原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

“少女趣味”文化を築いた巨匠達

2010年12月15日 | 芸術
(写真左側2枚は水森亜土氏画少女のイラスト、右側は内藤ルネ氏画レターセット)


 現在、東京都文京区弥生に佇む「弥生美術館」において “水森亜土展” が開催中である。(会期:12月26日まで) 
 少女時代に水森亜土氏の大ファンであった原左都子は、先だっての12月12日に娘を引き連れて弥生美術館へ出向いた。


 まずは、「弥生美術館」について少し語ろう。

 この美術館は東京都文京区弥生に「竹久夢二美術館」と併設という形で静かに佇んでいる。 大都会東京の中心地においてこれ程閑静な地に存在する美術館も数少ないことであろう。
 この「弥生・竹久夢二美術館」の場合何故にそれ程周辺が閑静なのかと言うと、東京大学の目前に位置しているからに他ならない。 東京大学とは国立大学にして最大の学生数を有する“マンモス大学”であるにもかかわらず、一部研究機関組織を除き郊外に移転するでもなく今尚東大全学部が大都心(駒場キャンパスも含めて)に蔓延っているが故に、文京区のその周辺は閑静を保ち続けられるのである。 
 (ここで話が逸れるが、東大出身と言ったって今時タレントやフリーターしか出来ない輩を社会に放出するならば、今後は歳費削減のためにも政権はお得意の“事業仕分け”対象として東京大学を郊外移転させて、あの都心の広大な土地を民間に譲渡する等国家財源の一部として有効利用したらどうなの、とでも言いたくなる昨今の経済危機事情でもあるのだが…)

 話がずれたが、「弥生美術館」は昭和59年に創設されたようだ。 創設者が挿絵画家・高畠華宵氏のファンであった縁で氏のコレクションを公開することを目的に創設した美術館であるそうで、高畠氏の数多い作品が常設展の形で公開されている。 元々挿絵画家である高畠氏コレクションを公開目的で創設されたこの美術館においては、今回の水森亜土氏のごとく、やはり挿絵や漫画、イラスト分野の作家の特別展が開催されることが多いようだ。
  
 そして隣に併設されている「竹久夢二美術館」に関しては、平成2年に開館したとのことである。 大正ロマンを象徴する画家であり詩人でもある竹久夢二氏コレクションが数多く公開されている。


 さて、「弥生美術館」における今回の特別展である“水森亜土展”に話を移そう。
 実は原左都子は、本気で“少女趣味”人種であるのかもしれない。 40~50年程前に水森亜土氏のイラストのファンであった女の子は原左都子に限らず多かったことであろう。 その後基本個性は貫きつつも少しずつ芸風を変えながら長年活躍しておられる亜土氏のファンを30代になって尚続けていた私である。 それが証拠に冒頭の左側2枚の亜土氏画少女イラスト写真は、私が30代で大学に再入学した際の講義ノートに挟んであったものを今回写真に撮ったのだ。 (これをどこから仕入れたかの記憶はさすがにないのだが、亜土氏のこの写真の少女画は今でも私のお気に入りである。)
 
 弥生美術館で現在開催されている水森亜土氏特別展に関する公式記述の中に、以下の文面がある。
 水森亜土は長いキャリアを持つイラストレーターであるが、いつ見てもその絵は古くささを感じさせない。私たちが人生の時々で出会うたび、亜土の絵はフレッシュでチアフルでハッピーなものとして心に響く。それは絵を描く亜土自身が人生を楽しみ、常に前を向いて走り続けているからかもしれない。 水森亜土は多彩な顔を持つ。絵描きとしてだけでなく、両手づかいのパフォーマー、歌手、アヴァンギャルドな舞台女優としても実績を誇っている。また華やかな活躍の一方で、四季折々の自然と動物と家族を愛し、ユニークな発想でハードな日々も軽やかに生きる賢い女性でもある。……

