原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

子どもの学費は親の責任に於いて負担するべき!

2012年04月05日 | 時事論評
 今春我が一人娘が大学に入学した直後であるため、どうしてもそれに関連するエッセイが続く事をご容赦願いたい。


 「原左都子エッセイ集」2009年7月のバックナンバーに於いて、「高校無償化公約は安直過ぎる」 と題する記事を公開している。

 当時、民主党に政権交代する直前に選挙の“票取り目当て”で党が打ち出した「高校無償化」公約に大いに反発した私は、それを厳しくバッシングした。
 上記バックナンバーを、以下に少し振り返らせていただくことにしよう。

 民主党は本気でそのような公約を打ち出しているのか? その財源確保案に国民公平性はあるのか?  そもそも高校無償化の前提として、現行の学校教育体系における“高校の義務教育化”の議論こそが優先されるべきではないのか?
 どうやら、政治にも“流行(はや)り”があるようだ。  政府やマスメディアが“少子化、少子化”と騒ぎ立て、それがこの世の“元凶”であるかのごとくの社会風潮が捏造されてしまうと、「子育て支援」する振りをして国民にお金をバラまきさえすれば国民の人気が取れると民主党は考えるに至るのであろう。  
 いくら何でもこの公約は保護者を甘やかし過ぎであるし、“付け焼刃”的政策としか言えないお粗末さである。  現在高校進学率が98%に達しているとは言え、現行の学校教育法の下で高校とは義務教育ではない。 現在不況が深刻になり高校生の子どもの授業料が支払えない保護者が激増しているとはいえ、“お金を配る”という至って安直な政策では「子育て支援」を果たし得ないことは明白である。  それよりも今民主党が優先するべきなのは、経済情勢の如何にかかわらず、可愛い我が子にたかだが年12万円(公立高校の1年間の学費相当額であるが)の高校の授業料を3年間支払ってやれない保護者を量産している、行政の“醜態の現状”こそを見直すことではないのか。  経済構造や雇用体制の見直し、また現行の教育制度改革による“国民が将来に渡って生きる力や自分が産んだ子どもを育てていける力のある”国民の生活基本力の育成等、次期政権を獲るべく目論んでいる政党が優先するべき課題は盛り沢山ではないのか。 “金のバラ撒き”などという、貧困にあえぐ国民をせせら笑うかのごとくの安直な公約ではなく、長期展望に立った成熟した政策を実行して欲しいものである。
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより要約引用)


 別のバックナンバーに於いても子どもの学費に関する見解を幾度か述べている原左都子であるが、私論としては子どもの学費とは親が支払って当然と考えるのだ。

 どういう訳かこの国の親どもの中には、自分の愛車を購入・維持する費用や携帯電話(現在はスマートフォンであろうか)を家族皆が持つ事こそが、子どもの教育費や義務教育過程の給食費を支払う事よりも重要との位置付けの人種が数多く存在するようだ。
 親とは決してそうではなく、愛車を売り払ってでも携帯電話を解約する等自分自身を多少犠牲にしてでも、可愛い我が子の教育費支出を最優先するべきではないのか!  (との内容の記事を既に何度か公開している。)


 今回の我がエッセイに於いては、大学生の学費に関して私論を述べさせていただく事を主眼としている。

 私事になるが我が娘が今春入学した大学に於いても、なんと!4割にも上る学生が学費を各種「奨学金」に頼る現実との大学からの説明であった。
 その「奨学金」を将来返済するのは卒業した学生本人であるらしい。 すなわち“出世払い”とでも表現できよう。
 この現象とは好意に解釈するならば、学問意欲や将来の就職の安定を我が身の事として自覚できている自立心旺盛な学生達が、親の経済力などに頼らず奨学金を利用してでもその道を極めたいとの“美談”と解釈できるのかもしれない。
 この現象を大学経営者である法人側から考察するならば、学校法人経営維持発展のため入学生に「奨学金」に依存させてでも定員以上の学生数を揃えたいとの、(特に私立)大学側の差し迫った事情もあろうか?

 ところがもっと厳しい現実問題として、この奨学金の返済滞納者が増えている実態でもあるようだ。
 日本学生支援機構に於いては、現在1万人を超える滞納者登録があるとのことだ。 その滞納が9ヶ月以上に及ぶと、奨学金返済を求めて裁判所に督促を申し立てられる運命となるようだ。 
 そのような厳しい「奨学金」制度の現実を招いている諸悪の根源とは、現在の「奨学金」とは名目のみで、その実態は「教育ローン」に他ならない程の高金利を課せられる事実との報道も見聞している。
 この現状では、現行の「奨学金」とはもはや「奨学金」とは呼称できない事実であろう。


 子どもの学費を「奨学金」に依存し、その返済を子どもの“出世払い”に頼る親達とは、そんな厳しいこの世の現実を理解した上でそうしているのであろうか??
 
