみを売りにしているタレントや女優は多い。例えば現在もてはやされている“アラフォー”“アラゴー”女性タレントの多くはその部類である。 大した芸がなくても、現在の美容整形医学や審美矯正歯科学、そしてファッションや美容技術、はたまた写真や影像技術の急激な進化・発展に頼って、若く見え輝いて生きているがごとくの演出さえすれば、それだけでそのタレントは今や一時もてはやされる時代のようだ。


 数年前の話になるが、化粧品セールスの女性から私の肌の手入れの悪さについて指摘されたことがある。相手はセールスのプロであるため、それを指摘することにより商品販売につなげようとしているのは最初からお見通しであるのだが、その女性はひるむことなくその商品使用による自分の肌の手入れの良さを例に挙げて私に訴える。「これを継続して使用するとこんなにすべすべの肌になって(私のように)若く見えますよ~。」
 ところが申し訳ないのだが、そのセールス女性の肌は確かにすべすべなのに、ちっとも若くは見えない。お化粧をバッチリ決め込み外見を繕っている割には、年齢相応の単なる“おばさん”にしか私の目には映らないのだ。
 大変失礼ながら、どうも勘違いしていらっしゃる様子だ。外見のみを繕うために肌だけをすべすべにして見かけを繕ったところで、残念ながら実は人間とは自分が思いたいほど他人の目には“若く”は映らないものである。


 さて、「実年齢よりも若く見られたいか」に話を戻そう。

 私に言わせていただくと、そもそも「実年齢より若く見られたい、見られよう」という思想自体が軽薄であると捉える。
 私の場合、そういう思想はほとんどないままに現在に至っている。と言うよりも、そんな暇がなかったと表現した方が正確なのかもしれない。
 多方面において自分の生き様を追及しつつ現在まで生きてきた中に、例えば自分が理想とする「体型」は保ち続けたい、というポリシーがその一つとしてあったことは事実である。 他者から“若く見られたい”という評価を得たい以前に“自分がこうありたい”という人生設計が若い頃からあったように思う。その中の一つが「体型維持」であるに過ぎないと私自身は捉えている。
 外見的若さを物語る要素として“体型”は主要な一部分と考えるため、それを一例として述べさせていただいたという話である。


 実は人間の本来の若さとはその生き様から滲み出るものなのであろう。

 この朝日新聞記事にもその結びとして一人の若者の意見が書かれている。
 「自分の両親を見ていて、『若いのもいいけど年取るのもいいもんだよ』と思えてくる。自分もそのように成熟していきたい。」
 達観した意見であるし、この私も実は若かりし日から、一生に渡って充実した人生を歩むために、いずれそういう域に達せられるよう未来を見据え続けてきているとも言える。


 あっ、最後に一応付け加えておきますけど、私も化粧で顔を塗りたくり若作り衣裳で勝負すると、実年齢より10歳、下手をすると20歳位若く見られますよ~~。  (ほんとかよ??)
     (な~~んだ、原左都子だって結局“軽薄女”じゃん。
 その通りです、スミマセン…… 
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“親の七光り”の真価

2009年06月13日 | その他オピニオン
 有名人の二世に生まれた子どもとは、“親の七光り”の恩恵を受けて美味しい思いばかりしているのかと思いきや、その反面、どうやら気の毒な運命を背負っている一面もありそうだ。


 今のこの世の中、政治家の世襲を筆頭に、芸能界、スポーツ界、芸術文化界… 至る場で二世が幅を利かせているのが実情である。

 私が認識している、最近世に出た各界の二世を思いつくままに列挙してみよう。
 さんまと大竹しのぶの娘。 山口百恵の息子。  後は多少古くなるが、松田聖子の娘。 小泉純一郎の息子。 森山良子の息子。 真野響子の娘。 藤圭子の娘。 内藤洋子の娘。 ……
 列挙すればきりがない程の有名人二世の各界への“蔓延りよう”である。 
 