 今回の亜土氏の特別展で亜土氏少女の頃の油絵作品を初めて観賞したのだが、我々親子はこの油絵に唸ったものである。 「こんなの今でも私は描けない…」と我が娘が感心する通り、水森亜土氏とは正統派の芸術作品も難なく描ける芸術家であるのだ。


 次に、内藤ルネ氏に話を移そう。
 冒頭写真の右側の内藤ルネ氏のレターセットに関しては、2005年9月に同じく「弥生美術館」で開催されたルネ氏の特別展に原左都子が訪れた時に買い求めたものである。
 その時の内藤ルネ特別展のキャッチフレーズが “~日本の可愛いはルネから始まった~” だったのだが、そのフレーズ通り、ルネ氏の可愛い少女画イラストを我が少女時代に重々堪能して来ている。

 内藤ルネ氏は2007年に残念ながら亡くなられたが、時代的には水森亜土氏よりも早期に少女画分野で活躍されていたことを記憶している。
 昭和30年代から40年初頭にかけて「りぼん」「なかよし」等少女雑誌のイラストレーターとして活躍されていたのがルネ氏であり、原左都子小学生時代の当時、その種の雑誌の“付録”だったルネ氏デザインのちょっとしたお洒落なアクセサリーや着せ替え人形等が欲しくて、親に雑誌を買うことをねだったものである。


 “少女趣味”という世界とは、おそらく受け手により大きく嗜好が分かれる分野であろうことは原左都子も承知している。
 今回の「弥生美術館」特別展の作家である水森亜土氏は、それ故に(?)かどうかは不明だが、自らの個性である独特の作風を守りつつも、後々少女画のヌード作品等を多く発表されている。 これが目当てがどうかについても我が想像の範囲内であるが、今回の特別展には青年男性単独の姿も見受けられれば、はたまた若いカップルの姿も存在した。

 それにしても原左都子は今尚 “天然少女趣味” なのかもしれない。
 水森亜土氏のイラストの特徴である“下膨れ”顔の少女画を好む私である。 
 しかも我が人生を通して豊満妖艶な女性体型など決して目指さず、スリムな少女体型を何十年も維持しつつ未だにミニスカートスタイルを好むのも “天然少女趣味” の表れであろうか??  と今回再度自己分析した私である。 
            
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小沢さん、子分を引き連れて出て行ったら?

2010年12月13日 | 時事論評
 まったくもってこれ程までに支持率を引き下げて尚、国民の前で小沢氏がらみの“内紛”バトルを繰り広げ醜態を晒す民主党政権には、一国民として開いた口が塞がらない思いである。

 本日(12月13日)昼のNHKニュースによると、民主党の小沢氏の衆院政治倫理審査会招致に向けて強行路線を貫く幹事長の岡田氏を中心とする反小沢派グループと、小沢氏への離党勧告に結びつくことを防ぐために審査会出席を拒否しようとする親小沢派グループとの間の“内紛”による亀裂が深まるばかりのようだ。


 そうでなくても現在の民主党政権は、すべての政策において混乱低迷の至りであることは皆さんもご存知の通りである。

 対中、対ロシア、あるいは北朝鮮問題等の対外政策において、優柔不断な外交を続けるばかりで何らの積極的国策を打ち出せないでいる。

 沖縄基地問題に関しても、米軍基地県内移設反対を再度掲げて当選した仲井間知事再選の現在において尚、これまた優柔不断な対応しかできず基地移設問題は相変わらず宙に浮いたままである。
 しかも菅総理はこの期に及んで、鳩山政権時代に沖縄基地移設問題において政策の不一致から政権離脱した社民党を再び味方に引き入れようとの魂胆のようだ。 社民党党首の福島氏と仲良く握手する影像がニュースで映し出されたが、まさか再び“連立”などということはないとは思うが “溺れる者、藁をもつかむ” とはまさにこの事であろう。

