原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

今後のコメント対応に関するお知らせ (改定版)

2011年05月05日 | 時事論評
 「原左都子エッセイ集」2010年3月16日付“お知らせ”カテゴリーバックナンバーにおいて、「今後のコメント対応に関するお知らせ」 と題する読者の皆様宛のお知らせ記事を綴らせていただいている。

 その全文を以下にコピーして今一度公開させていただくことにしよう。


         ~~~  以下はコピー ~~~ 
        
 日頃より「原左都子エッセイ集」をご愛読いただきまして、誠にありがとうございます。
 2007年9月より現在まで2年半の期間に渡り「2000字」オピニオンエッセイを綴り公開し続け、記事本数は既に400本を超過しております。
 これもひとえに読者の皆様の日々のご訪問あってのことと、ここで改めて感謝申し上げます。

 「原左都子エッセイ集」の最大の特徴は、読者の皆様とのコメント欄における議論が充実していることと筆者自ら捉え、うれしく存じております。
 2年半前の開設以来、皆様より頂戴するコメントの一つひとつに対して、本文を綴るのと同等またはそれ以上の時間と労力を割き、真摯に精力的に返答をさせていただいて参りました。

 2年半が経過した今、正直なところこの作業に対しまして多少(あくまでも多少の範囲ですが)の疲労感と共に、ごく一部ではありますが頂くコメント内容に対する疑義が我が内面に生じていることが否めません。

 そこでこの度、今後のコメント対応に関しまして筆者である原左都子なりの“取り扱い基準”を設定させていただくことに相成りました次第です。

 「原左都子エッセイ集」のコメント欄での公開が相応しくないと筆者が判断させていただいたコメントに関しましては、今後は公開を控えさせていただきたく考えております。

 “「原左都子エッセイ集」のコメント欄での公開が相応しくないと判断する事例”と致しましては、
   ○ コメント内容の思想に極端な偏りがあると判断するもの
   ○ コメンテイターのプライバシー色が強い内容のもの
        (例えば、コメンテイターのご家族等の話題が前面に出されたもの、等々)
                              等が列挙できるかと考察致します。
 (これらの内容の記述に関しましては「原左都子エッセイ集」のコメント欄ではなく、ご自身のブログ等のホームページ上で “ご自身の責任の下” に公開されますようお願いしたく存じます。 ネット上でのさらなる展開を“ご自身の影響力”をもって個々人が楽しまれることをお勧め申し上げます。)

 お陰様で「原左都子エッセイ集」は開設以来多くのアクセスを頂戴し続けておりますが、ここのところさらにアクセス数が伸びつつあります。
 開設直後より力強く支えて下さっている常連愛読者の方々のみならず、不特定多数の皆様のご閲覧、ご訪問を頂戴しつつ成り立っている現状に相応しい“公開性”を、「原左都子エッセイ集」は今後共保持して参りたく考える所存です。
 今回のコメントに関する措置の趣旨をご理解いただけましたならば幸いと存じます。

 今後共、皆様のご閲覧、ご訪問、そしてコメントを心よりお待ち申し上げております!

      ~~~  以上は「原左都子エッセイ集」バックナンバーのコピー ~~~
 


 上記“お知らせ”記事を公開させていただいて以降1年少しが経過し記事本数が600本に近づいている今も、「原左都子エッセイ集」はネット上で何の営業活動もせずしてありがたくもアクセス数を増やしつつ現在に至っている。
 単なる小市民の一庶民にしか過ぎない原左都子が細々と綴るこのような拙いエッセイ集を、一体どこで見つけて下さってご訪問いただいているのかも心得ない私ではあるが、絶え間なくアクセス下さる方々が存在する事自体に心より感謝申し上げたい思いである。

 上記の“お知らせ”記事に於いて原左都子自身のコメント公開基準を設けることにより自ら一つのバリアーを設けて以降は、さすがにコメント本数は減少の傾向を辿り今に至っている。
 それでも尚、開設後間もない時期よりご訪問下さっている常連読者の方々等に支えられつつ、コメント欄に於ける議論が充実し続けていることが「原左都子エッセイ集」の特徴であることには変わりないと私は捉えている。