 ここで今から遡る事40年近く前の我が学生時代を回顧するが、遠い昔の我が周辺にも学費を「奨学金」に頼る学生が存在した。
 ただし当時の金融情勢とは数%高金利の時代背景である。 さらに当時の貸与「奨学金」とは無利子が通常だった。 その学生の親の考えとは「子どもに当てる学費を預貯金に回し、無利子の奨学金を借りた方が将来利息分家計が潤う」との何とも親の勝手かつ姑息な判断に基づいていたようだ。
 そんな馬鹿げた親の考えに翻弄された挙句、その学生の就職後定期的に届く「奨学金返済」通知の振込手続き(当時の金融機関は午後3時まで窓口のみの営業だったし…)の煩雑さに辟易とさせられる、と後々語っていたことも我が脳裏に刻まれている。  その返済金は約束通り後々親が負担したらしいのだが、親は子どもの返済手続き上の時間的ロス等の迷惑も、少しは考慮して欲しいと同感申し上げたものである。


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 可愛い我が子を大学へ入学させたい等々、子ども達に出来得る限りの高等教育を身につけさせたい親の思いは我が身を通じて重々理解申し上げる。
 そうした場合、親の役割としてはまずその「学費」こそを確保することからスタートするのが常識なのではなかろうか?

 もちろん子ども達の個性はそれぞれであろう。 自立心旺盛に育った子どもの場合、「奨学金」を頼ってでも大学へ入学して学問を探究したい!と親に訴えることでもあろう。
 そんな健気な我が子に親が甘えて済む話なのだろうか? 
 少なくとも、現在の各種「奨学金」制度が於かれている厳しい現実を親の立場として認識する事から始めるべきだ。  現在の親の経済力の範囲内でその奨学金の返済が将来ままならない状況下を想定できたにもかかわらず、子どもの“出世払い”で大学へ入学させたとすれば、それは一種の“子ども虐待”と私は結論付ける。

 我が娘が今春入学した私立大学の学費とは、(正直に言って)容易い金額ではない。
 我が家においては、その4年間の学費総額を計画的に蓄積した後に可愛い娘を入学させている。
 この厳しい経済情勢の中、我が娘と同じ大学に入学した学生の4割が“出世払い”の「奨学金」に頼っている現実である。 もちろん「奨学金」を受けている学生達の在学中の学問の精進、及び将来の立派な就職に期待・応援申し上げたいものだ。
 
 それでも、もしかしてそれら学生達が近い将来就職難にあえがないとは限らない。  その場合、この国の「奨学金」制度とは親の責任を二の次に位置付け、現役学生達に更なる厳しい道程を歩ませるべく魂胆の上に成り立っている“弱者虐待ローン制度”との結論となろう。

規律の既成化が強まる社会

2012年04月03日 | 時事論評
 (写真は、昨日4月2日に原左都子が保護者の立場で訪れた某大学に於ける入学式の風景)


 昨日、我が一人娘が大学に入学した。

 その入学式に先立つ我が親子の最大の関心事とは、(くだらない事は承知だが)何を着ていくか、だった。
 と言うのも娘が見聞したところによると、今時の大学の入学式には皆“黒のリクルートスーツ”姿で出席するのが常識であるらしいのだ。
 それに反応して私曰く、「なんで18,9の子どもが自分のおめでたい式典に“葬式もどき”の恰好で出席せねばならないの? 自分が好きなものを着ていきゃいいじゃないの! 私なんか大学の入学式は(大学院も含めて)3度出席したけど、3回共自分の思い通りの好き勝手な恰好で行ったわよ。」
 
 実にその通りだったし、当時はそれが当然の“自由な”世の中だった。
 早速、原左都子自身が過去に於いて着用した入学式の衣装に関してここで語らせて頂くことにしよう。

 まず1回目、我が18歳の時の入学式には、エメラルド色の流れるようなラインのロングフレアスカートスーツに真っ赤なエナメルパンプスのいでたちだった。
 事前に母が「入学祝いにあなたが好きな洋服を買ってあげる」と申し出たのをよいことに、私は以前よりショーウィンドウを見て気に入っていたそのスーツが欲しいと回答した。 早速スポンサーの母を伴ってブティックで試着したところ、まるでオーダーしたかのようにサイズがピッタリでよく似合ったのだ! それを見た母もまんざらではない様子で即決で買ってくれた。 私のセンスにより真っ赤のエナメルパンプスをコーディネートして、入学式に着ていくことと相成った。 (その姿はやはり相当派手だったようで入学後私の衣裳を記憶していた教官や学生が多数存在し、プラスマイナスそれぞれのご感想を頂戴したものだ。)

 2度目は30歳にして再び入学した大学の入学式だが、この時私はまだ民間企業を退社しておらず(参考のため夏のボーナスをゲットした6月末に退社した)多忙な合間を縫って入学式に出席せねばならない身であったため、いつも通りの普段着で出かけた。  
 当時“規律の既成化”道程を時代が歩み始めた時期だったのか、(まさか“黒一色”ではないのだが)フォーマルっぽい正装をしている新入生が多かった記憶がある。