 そして、民主党政権交代時の“看板”であった「子ども手当て」に関しても、今に至って尚その財源が確保できずにいる始末である。
 年末に入って3歳未満に関しては月額7千円上積みするとの決定を下したようだが、配偶者控除等の控除制度の見直しについては未だに決着が付かないままである。 民主党の閣僚の中には「年収2000万円を超える国会議員が子ども手当てをもらうのもおかしい話だ」との良識的内部見解もあるようだが、政権発足後1年以上が経過し首相も交代した今「子ども手当て」に如何なる所得制限を設けるのかの結論が何一つ出せないまま年越しを迎える形となる。

 経済雇用政策にしてもこれまた何らの政策展開も出来ないまま、若年層は長引く就職氷河期を余儀なくされ続けている。

 はたまた教育行政に関しては、子どもの国際学力調査において読解力がたかだか国際順位が8位になったとメディアに大っぴらにアピールして、これが日本の子供達の学力の低落傾向が止まった証拠との印象を国民に吹聴しようとしている。 こんな単発的な学力調査だけで子供の学力を総合的に捉えられる筈もなく、とんでもなく短絡的な話である。 


 9月の民主党党首選において小沢氏に打ち勝った菅氏は、上記のごとくの自らの総理としての“ふがいなさ”を「まだ修行の身です」と自己分析しているようだ。
 と言うのも、菅首相が選んだ今年の漢字は「行」であるらしい。 それを選んだ理由であるご本人のコメントを紹介すると、「一番実感があるのは修行の身。総理という仕事は修行している身だという意識でやらなきゃいけない。」

 菅首相はこの種の“弱気発言”をあちこちで公表しておられるようだ。
 本日のNHK昼のニュースでも、この手の菅氏の発言を野党である自民党の石原幹事長がつついていた。 「菅氏は、現在の自分の総理としての役割は“仮免許”(原左都子の記憶違いでしたらお詫びしますが“仮”という言葉が使われたことは間違いありません)で行っているから早めに“本免許”に入りたいらしいが、これは一国の総理としてとんでもない発言である。総理とは就任直後から本免許で勝負するべきである。」
 まったくその通りである。
 一国の総理たるもの、たとえ自信がなくても国民の面前でそのような弱気を決して表ざたにしてはならない。 「修行の身」? 「仮免許」? そんな中途半端な心がけで総理をやっているから、何の実績も残せず自ずと支持率も下がるというものだ。


 さて、話を表題に戻そう。

 そうとは言え原左都子の私論としては、やはり小沢氏は衆院政治倫理審査会の招致を受けて立つべきである。
 今尚、“政治とカネ”問題に関して決着を付けていない小沢氏であることは国民誰しも承知の事実である。 それ故に、9月に行われた民主党党首選において党首の座を圧倒的多数で菅氏に譲ったことをもやはお忘れでもあるまい。

 小沢氏は、その後も親小沢派である“子分氏”達に対し、日頃より「戦後初めて政権交代した民主党政権を大事にしないといけない」と教育し続けているとのことである。
 (小沢氏のこの気持ちは分かるよ。 だって、昨年8月の衆院選においては小沢氏が擁立した“訳の分からん”新人議員が沢山当選したからこそ民主党が政権をとれたんだものね。 あの時当選させてもらえた新人議員達は、今後も小沢氏を頼るしか国会議員として生き残る手立てはないものねえ。)

 民主党が政権交代時に掲げたマニフェストの初心に戻った場合、“政治とカネ”問題において今尚“灰色”である小沢氏は国会招致に応じるべきなのだ。 どうしてもそれに応じられない事情があるならば、親小沢派である子分を全員引き連れて民主党から出て新党を結成するというのが、今の小沢氏に課せられた決断ではあるまいか。 小沢氏がご自身にまだ政治力があると自負されるのであれば尚更、いつまでも民主党に名残惜しむのではなく、正々堂々と政権を離脱して新党を立ち上げられてはどうなのか!?