 一方、「原左都子エッセイ集」における長年のお付き合いにより既に“信頼関係”が築かれていると私が認識させていただいている読者以外の、“見知らぬ方々”からコメントを頂戴する機会がここのところ多くなっている。
 どのような経緯であれ、見知らぬ方々が我がエッセイ集をご訪問下さり、わざわざ貴重な時間を割いてコメントをいただけることにここで改めて感謝申し上げたい思いである。

 ただ残念ながら見知らぬ方々から頂くコメントの中には、「原左都子エッセイ集」をお読み下さった(あるいは途中まで端折り読みした)直後の感情をそのままコメント欄にぶちまけたのかと思しき“感情的なご意見”も混ざっているのが現状である。
 (感情的なコメントを受け取った立場としては、土足で自宅の中に侵入されていきなり殴りかかられたような感覚なのだが…。) 
 
 この種の暴力的とも表現できるコメントを一読させていただいた場合にいつも原左都子が憂慮するのは、現在の世の中の一般常識に関してである。
 この種の方々とは、現実社会においても普段から見知らぬ人相手に自分が今現在不愉快に感じた思いを、ダイレクトにぶつけているのであろうか??? と言うことなのだ。

 ところが、世間を見渡すと決してそうではない様相である。
 私が若年だった頃に比して、今の若い世代の人々とは現実世界ではむしろ“素直過ぎる”ような印象すら持つことを懸念する私なのである。
 そういった現代社会特有の“人間関係の希薄化現象”がもたらした負の所産として、彼らは自分が癒されるネット社会を彷徨っているのかと考察できなくもない。 
 そしてたまたま発見した「原左都子エッセイ集」のごとくの毒舌ブログに対し、極端な場合「こんな自分が知らないネット上の嫌味な奴など、叩きのめしてやろう!」との感情の下、自身の内面から湧き出る反発心をコメント欄に吐き出すことによりストレス解消したいのではあるまいか?? 

 もしそうだとすれば長年生きている原左都子としては、若年層のそんな思いをこのエッセイ集のコメント欄で受け止めてあげたい気もするのが“老婆心”というものである。
 (それ故に例えば前回の記事において、おそらく「原左都子エッセイ集」をネット上の何処かで一見したのであろう多くの方々より頂戴したフィギュア関連のコメントに関して、著者である私から貴重な時間を割いて真摯に返答コメントを書かせていただいたといういきさつである。)

 だがここで、現在は一庶民にしか過ぎない立場の原左都子として少し物申したい思いである。
 ネット世界の氾濫が常識化している時代において、相手の顔が見えないネット上ならば見知らぬ人相手に自分の感情を露出することを含めて何を言ってもいいと教育しているのは、一体何処の誰なのか?!!  せめて自分の感情を見知らぬ相手にぶちまける前に、名を名乗り、一呼吸おいて冒頭に挨拶文を書かせる等の教育はするべきであろう。

 それから、まったく見知らぬ方からいきなり「上から目線コメント」を頂くこともある。 お偉い方でいらっしゃるのだろうが、ちょっと良識を疑いたくもなるというものだ。 この手のコメントに限って内容がさほど大したことがなかったりして、返答において簡単に論破できてしまえるのは快感である。(不謹慎でスミマセン


 「原左都子エッセイ集」に於きましては、上記のごとく2010年に公開した“コメント公開基準”に従いまして従来通り皆様より頂戴するコメントを一旦受入れた上で、公開・非公開の判断をさせていただく所存でおります。
 コメントを下さる場合は、何卒上記の“コメント公開基準”を熟読し了承された上で記載いただけますよう切にお願い申し上げます。

 今後共、皆様のご訪問をお待ち申し上げております!
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「復興」も「自粛」も人それぞれのはずなのに…

2011年05月03日 | 時事論評
 今年のゴールデンウィークは、カレンダー上本日からの3連休を除き5月8日まで飛び石状態である。

 高校生の娘を持つ母親の身としては、1日朝寝坊をした翌日は早起きして弁当作りを余儀なくされる繰り返しで、連休中でゴロゴロ寛ぐ身内を横目に少しも休んだ気にはなれない。 
 まあ主婦の立場とは盆暮れ及び5月の連休は長期家族旅行にでも行かない限り、普段以上に家事に追われることを強要される宿命にあるのだけどね…

 娘の大学受験が目前に迫っている今、その結果が出せる来春までは長期旅行の予定など立てている場合ではない「お抱え家庭教師」の原左都子の今年の連休は、至って地味な日々である。