 二世とは、医学的に親の遺伝子を受け継いでいることはゆるぎない事実である。また、生育環境面でも親の影響力は大きく、そんな親の背中を見て育った二世が親と同一あるいは類似の職業に就くことは、ある意味では必然的であるのかもしれない。

 ただやはり二世が世に出るにあたって最大に強力な武器は、有名人として一世風靡した親の名声の“七光り”の恩恵であり、業界へのコネでありパイプであり金力であることは、どう転んでも否めない事実であろう。


 そのような中、先だっての朝日新聞において写真家・蜷川実花氏に関する記事を目にした。 皆さんもおそらくご存知の通り、この女性は世界的にも著名な演出家・蜷川幸雄氏の娘である。
 その朝日新聞記事によると、実花氏は「蜷川の娘」であることが“面倒くさい”と言う。 
 実花氏は現在、写真家であることに加えて、映画「さくらん」の監督も経験する等芸術文化界において順調に活躍中の様子だ。

 そんな実花氏が世間から注目されるにつれ批判も増えたという。 写真の個展の会場で、「なあんだ、蜷川幸雄の娘じゃん」と言われ、芳名帳には“親の七光り”“いいよな女は”等々の落書きがあったらしい。 それを「通り魔にあった気分だった」と本人は捉えているようだ。

 大変申し訳ないが、私は写真に関しても映画に関してもズブの素人であるのに加えて、実花氏の写真作品をネットでしか拝見していないため、何のコメントも出来ない立場にある。
 それを承知の上で申し上げたいのだが、二世が親と同一あるいは類似の世界で生き抜いていくためには、“二世”の宿命を受け入れざるを得ないのではなかろうか。
 おそらく実花氏も、現在のごとくの芸術文化界の表舞台で華々しい活躍の場に辿り着くに至る道程の背景に、必ずや“親の七光り”を重々利用してきているはずである。 本人が認識していなくとも、親を通して子どもの頃より「蜷川の娘」を良くも悪くも背負って生きてきているはずである。

 それは、もはや否定できない運命ではなかろうか。

 「蜷川の娘」であることがどうしても面倒くさいならば、世に出る当初より偽名なり芸名なりを使用し、親からの干渉を完璧に拒否するという手立てもあったはずである。 そうはせずに“蜷川”の姓を名乗りつつ、映画界にまで進出できているのは、大変失礼ではあるが、一般人が考慮した場合どうひいき目にみても“親の七光り”の範疇と言わざるを得ないとこの私も感じるのだ。
 

 そう感じない事例、すなわち著名人であった親をはるかに超えていると感じる二世が存在するのも事実である。
 例えば藤圭子の娘である「宇多田ヒカル」に関しては、私は当初“二世”であることをまったく知らなかった。 親と同じ歌手であるとは言え分野が異なるのに加えて、「宇多田ヒカル」は自分の歌手としての個性を当初から完璧に確立していたように感じるのだ。この女性は、おそらく親が“藤圭子”でなくとも大ブレイクしていたことであろうと私は評価する。
 (決して私は「宇多田ヒカル」のファンという訳ではなく特に思い入れがある訳でもない。 むしろ“藤圭子”のあの独特な存在感こそが凄かったと思う世代の人間である。)


 蜷川実花氏の話に戻すと、実花氏が「蜷川の娘」が面倒くさい、と言う気持ちを私は重々理解できるのだ。
 実花氏は、有名人の娘ではなく人知れない無名人の娘に生まれていたならば、自分はどう転んでいたのかの確信を欲しているのだと私は捉える。 要するに自己の“真の実力の程”を問い詰めたいのであろう。 (代々無名人のこの私にも、年齢にかかわりなくそういった欲求は心の奥底に常に存在する。)
 ところが残念ながら、この世とは幸にも不幸にも自己の出生の運命を自ら消し去る事はどうしても出来ないのだ。

 「二世」という宿命を生まれ持って余儀なくされた蜷川実花氏に期待されるのは、ご自身の“真価”を問い続ける今後の活躍の程なのではなかろうか。     
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美人のお酌も程々に