 元々民主党支持派ではない原左都子であるが、その意味合いで今回は反小沢派である民主党幹事長の岡田氏グループの判断に賛同したい思いである。


 それにしても菅さん、近頃総理としてのリーダーシップ力を失い過ぎていませんか?
 各種報道であなたの姿を見聞していても、視線がおぼつかなくて疲れたご様子のようにお見受けしますが…。 いくら疲れておられようが、一国の総理たるもの新卒の新入社員じゃあるまいし、少なくとも国民に甘えて“仮免許”で“修行”している場合じゃないですよ。
                     
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喪中挨拶状より、寒中見舞いの活用を

2010年12月10日 | 人間関係
 毎年11月下旬頃から到着し始める喪中葉書であるが、不謹慎は承知の上で正直言って「だから、どうしたの??」と言いたくなる原左都子は、人道はずれた冷血人間なのであろうか?


 いえ、決して到着する喪中葉書のすべてに「だから、どうしたの?」と言いたくなる訳ではない。

 例えば親しい人のお身内がなくなったようなケースの場合、「へえ、そうなんだ」位の感情は抱く。 ただ、そのお身内が既に平均寿命を超えておられるような場合、自ずと同情の度合は低くなる。
 そんな中、喪中葉書に記されているお亡くなりになった方に生前お会いしたことがあったり、お世話になったような場合(学生時代の友人のご両親等)は、一報を入れさせていただく場合もある。
 あるいは故人と面識がなくても、例えば亡くなられた方がご自身の子どもさんであったり、若い世代の方のご兄弟等若年層である場合は大いに心が痛むものである。 はたまた、私と同年代の知人の配偶者である場合も少なからずのショックを受ける。

 要するに、喪中葉書を寄こした本人と大して親しくもないのに毎年義理がらみで年賀状をやり取りしているような関係における喪中葉書に対して、「だから、どうしたの?」との感情をついつい抱いてしまうという話である。
 このような“虚礼”に関してはわざわざ喪中のお知らせをいただくまでもなく、それをきっかけに年賀状のやりとりを思い切って廃止してくれても特段の不都合はないとも言える。

 そうとは言え、喪中葉書をお出し下さる方々とはおそらく律儀なのであろう。 亡くなられたご家族を心より弔いたいから故に決して“おめでとう”などの言葉を発する心境になれないのかもしれない。 あるいは、毎年年賀状のやり取りをしている関係において相手が「何で今年は年賀状が来ないのだろう?」と疑義を抱くことを避ける目的で、新年の挨拶を欠礼することを喪中葉書という形であらかじめ伝えておいた方が無難と意図されているのかもしれない。


 かく言う私も、今までの人生において一度だけ喪中葉書ならぬ“寒中見舞い”を出したことがある。
 それは我が父突然死の翌年の話なのだが、これは我が母の意向に従ってそのように対処した。 すなわちこちらからは年賀状は出さず、年が明けて賀状をいただいた方々に寒中見舞いという形で喪中の挨拶を申し上げたのだ。 ただし、血縁ではない我が身内の知り合いには私の考えで例年通り年賀状を作成して年内に投函した。(我が家では結婚以来ずっと身内の年賀状も私が一手に引き受けて毎年作成しています。) 上記のごとく、我が父と面識が無い方々に父の死を知らせる必然性は何もないからである。

 そんな私にとって一番困惑するのは“誰が亡くなったか分からない”喪中葉書である。 せっかく喪中を知らせて下さるならば、お身内のどなたが亡くなったのか位は明記して欲しい気もするのだ。 (ところが、これが喪中葉書の多数であるのが現状ですよね。)