 3度目の30歳半ばの大学院の入学式には、当時流行していたミニスカボディコン・ショッキングピンク色スーツで出かけた。 会場内の多くは大学入学学生であり、大学院席が会場の隅っこに位置していて大学院入学生が数少なかった事もあり、さほど目立つ存在ではなかったと記憶している。


 さて、娘の今回の大学入学式衣装に話題を戻そう。

 今時の大学入学式は“黒のリクルートスーツ”スタイルが常識と聞き、その実態を(何と阿呆らしい…)と落胆しつつも、我が娘が入学した大学で無事に生き抜ける方策を模索してやるのも母親としての役割である事には間違いない。
 そこで母である私が採った方策とは、ネット上で展開されている「ベストアンサーなんたら…」の質問コーナーをチェックすることだった。
 今時ウェブ上でその種のサイトが山ほど存在するのだが、その中で私が見聞した幾つかのサイトの「ベストアンサー」とは、やはり“黒のリクルートスーツ”案が圧倒的多数だった。

 その中で、大学入学予定学生の母親が投稿した質問に応えた現役大学生による“我がベストアンサー”を発見したのだ!  その回答を以下に紹介しよう。
 「今後大学生となる人物が入学式に着ていく服など、本人自身が考慮し判断実行すれば済む話だ。お母上はご自身が着ていく服に関してもお迷いのようだが、そもそも大学の入学式に親など来なくていいのではないのか。」
 この現役大学生の回答にいたく感動した原左都子である。 こんな骨太の現役大学生が現在存在している事実を知っただけでも、私はこの国の明るい未来が描けた気さえさせてもらえたのだ!

 まあそれにしても、我が子が生まれ持った個性は上記アンサーの大学生とは大いに食い違う。 それを承知しつつ我が娘と再度相談・確認した。
 結果として、私の背中を見て育っている娘が言うには「“黒のリクルートスーツ”は着ていかない!」との結論だった。  「リクルートスーツを着ないにしても“黒”でまとめた方が無難かも…??」と提案した母の私に対して、娘はそれに従い黒のエレガントドレスコーディネートで入学式に出席する事と相成った。

 ここで上記大学入学式の写真を解説するならば、前方に位置している入学生の皆さん全員が“黒スーツ”を着用している姿を認識いただける事であろう。


 日本の社会はいつの時代からこのように“規律の既成化”にまみれ窮屈になってしまったのだろう??

 その話は、我が高校教員時代に遡る事を記憶している。
 ちょうど我が国の義務教育において「日の丸・君が代」問題が勃発したのが、私が高校教員に赴任した頃の事だったと記憶する。 当時の学校職員会議の場で、卒業式や入学式にそれらを掲げ全校生徒に歌わせる事の是非に関する議論が展開した。 「反対!」意見に同調する原左都子であったのは当然だが、その我が認識の前提として、何故近代市民社会においてこんな“くだらない事象”が今現在議論されねばならないのかこそが不可思議であり、実に悔しく情けない思いだったものだ。

 おそらく私が所属していた学校が公教育現場とは言え義務教育ではない「高校」であったため、反対意見を唱える教職員に対する処罰対応の程が緩やかだったのか?とも考察する。 当時はまだしも「日の丸・君が代」に反対する職員が法的処罰の対象となる時期ではなかった様子だ。(反対志向の強い教員に対しては、人事異動面でマイナーな対応が施されていた事は認識しているが……。) 
 その後私は教育現場を去りその議論に参加せずに済む立場にはあるが、この種の議論が教育現場の教員を更に苦しめる事態に陥っている現状を危惧して余りある現状だ。


 今回の我がエッセイに於いては、これ以上の「日の丸・君が代」議論を展開することは差し控えるが、現実問題として、上記写真の大学でもご覧のように「日の丸」が壇上に高々と掲示されていている現実である……

 おそらく日本国中すべての国公立及び私立大学に於いて、同じ現状である事だろう…。


 それにしてもだ。
 大学新入学生が入学式に着ていく服など何なりと自由でよいであろうに。
 にもかかわらず、何故若き世代の皆が“黒のリクルートスーツ”を着用せねばならないのだ??
 それってもしかしたら、今の若者は「日の丸」を掲げ「君が代」を斉唱する事を深い思慮も無く受け入れらる事実と同一レベルの話なのか??  あるいは、そんなくだらないことで“処罰”を受けている場合ではない、との“我が身息災”逃避行動なのか???

 今の日本とは世界規模での政治経済危機と共に、そんな“全体主義”観点から一アジアの小国として落ちぶれてしまったのではないのか??? 
 何故、今の若者達は組織体制に迎合するばかりで現状打破を志さないのか!? その“黒のリクルートスーツ”の着心地がそれ程よいのか??

 参考のため原左都子はDNAに於いて純粋な日本人であるがこそ故に、この種の軟弱な若者層に“歯がゆいまでの懸念”を抱きつつの今回の論評である。