2009年06月11日 | 
 先だっての朝日新聞記事によると、長野県庁において県職員らの酒宴の席での「お酌禁止令」が発令されたとのことである。

 長野県内の日本酒生産量が減少の一途を辿る中、若手の酒造組合会員からの「最近はお酌を嫌う若者も多い」との発言を受け、自らも「お酌文化」に疑問を抱いていた長野県副知事が、早速年度替わりの県幹部の送迎会で「お酌禁止」を宣言したというのがそのいきさつであるようだ。

 必ず「手酌で自分のペースで飲みましょう」という副知事の呼びかけは、職員に好評であるらしい。
 「お酌」によって嫌々飲まされるのが迷惑、という理由以外に、女性職員からは「つぎに回らなければならないという気負い等がなくなった」、あるいは、「宴会後、おちょこやコップに残っている酒が減った」という“エコ”観点から歓迎する意見も出ているようだ。


 さて、本ブログの「酒」カテゴリーバックナンバー等においても再三暴露してきているが、私は自他共に認める正真正銘の“飲兵衛”である。
 (ペンネーム原左都子の“左”には種々の由来があるのだが、酒好きの“左党”の意味合いも実は含まれているのよ~~。

 そんな私も、若かりし頃より「お酌」は断固として反対派である。あれは、飲兵衛にとっても大いにストレスが溜まる飲み方なのだ。
 「お酌」というのは飲兵衛の立場から言うと、いちいち他人様についでもらわないことには“次が飲めない”飲み方なのだ。 それはまるで“犬がお預けをくらっている感覚”なのである。  私の場合、飲むペースが異様に速いのだが、「お酌」飲み会の場合、次は誰がいつ頃つぎに来るのか周囲を見計らって状況観察しつつ、自分を押し殺してちびりちびりと飲まねばならないことになる訳だが、欲求不満ばかりが溜まる宴会とならざるを得ない。

 もちろん、親しい間柄の飲み会では皆がそれぞれのペースを心得ているため、たとえ「お酌」によってもストレスが溜まることはない。
 一方、ひと昔前の職場の宴会等においてはこの「お酌」方式による飲み会が大多数だったのだが、これがいただけない。
 まだ若かりし頃、この「お酌」飲み会において大いに傷つけられたのは、杯を飲み干して次の「お酌」がなかなか来ずにイラついていた私に投げかけられる一言であった。
 「あら、ごめんなさいね。気が付かなくて。」 などと言われつつ「お酌」されると一気に酔いが覚めてしまい、とっとと帰ろうかと思ったものだ。
 「おー、いける口だね。どんどんいこう!」 といってどんどんつぎ足してくれるのは飲兵衛にとってありがたかったよなあ~。
 何はともあれ、マイペースで心地よく飲ませて欲しいものである。


 冒頭の長野県庁の女性職員の発言にもあるように、「お酌」をして回ることを強要されるプレッシャーも鬱陶しいものだ。
 一昔前の時代には、職場の“女性”や“新人”に「お酌」を強要することがまかり通っていたのだが、私は基本的に周囲に“媚を売る”ことが我が娘時代から苦手な人間だった。 自分は酒好きな癖に勝手なのだが、周囲に「お酌」をして回ることを忌み嫌いつつ今まで我が酒人生を歩んで来ている。