 付け加えると、今までいただいた喪中葉書(寒中見舞い)の中で最もショックを受けたのはご本人の他界である。 一時お世話になったその方が闘病中であられたことは前年の年賀状で心得ていたのだが、その後一度もお見舞いにも伺わず、まさか他界されているとは露知らず不心得にも年賀状を投函してしまった私なのだ。 それを受けて1月中旬にご遺族である娘さんから、「母は昨年亡くなりました。生前はお世話になりましてありがとうございました。他界したことをお知らせできなかったことをお詫び申し上げます。」との直筆の寒中見舞いをいただいた時ほど原左都子にとって辛かったことはない。


 話題を変えよう。
 年賀状投函の時期(12月15日以降)を過ぎているにもかかわらず到着する喪中葉書ほど迷惑なことはない。
 こちらは既に年賀状を投函しているにもかかわらず、その後喪中葉書が届いてしまう経験がある方もおられると思うが、私もその経験者である。 これには心底困惑したものである。
 親しい間柄ならば電話(現在はメール)等で気軽にその旨伝えられるが、そのような間柄でない場合大変だ。 あちらとしてはおそらく「喪中葉書を出したのに、何でこの非常識者が年賀状を寄こすの??」と思うであろうことを想定して、やむなく“既に年賀状を投函してしまった失礼をお詫びする”趣旨の葉書を書いて投函し直したものである。 年末で多忙な時期にこの二重手間は大いに迷惑な話だ。
 喪中葉書を出す方は、どうか早めの投函をお願いしたいものである。 (身内に加えて田舎の母の年賀状まですべて請け負っている原左都子の場合、12月初頭よりパソコンで年賀状作成作業に入るため、11月中の到着をお願いしたいものである。)


 先だっての朝日新聞「声」欄には“喪中はがきも返事出したら”と題した記事が掲載されていたのだが、これを見て世の中には喪中葉書への返答を期待している人物も存在することを発見した。
 “年賀状という形でもいいから喪中の人を勇気付けて欲しい”との63歳女性である投書者の気持ちは少し分からなくはないが、それは他者の親切に期待し過ぎということではなかろうか?

 喪中葉書の本来の意味は、(喪中葉書投函者自身が)死者を弔うために新年の挨拶を欠礼するということにあろう。
 その喪中葉書をもらった立場としては、よほど親しい間柄でもない限り礼儀上まさか年賀状で“新年おめでとう”とは言えないものである。

 喪中にしてどうしても例年通り年頭に年賀状が欲しいのであれば、喪中葉書ではなく年が明けてからの“寒中見舞い”にしては如何か?
 そうすればいつも通り賑やかに年賀状は届くであろうし、その後したためた“寒中見舞い”に対して何かを感じた相手からは、心よりの勇気付けの反応も舞い込んでくることであろう。 
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海老蔵様、ご酒乱の顛末

2010年12月08日 | 
 昨夜(12月7日)メディアで放映された 第十一代市川海老蔵氏 の“酒乱不祥事謝罪会見”をご覧になった方は多いことであろう。

 今回海老蔵氏が引き起こした“酒乱不祥事”に関しては、自身はあくまでも暴力被害者であるとする氏の言及の矛盾点が数多く指摘されているようだ。
 重傷を負ったにもかかわらず何故に110番通報が大幅に遅れたのか?  暴力被害者であるならば被害届を早急に出すべきなのに、それも遅れたのは何故か?  あるいは、加害者とされている人物の方が海老蔵氏よりも重度の負傷をしているという医師の証言や、はたまた酒の席に居合わせた人物の証言と海老蔵氏の言い分が大幅に食い違っている等々…
 これらに関しては、今後捜査が進むにつれ事実が明らかになることであろう。

 いずれにせよ、海老蔵氏自身はしばらく歌舞伎の表舞台に出ず謹慎するとのことである。 氏が出演しているCMも放映中止が相次ぎその損失額は何億円にも達するとの報道でもあり、今後の歌舞伎界を背負う立場にある名門第十一代市川海老蔵氏が引き起こした今回の信じ難い不祥事が各方面に波及する損失は多大なものとなろう。