 そんな“地味な連休”前半に原左都子が見聞した「東日本大震災」関連諸報道等を通して揺れ動いた“心のひだ”を、今回の記事において思いつくままに列挙してみることにしよう。


 先週末にはフィギュア世界選手権大会をテレビにて観賞した。
 そもそも3月末に東京にて開催予定であったこの大会は、「東日本大震災」(特に「福島第一原発事故」がもたらした放射能汚染)の影響で1ヶ月遅れで場所もモスクワに移しての開催だった。

 男女シングルのみに関してこの大会を振り返ってみることにしよう。

 男子は小塚崇彦選手が銀メダルを取得した。 特にフリーにおいてノーミス演技を披露したことが小塚選手の銀メダルに繋がったことをとりあえず祝福しよう。
 原左都子個人的には、高橋大輔選手の力強い技術力そして情感溢れる演技力や、織田選手の流れるように美しい演技力に期待していた。 ところが、ビスがはずれるという信じ難いトラブルに巻き込まれた高橋選手がメダルを逃がしたのは残念であるが、それも自己責任の範囲であろう。
 小塚選手はフリーでは確かに頑張ったものの、手の動き等の繊細な表現力を含めた全体的な芸術性にまだまだ課題があろうことを私は感じた。 今回の小塚選手の銀メダルは大会組織からの“何らかのご褒美”だったのかとの印象を受けたのが、私の正直な感想である。

 片や、女子は安藤美姫選手が金メダルを獲得した。
 こちらも、ショート、フリー共にノーミスの演技ではあった。 ところが、今時3回転3回転の連続ジャンプさえ一度も飛べずして、世界大会で優勝を勝ち取れるのであろうか?との大いなる疑惑が湧き出ている原左都子だ。
 1年ぶりに国際大会の大舞台に復帰したキム・ヨナ選手の技術力、演技力はやはり“ダントツ世界一”だったと私は感じる。 ショート、フリー共々少々のミスをしたことが銀メダルの結果を導いたのであろうが、それにしても安藤選手の高得点は過去の世界大会に比して異例だったのではあるまいか?

 結局は、今回モスクワに場所を移して開催されたフィギュア世界選手権大会において「東日本大震災」“レクイエム感覚”が大会組織委員会に大いに蔓延り、日本代表ならば誰でもいいからメダルを授与するべく大会組織委員会が裏で打ち合わせをしていたのであるまいか??  それが証拠に、エキシビションでは「東日本大震災」を追悼するべく式典が繰り広げられた様子である。(私は見ていないのだが)

 今回の「フィギュア世界選手権大会」も含め、世界中が「東日本大震災」を追悼してくれることは原左都子としても一応ありがたくは思っている。
 ところが、これらの“他人事思想”に基づいた「国際政治関係維持目的」の影像を見て一緒に“お涙頂戴”して感情移入しているのは、実は“被災者ではない日本国民”がほとんどなのである。 

 被災地の現状とは、上記のような娯楽スポーツテレビ番組など見る暇も精神的余裕もなく時が流れているのが実情なのだ。


 話を現実に戻すと、本日(5月3日現在)の「東日本大震災」による死者・行方不明者の総数は2万数千人の規模である。
 被災者の多くの方々は大震災発生以降もうすぐ2ヶ月が経過しようとしている今尚、家族が生きていることを祈りつつ、日々がれきに埋もれた自宅周辺に足を運び声をかけ、そしてあちこちの避難所を巡り、自らの家族を探して彷徨っているのだ。

 上記の「フィギュア世界大会」のみならず海外から日本に届く数々の「復興」激励に“お涙頂戴”して喜んでいるのは、結局被災地現場に於ける過酷で悲惨な実態を知らない(あるいはそれを想像できない)地域に居住する国民だけなのではなかろうか??
 同時にテレビ報道を筆頭に各種メディアも“非被災者の軽薄な思考”から視聴率を得る事を頼って、そのような影像を流すのは如何なものだろう?