 私の場合飲兵衛だったことが幸いしたのか、女であるのに「お酌」を強要されずに娘時代の数ある宴会を無事に渡り歩いて来ているのだが、数年前にある職場の宴会において、そんな私にも「お酌」を強要する人物が出現して、愕然とさせられた経験がある。
 それは、当時の私の(医学専門職としての)アルバイト先だった“国がらみの某特殊法人”の職員の飲み会においての出来事だ。
 この職場の飲み会はとにかく形式ばっていた。(私に言わせれば)ほとんど飲めない人物の集合体であったため、“ここではまともに飲めない”と判断した私はいつも一滴も飲まないことに決めて(なぜならば飲兵衛にとって中途半端に飲む事ほどストレスフルなことはないため)、白けつつ時間が過ぎ去ることのみを待っていたものである。
 ある時、そんな私に近づいてきた職場長(某分野において世界的に名立たる人物なのだが)が、「あなたは新人なのだから、ここで座っていないで職場の皆に“お酌”をして回るべきだ。」と直言したのだ。
 おそらくその職場長と大きく年齢も変わらず、既にある程度人生経験を積んでいた私は、この不躾な言葉には驚愕させられたものである。 その暴言を受けて周囲を見渡すと、アルバイトの女性達がせっせか「お酌」をして回っているのだ。(「お酌」をするために雇われた訳でもなかろうに…)
 “セクハラ”で訴訟を起こされる事態がまかり通っているこの時代に、ずい分と世間知らずの“勇気ある”職場長の発言に呆れつつ、その後、この職場の飲み会には二度と出席することはなかった私である。


 何はともあれ「お酌」はするのもされるのも勘弁願いつつ、飲兵衛も下戸も、女性も男性も、上司も新人も、あなたも私も、お酒とは自分のペースで美味しく楽しみたいものですね! 
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結婚式も代役で偽装する時代

2009年06月09日 | 人間関係
 「何故そこまでして結婚式を挙げたいの??」と思わず首を傾げてしまう話題を、朝日新聞6月5日(金)の“週間首都圏”のページで発見した。

 この記事によると、最近首都圏において、結婚式の招待客の「代役」を派遣するビジネスが増えているらしいのだ。
 例えば、新婦の「中学時代の友人」として派遣される代役女性は、この日初対面の新婦があらかじめ考えてメールで受け取っているスピーチを披露するらしい。
 新郎の「友人」あるいは「会社の同僚」として20回以上も結婚式で代役を務めているベテラン男性は、女性スタッフと一緒に夫婦を演じる事もあるらしく、また余興で歌まで披露するという。
 この「代役」の基本料金は、派遣スタッフ一人につき2万円(交通費は除く)で、うち1万円がスタッフに支払われるとのことである。

 この話、派遣される「代役」側としては結構“美味しい”仕事だと思いませんか、皆さん?
 女性の立場で言えば、綺麗に着飾って結婚式場まで行って、“デタラメスピーチ”だけ テキトー にしておけば、後は美味しいご馳走とお酒をいただいて、歌♪まで歌わせてもらえて、2時間(結婚式の披露宴とは大抵2時間程度だが)で1万円の稼ぎ! これ最高の仕事だよなあ~。
 (早速私も「代役」登録しようかな~。  えっ、年齢制限オーバーですって? いやいや、今は熟年再婚も多いしねえ~)
    

 この「代役偽装結婚式」が首都圏においてビジネスとして成り立つ程の需要がある背景には、様々な要因がありそうだ。
 職場における終身雇用制が崩れ、結婚式に呼べる会社の上司や同僚が少なくなっている現状、あるいは、人間関係の希薄化現象に伴い親しい友人がいない、いるとしても喜んで来てもらえないという実情、等々、を代役スタッフ派遣エージェントのベテランスタッフはこの記事において挙げている。

 確かに、たとえ親しい友人の結婚式とは言え、他人の結婚式に出席するほどつまらない事はないと、私なども若い頃からずっと思っていた。招待されればよほどの重要な別用でもない限り、仕方がないから何万かの寿祝い金を包んで貴重な時間を割いて出かけるのだが、経済的出費と時間的ロスが大きい割には、他人の結婚式とは実りのない白けた時間のみが経過していくものである。 せいぜい飲み食いで元を取るか、若い頃は招待客として出席している新郎の友人達と意気投合して盛り上がる位しか、時間を潰す手立てはなかったものだ。
 私の場合、“知らない”人物の結婚式には出席しない意向を固めている。例えば、身内の知人の結婚式に夫婦で招かれたような場合でも、相手が面識のない方の場合、出席はご遠慮申し上げることに決めている。