 それはそうとして……
 若かりし頃より海老蔵氏同様に大酒飲み故に幾多の失態を晒してきている原左都子としては、この手の著名人“酒がらみ不祥事”の報道を見聞すると、いつも我が事のように肩身が狭い思いで穴があったら入りたくなる思いだ…… 
 (今は亡き中川昭一旧政権大臣が外遊先で衛星生中継を通じて世界に泥酔状態の大失態を披露した時も、まるで我が酒乱の姿を鏡に映されるようで大いに肩身が狭かった私なのだが…) 

 いえいえ、さすがに女である私の場合いくら飲兵衛とは言え“暴力事件”と言う失態はない。
 私の場合、泥酔して自分で椅子から転げ落ち肋骨を骨折したのが過去における酒がらみの最大の負傷であろう。 それから、泥酔した帰り道に転んで膝が身までえぐれた話題もバックナンバーで披露している。
 原左都子の場合、一番多い酒の不祥事は何と言っても“暴言”である。 なんせ、皆さんもご存知の通り“毒舌言いたい放題”の私に酒が入ると、“鬼に金棒”  (ではなくて) “気違いに刃物” 状態に暴走するのは重々ご想像が付くことと察する。(トホホ……)


 そんな“酒乱”の私が、今尚後味悪く覚えている“相手の暴言事件”をここで紹介しよう。 時は私が30代半ば独身の頃の出来事である。

 その日も行きつけのカラオケスナックで仲間と共に飲んでいた。行きつけのお店ゆえに周囲の顧客は大抵顔なじみなのだが、その日ばかりは顔なじみグループの中に一人の新顔の女性客が交じっていた。 何分、狭い店内である。すぐに皆が意気投合して歌を歌いつつ一緒に飲み始めるのだが(皆が狭い店内で仲良くした、そういう時代もあったでしょ!)、私は新顔女性を自分よりもご年配と判断しとりあえず「おねえさん」と呼んだ。 これが諸悪の根源だった。 「おねんさんも一緒に歌いましょ。」「おねえさんはどんな歌がお好きですか?」等々私が仲間に引きずり込もうとしたところ、“おねえさん”の怒りが爆発したのだ!
 その女性は私に向かって店内に響き渡る大声で暴言を吐いた。  「“おねえさん”とは何なのよ!! あんたは一体何様なの?! 自分ばかりがいい気になって歌ってるんじゃないよ! 世の中あんた中心に回ってるんじゃないよ!!!」
 酔いも覚めるとはこのことであるが、狭い店内が一瞬凍りついたものだ。
 「申し訳ありません…」と小声でまごつく私に対し、まだ女性の爆発は続く。 「大体どっちが年上??」「私はあんたより若いわよ!!」
 もしかしたらそうだったかもしれないと思いつつも、恐怖心に怯える私にもはや返す言葉はない。 結局、その女性を同行したグループが女性をなだめつつ皆で店を去るしか手立てはなかったものである。 その後も、嫌な空気が流れつつの店内だったことをよく憶えている。
 まあ私自身のその後の教訓としては、たとえ酔っ払っていようが如何なる女性に対しても“おねえさん”は禁句ということだ。  (こういう場合、どう呼べば最善なのでしょうね???)


 話を海老蔵氏に戻そう。

 それにしても、同じ飲兵衛として今回の海老蔵氏の不祥事はやはり心が痛む思いである。
 なぜならば、飲兵衛には飲兵衛の論理があるからに他ならないからだ。 お酒を召し上がらない方からはそんなもの飲兵衛の勝手な言い分にしか過ぎないとのお叱りを受けそうであるが、飲兵衛にも心身面での浮き沈みがその日の“酒の美味しさ”に反映されることは否めない。