 「自粛」に関しても同様である。

 「自粛」「自粛」とうるさくメッセージを発信しているのは、結局は日本に於ける“被災していない地域”からのみだ。

 「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて私論を既に述べているが、今回の大震災に関しての「自粛」とは個人の意思の範囲で判断するべきと私は考えている。
 にもかかわらず、相変わらず「自粛」を指導しようとの意思がバレバレの著名人からのメッセージがあれば、はたまた非被災地の国民の間には「自粛」しなくていいとの“根拠なき責任逃れ発言”も横行している。

 そんな中、私論と同趣旨の“とある著名人”の記述を新聞にて発見した。
 被災地域ではない地域に暮らす著名人が何故に「自粛」「自粛」と騒いでいるのかと言うと、それは世間からの“バッシング”を回避したいからに過ぎない、との一文はその通りであろう。
 世間からの“バッシング”を恐れつつ「自粛」を演じて生きねばならない立場にある著名人が於かれている現実を原左都子も慮る反面、今回の「東日本大震災」が被った被害とは、一著名人が愚かな私欲や恐れを優先して済む問題ではない程に、その負担は今後自分に覆いかぶさってくることであろう。

 例えばの話、本日(5月3日)の朝日新聞朝刊記事によると、原発賠償金案は4兆円の巨額になるとの試算である。
 そりゃそうでしょう。 何の罪もない福島県民が現在被っている被害とはこの金額で保障されたとて償い切れないのは歴然である。
 この東電福島原発事故による賠償金の一部を、東電利用者である一般市民が担う案であるようだ。 東電を利用している地域では、どうやら今後電気料金が2割高になるとの試案である。

 こうなるとフクシマに住んでいない非被災者にして、国や東電に対して「誰が原発に賛成したのか!!?」「少なくとも、私は原発建設に反対だったよ!」とでも言いたくもなるというものでもあろう。


 そこで今回の記事の最後に、朝日新聞が大震災発生以降発信している、著名人からのメッセージを毎回取り上げたコラム「生きていくあなたへ」の4月24日の“私たちこそ頑張ろう”と題する記事を紹介しよう。
 
 “ソウル・フラワー・ユニオン”と名乗る音楽グループのボーカルである中川敬氏は上記記事に於いて以下のように述べておられる。(要約して一部のみ紹介しよう。)
 チェルノブイリ事故以降、反原発ライブを企画したりしたが、自分の中で「反原発」は当然になり過ぎてむしろちゃんと声を上げていなかったことを反省する。 そんな自分は被災した(朝日新聞のタイトルである)「生きていくあなたへ」簡単には言葉は出ない。この欄が「生きていく私たち」ならばしっくりくるけど…。 「被災していない私たち」こそ頑張らないとね。 次世代エネルギーなど新しい生き方が求められているのも我々自身。 ここから本当にこの国が変わらないと。

 大震災発生以降シリーズとして発信し続けている朝日新聞上記記事に於いて、原左都子が同意できたのは今回の中川敬氏の記事が初めてである。
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携帯ポイント制度で一番得しているのは誰??

2011年05月01日 | 時事論評
 あの Felica という奴。
 携帯にそのチップを搭載している機種において、その裏のマークをかざすだけでポイントが溜まるという“携帯ポイント制度”を皆さんも利用しておられるのであろうか?

 私は一切利用していないのだが、普段その利用を勧誘される機会は多い。

 つい先だっても家電量販店系列ディスカウント店で買い物をしたところ、レジ担当者に「携帯をかざすだけでポイントが溜まりますよ。この機会に是非登録して下さい!」と勧められた。
 以前にもカラオケ店等において登録を勧められ、一度入会を試みようとしたことがある事に関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて既述している。
 ところがその初期登録に手間暇かかるし、その通信費は自腹である。 所詮現金換算で一回10円20円程度にしかならないポイントを取得するのに、通信費自腹とは納得がいかない。
 しかももっと憂慮するべきは、その登録時に詳細の個人情報を提供するはめになることだ。

 「すみませんが私はパケット定額も利用しておりませんし、携帯キー操作に不慣れで登録に時間もかかるのでお断りします。」と一旦断ったものの、
 「いえ、今は登録が簡単になっていますし、店員がお手伝いしますから大丈夫ですよ」と言い終わらない間に、早速別の補助店員が私のところにやって来た。
 結局携帯をパケットに繋がれてしまい、「はい、ではお名前から指示通りに入力して下さい」と言う。 (もう、鬱陶しいなあ)と内心思いつつ、(全然登録が簡単になっていないじゃん!)とイラつき始める私である。 しかも改めて登録していると、提供する個人情報が以前よりも詳細に及んでいる気さえするのだ。 既婚、未婚の種別まで選択する段階で「こんな個人情報まで入力しなきゃいけないのですか!」と半ば憤慨しつつ問う私に「いえ、それは任意で結構です」とのことで、入力が終了したと思った私が決定キーをクリックすると、エラー発生である。
 「あっ、すみませんが、お客様が間違ったキーを押してしまったようですので、もう一度最初から登録し直して下さい」と言われた時には、原左都子の怒りは頂点に達していた。