 それにしても、代役を立てて招待客を偽装してまで結婚式を挙行したいという若い世代の新郎新婦の考えが、私にはどうも解せない。
 そこまでする理由の一つとして、結婚式には新郎新婦両家の招待客をそろえるという考え方が根強いため、との記載が上記朝日新聞記事中にある。

 これに関して私事になるが、私の結婚式は少し特異的だった。
 両家の親族と、普段何の縁もゆかりもない友人知人上司同僚等を一緒くたにする事には元々無理があるのに加えて、親族と友人知人等では、結婚に当たり新郎新婦であるこちらから発信するメッセージも大きく異なることを考慮したのである。
 そのため、結婚式披露宴を2度挙行することにした。親族のみの結婚式及び披露宴と友人知人等の披露宴を完全に分けて日取りも場所も変え、後者についてはビュッフェ形式にして、新郎新婦も立ち歩いて飲み食いしつつ招待客の皆さんと歓談できる場を演出した。そして、新郎新婦当人からも招待客に向けてスピーチをさせていただいた。 年配の招待客の方々の中には違和感があった方もいたようだが、若い出席者の間では概ね好評で、自分の結婚式も同様にしたいとの相談も後に受けたものだ。
 

 そもそも「結婚式」とは、新郎新婦を取り巻く周辺コミュニティに対して、二人が新しい家庭を持ち新生活を開始するお披露目と挨拶の意味合いがあったのであろう。
 その周辺コミュニティが(特に首都圏においては)崩壊しているとも言える現在、「結婚式」の持つ意味合いも大きく変容していることと捉える。経済社会が大きく様変わりし人間関係が希薄化した今の時代の「結婚式」のあるべき姿とは如何なるものであるのか。

 “代役偽装結婚式”に関してはビジネスとしての観点からは面白く、新たな雇用創出の朗報でもあり、この私も今すぐ「代役」として登録して稼がせていただきたい気分にさせてもらえるものである。(何でもかんでもビジネス化して、暴利をむさぼりゃいいってもんでもないんだけどね。)
 一方で結婚式を挙げる当人達にとっては、この“代役偽装結婚式”を挙行することにより何かが実るとも思えず、後に残るのは経済的損失と挙式後の二人の虚しさのみで、“幸多き”二人には大変失礼ながらどれ程の意味もなさそうな点を憂える私でもある。   
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不妊治療と子どもの人権

2009年06月06日 | 時事論評
 報道によると、出生率がここのところ3年連続で増加し続け、08年の統計結果は1,37で前年より0,03ポイント上回ったとのことである。

 
 先だって、40歳を目前にしている知人女性から、第二子を希望してもう何年にもなるのだがどうも希望通りに授からないため、不妊治療に踏み切るかどうか大いに悩んでいる最中だという話を耳にした。
 この女性に限らず、私の周囲には不妊に悩む女性は今までに数多かったものだ。中には、実際に不妊治療に踏み切った女性も何人か存在した。
 
 私の場合、子どもを持つことに関して元々さほどの思い入れはなかった。授かれば産むし、そうでなければ子どもは持たなくてもよいと考えていた。 もし子どもを持つとしても最初から一人限定の希望だった。 その結果、ラッキーにも思い通りの展開となっているため、不妊云々とは何の縁もない人生を歩んでいる。

 そんな中、決して子ども好きのタイプという訳でもなさそうなのに、そして失礼ながら経済的余裕がありそうでもないのに、多額の費用を注ぎ込んで不自然な不妊治療に頼ってまでもどうしても子どもを持ちたいと言う不妊夫婦も存在する。 何故それほどまでに子どもを持つことにこだわるのか、その心理とは一体どういう本能に由来するものなのか、正直なところ理解し難い部分があるのは否めない。