 十一代海老蔵氏とは世襲世界である歌舞伎界において類稀な逸材であるようだ。 確かにルックスは抜群であるし、素人ながら端で見ていて華のある人物である。
 ところがどうなのだろう。世襲故に後を継がねばならなかった海老蔵氏は本心から歌舞伎界という世界で今後共自分の人生を貫きたいのであろうか?  適性があるが故に世間にもてはやされ、小さい頃からその道以外の選択肢が許されなかった海老蔵氏にとって歌舞伎の世界とは自分が生きる道であることを承諾しつつも、今尚内面で葛藤しているのではないのかと受け止められそうでもある今回の不祥事である。


 それ程に“世襲”とは一般人が想像を絶する程に過酷な世界であると私は想像するのだ。

 今回の海老蔵氏の泥酔ゆえの不祥事に関しては本人の会見通り一応謹慎してもらうとしても、もうそろそろ歌舞伎界における“世襲”を見直す時代が到来しているのかとも考察する原左都子である。

 お酒好きな海老蔵さんに今後は真に美味しいお酒を飲ませてあげたい気もする。
 世襲世界の過酷さを心得つつその世界に生きる人物の奥方にあえてなられたであろう小林麻央さん、あなたは今回のご亭主の不祥事をどう捉えていますか?
 世襲世界とは元々そんなものだろうと原左都子は心得つつ、それでも海老蔵さんが我が亭主であるならば、回復後には今度こそ様々な意味合いで真に美味しいお酒が飲めるべく教育し直してあげたい気がするのですが如何でしょう?? (ついでに女癖の悪さも私が叩き直しましょうか?)
            
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今日のコネは明日の足かせ

2010年12月06日 | 仕事・就職
 前回の記事「就活と学問の狭間で…」の続編のような形になるが、今回は就職時の“コネ”について論評してみることにしよう。


 原左都子にはきっぱりと言い切れることがある。 
 それは、私は我が生涯における度重なる就職において“コネ”“人脈”あるいは“紹介”等、他者のバックアップを得たり他者を介する形態に一切依存したことがないということだ。 すべての就業において我が実力のみで就職をゲットしてきている。

 ウン十年前の春に初めて新卒で社会に出る時もそうだった。
 私の場合は医学関係の国家資格を取得した上での就職であり、当時その分野は超売り手市場という時代背景に恵まれていたことは認める。  
 そんな中、多くの学友達は既に先輩等が数多く活躍している地元の名立たる病院や医療機関への就職を早期に決定していく中、私だけはあくまでも東京に本社がある民間企業への就職を希望した。 当時先輩の誰一人として先駆者はなく開学以来私が初めてのことであり、指導教官が私の選択に関して「何もそんな冒険をしなくても、いくらでもいい就職先はあるのに…」と心配下さった程である。

 その民間企業での面接は今でもよく憶えている。 後にこの企業の取締役になる当時の所属部門の部長が面接時に未熟な私に問いかけるのだ。 「あなたは管理する立場と管理される立場とどちらを好みますか?」  元々“一匹狼タイプ”で身の程知らずの私がきっぱりと応えて曰く 「どちらも嫌いです。」  それを受けて説諭に入る部長曰く 「企業とは社員皆が共同で一つの事業を作り上げていく組織体です。そこでは管理する事も管理される事もとても重要ですので、あなたがもしこの会社に入ったならばどちらの能力も磨くよう精進して下さい。」 
 これは企業幹部にして“的を射た”説諭であり今尚私の脳裏に刻み込まれている明言の一つでもあるのだが、その当時は「どちらも嫌いです」の我が正直過ぎる大失言により当然入社試験に落ちたものと覚悟を決めたものだ。 どういう訳か入社が決まり、その後女子社員がどんどん結婚出産退社していく中、27歳にして同期入社の出世頭として係長に任命されるごとくこの企業で活躍し成長させたもらえた私である。