 「これだから最初から登録しないと言っているじゃないですか! だいたい、微々たるポイントなんか要らないのに、何でこんな個人情報を登録させられなきゃいけないんですか! 通信料はこちらの負担だし!」 
 怒りの収まらない私に店員氏は「申し訳ございません…」と言ってすごすごと退散していった…


 「携帯ポイント制度」に限らず、カードによるポイント制度も含めて今やポイント制度は世に“普通”に蔓延っている。
 
 例えば自宅に程近いクリーニング店に行くと、アルバイトと思しき顔なじみの同年代女性店員氏が私を捕まえて 「いつも本当にお若いですね! とてもそのご年齢には見えませんよ。云々…」と言ってくれるのは正直うれしい。  ただ、この店員氏が何故に私の年齢を知っているのかについては原左都子としては重々お見通しである。
 要するにポイントカードを作成するに際して私が記入して提供した個人情報が、レジ画面に出力されるシステムなのだ。 それを一覧できる立場にある店員氏は本来ならば立場上その個人情報を顧客の前で公言してはならないはずであるが、自分が興味ある顧客の年齢に関してうかつにもついつい公言してしまうのであろう。

 あるいは、近くのスーパーマーケットに行ってもやはり同年代の女性店員氏より“妙な”挨拶をされることが多々ある私である。 大規模チェーンスーパーマーケットで不特定多数の顧客をターゲットとしている店舗であり、当然ながらすべての店員氏達と個人的な会話など交わした事は一度も無い。 にもかかわらずレジでの会計時に「いつもご来店ありがとうございます」などと挨拶された時には「こちらこそ」などと返しつつ、ポイントカードにより顧客の入店回数情報も得てマーケティングに利用しているのだろうか?と推測してしまう私である。
 店員が顧客に挨拶することとは商売の基本中の基本であり、今後も続けて欲しい思いではある。 ただ、ポイントカード入会時に情報提供した個人情報を“店舗に利用されている事”を顧客に感知されるような挨拶をするのは如何なものか、と言いたい私でもあるのだ。(しかも安さが売りのスーパーマーケットで「いつもありがとうございます」と言われても、何だか貧乏たらしくて肩身が狭い思いだよね…。  そうではなくて不特定多数の顧客の中で、とりわけ私の容姿が印象的で挨拶してくれているのならうれしいのだけど…


 次に考察するべきは、「携帯ポイント制度」に係わっている通信事業組織である。

 特に「携帯ポイント制度」においては、初期登録時に通信料が発生することが明白だ。この暴利をむさぼっているのは当然ながら携帯電話関連等の通信事業組織であることは否めない事実であろう。
 原左都子のような“年寄り”には当の昔から世に蔓延っている“政治経済界癒着絵図”が見え見えであり、そんな馬鹿げた事象には騙されない意思が強靭であるが、片や若い世代の人々はどうであろうか?

 携帯会社から「パケット定額」はお得ですよ!と勧められたら、若者をはじめとする社会的弱者とはそれを志向するのであろう。 さらにそれを利用した店舗から「携帯ポイント制度」に入会したらもっとお得ですよ”と勧められるがままにそれに加入してしまい、詳細な個人情報を提供しまくっているのが今の日本の世に生きる若者をはじめとする弱者の現実ではあるまいか??
                    
 「個人情報保護法」は既に法制化されて久しい。
 これに基づいているという契約約款を振りかざし、弱者である一般消費者相手にこれに「同意」しろという文章のみで目くらませをして、大手企業が大手を振って少額のポイントと引き換えに庶民の「個人情報」を自社のマーケティング等に利用してはならないことは歴然である。
 
 しかも Felica などという代物を携帯に搭載する事により、いとも簡単に大手企業が「個人情報」を入手できるようになった時代である。
 弱者相手のこの商法は如何なものか? 
 今さらながら問題提起をしたい原左都子であるのだ。
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