 朝日新聞6月2日(火)の生活面に、この不妊治療に関して、体外受精児として誕生した(させられた)子どもの立場からのある深刻な事例が取り上げられていた。
 「父以外の人口受精で生まれた子」と題するこの記事においては、体外受精児として世に送り出され既に43歳になる女性の困惑と苦しみが語られていた。
 その内容を要約して以下に紹介しよう。 
 夫以外の男性から精子の提供を受ける非配偶者間人工授精(AID)により自分が出生したことを知ったのは10年前だった。父は自分が小さい頃に家を出て月に一度戻ってくる程度で、母が内職をして育ててくれたのだが、いつも家族の中に違和感を感じていた。 結婚して長男が生まれた時に皆で「誰に似ているか」という話になった時、父は何も言わず家から出ていった。 AIDにより出生したことを知った自分にとっては、父が違うということよりも、それを母が隠していたことに裏切りを感じた。 精子の提供者が誰なのか、知りたくてたまらない。そんな時、新聞で同じAIDで生まれた人が日本にもいることを知り、会って同じ思いを共有した。自助グループ会も立ち上げ、会員が増えている。(体外受精に関しては)子どもを授かることを願う夫婦の思いばかりが注目されるが、本当に人を救う医療なのか?(との疑念を抱く)。


 では、私論に入ろう。

 子どもを産む決断をする場合、生まれてくる子どもの幸せと人権にこそ思いを馳せるべきであるのに、人はとかく親となる自分の都合や体裁や、自分自身の幸せばかりを優先しがちであるようだ。

 上記のAIDに関して言うと、他人の精子の提供を受けてまで、そこまでして片親が血縁ではない子どもを設けるなどというとんでもない“冒険”を企てるのは何故なのか? 子どもを神から授かる事が出来ない夫婦の、一時の切羽詰ったとも捉えられる心理が哀れですらある。
 この朝日新聞記事の事例のごとく、その一時の行動の行き着く先とは家庭崩壊の道程を辿り、子どもに一生重荷を背負わせる運命にあることが自明の理ではなかろうか。 夫婦共に類稀な強靭な意志の持ち主で、尚且つ経済力もあり、生まれてくる子どもを生涯に渡り幸せにできる自信とキャパシティが持続可能な場合にのみ、このAIDのような不妊治療に踏み切るべきであろう。


 私事になるが、私が子どもを一人しか産まなかった事に関して、未だに周囲から“ご意見”を承る機会が後を絶たない。
 私の場合、当初より自分のポリシーで確固たる自信を持ってそういう選択をしているためその旨伝えるのだが、「一人じゃ可哀そう…」「一人目が高齢出産だったとは言え今時40代の出産も珍しくないのだから、もう一人位産めたでしょうに」等の意味不明で“お節介”極まりない言葉を、この私にすら浴びせられる現実でもある。

 何故に人間とはそれ程“子ども”にこだわるのか??
 それはもしかしたら、子孫繁栄や遺伝子継承の思想が人間の本能にあるためなのか? はたまたお国の未来を本気で考えているのか? そうではなくて、単なる挨拶、社交辞令程度の会話なのか???
 もしそうだとするならば、そういった(言葉を発している本人すらも“たわいない”と考えている)一言が、不妊症の夫婦を大いに傷つけている現実なのかもしれない。

 そうであるとしても、やはり親(になる人間たるもの)にとって、子どもの誕生とは人生最高のビッグイベントと私は位置づける。
 一時の周囲のお節介や蔑みに翻弄されることなく、元より、真に夫婦にとっての子どもの存在価値を考慮し、生まれてくる子どもの未来にまで思いを馳せ、その子の人生を保証できる行動を誕生以前より取るべきである。


 親に如何なる事情があろうとも、子どもを不幸にすることは到底許されない。
 この朝日新聞記事のAID女性のごとくの“犠牲者”を、先進医療の名の下に倫理観を欠いた(?)不妊治療により産出し続けることを、社会的に容認してよいのであろうか。

 どうか不妊症のご夫婦の方々、生まれてくる子どもの人権と生涯に渡る幸せにまで思いを馳せつつ、不妊治療に頼ってまで子どもを産むのかどうかの究極の選択をされますように。 
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