 その後30歳にして新たな学問に励むため上記の民間企業を退社した後の我が就活においても、“コネ”や“紹介”等に頼ったことは一度もない。
 例えば私にとってはまったくもって専門外の“パーコン”(パーティコンパニオン)を志した時とて、誰のコネによるのでもなく“身ひとつ”でバンケット会社の面談に乗り込んだものだ。 国会議事堂前に位置する某バンケット会社の面談において首相経験者国会議員元秘書の女社長と面会した際も、私が過去において積み上げたその道とは何のかかわりもない実績を大いに評価してくれ即時採用していただいた。  その後4年の年月が流れ、大学院進学時点で夜間は定時制高校教師になるためコンパニオンを卒業する旨私が申し出た時、この女社長が「○○さん(私のこと)の今後の活躍を私も期待しています!」と激励して送り出してくれたことも今尚印象的な出来事である。

 我が子出産後は“お抱え家庭教師”として家庭内で君臨しつつも、子どもが小学校に進学するにあたり医学的バックグラウンドを活かそうかと再就職を試みた私である。 (今で言う)独立行政法人である某研究所に“あわよくば”との発想で出した履歴書であったのだが、当時既に40代半ばにして20倍の競争率を難なく乗り越えてまたもや採用されてしまったのだ。 (ところがこれに関しては、多少の事情を抱えた我が子がまだまだ小さ過ぎる時点での職業復帰を焦った事等様々な我が失策に苦慮した挙句、3年で退職に至ったことについてはバックナンバーにおいて既述した通りである。)
 
 そんな私も他者の“紹介”に依存せねばならなかったことがある。
 それは就職ではなく大学院進学においてであるのだが、これは既に社会経験を大いに積んでいる私にとっては大いに鬱陶しかったものである。
 30代半ばにして大学院進学を目指した私であるが、大学院の入試とは大学における指導教官の推薦書提出が必須であることを当時初めて知ったのだ。 それまで“コネ”や“紹介”等に一切頼らず生き抜いてきている私にとってこれは実に鬱陶しい現実であった。 やむを得ず当時の大学指導教官に相談したところ「自分で自己推薦書を書いて持って来なさい」との返答である。 (それは結構得意かな!~)とほくそ笑みつつ自己推薦書を仕上げて持参したところ、「あなたは自己分析力が秀でていますね!」と指導教官に唸られ、自己推薦書をほとんど丸写しで仕上げて下さって提出した経験がある。
 (推薦書の提出を強要する場合、他推選ではなく自推薦にした方が本人の自己分析力や文章力も判断材料にできるというものだ。)


 上記のごとく原左都子の場合、自分自身は“コネ”や“紹介”に一切頼らず実力のみで人生を渡って来ていると言い切れるのだ。 
 そんな私も、多少の事情を持って生まれてきている我が娘に関しては“コネ”等を頼ってやるのも親の責任なのかと思いつつの日常であることは否めない。

 それ故に、私は娘が幼い頃より娘の将来に向けて“人脈”を創るべく努力をしているとも言えるのだ。
 その経験に基づいた私の感想は、“人脈”とは確かに一時的には効用があるのかもしれないということである。 “一時的”と表現するのは、結局は一人の人間がこの世を渡って行くためにはどうしても本人の努力そして実力が欠かせないからに他ならないからである。 結局はいつ何時も“本人自身”が社会における評価対象となる実態を、我が子を通してまざまざと見続けそれを実感している一人の親である。

 “コネ”にまつわる私自身や我が子を通じての経験を通して習得した原左都子の思いを今回の記事の表題 「今日のコネは明日の足かせ」 に込めてみた。
 “コネ”とは一時的に活用できる効用はあるのかもしれない。 ただ、その後は自分の実力で精進してこそ真の成功をゲットし得るのが人生というものであろう。
 自分自身が努力を全くせずしていつまでも“コネ”に頼り続けるしか脳の無い人間にとっては、“コネ”とは足かせでしかない、という今回の話である。
                  
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