ここのところ時事及び医療関連論評記事が連続しているため、少し“箸休め”に「酒」カテゴリーのエッセイを綴る事にしよう。
皆さんは、居酒屋に行くと一番最初に出される「お通し」を如何に捉えていますか?
酒好きな原左都子は、一杯目の酒と同時に小鉢で座席まで届けてくれる「お通し」を比較的好意的に解釈している人種である。
近年はこれを出さない飲み処も急増しているように見受けられるが、私にとってはちと寂しい思いだ。
なんせ若かりし頃より「ざる」の異名をとる飲兵衛の私の場合、酒を飲むスピードが異様に速い。 下手をすると注文した料理が届くまでに“かけつけ3杯”を軽くこなしてしまう場合とて少なくない。(親しい間柄の飲み会に限られるが…)
これは体裁が悪い事を承知している私であるが、それでも周囲に合わせてちびちびいくのは性に合わないし、ましてや、料理が届くまで酒のお預けを食らって“お利口さん”を強制されるような飲み会だけは今後共参加を回避したいものだ。
こういう場面で「お通し」とは、飲兵衛が酒に手を出す“助け舟的役割”を果たしてくれる存在であると私は位置付ける。 特に酒の会合に於いて“乾杯”の前から用意されているお通しとは、「どうぞ、どんどんお飲み下さい」と言ってくれているかの思いで命拾いする感覚でもある。
実は、この「お通し」関連エッセイを数ヶ月前の今年2月に既に綴りたいと考えていた私である。
そのきっかけは朝日新聞「声」欄の議論による。 当時、「居酒屋のお通しは不快だ」との投稿に対する「お通しは無料に」なる異論等々が紙面で展開された。
月日が流れ、先だっての6月10日付朝日新聞記事に於いて、再び 「『お通し』って誰のため」 なる表題の記事が掲載された。
その内容を要約しつつ、原左都子の私論も交えながら以下に紹介しよう。
飲食店で酒を注文すればまず出てくる「お通し」。 注文していないのに代金を取られることも。 最近は廃止に踏み切る店も出て、この商習慣を取り巻く状況は変わりつつある。 店によっては採算度外視でお通しを出す店もある。 一方で出来合いの加工食品をお通しとして出す店もあるらしい。 そもそも「お通し」って何だろう。 (我が思いの通り)「酒のアテの気遣いの一品」との考察をする飲食コンサルタントも存在するようだ。 だが「お通し」のもう一つの顔は“大事な収益源”であり、お客が支払う代金の10%を占めるとのことだ。 これまで「お通し」として800円を徴収していた高級日本料理店では「今後より多くのお客様に来て頂くために」との思いで、これを廃止したらしい。 その後この高級料理店に於いてはサービス料も廃止したところ、現在では若い世代の客も来店しているという。
(以上は朝日新聞記事よりその一部を私論も交えて引用したもの)
ここで、原左都子の私事及び私論に入ろう。
上記に紹介した朝日新聞内の高級日本料理店に於いては、800円を徴収していた「お通し」と共にサービス料も廃止したところ、現在は若い世代の顧客層の来店で経営が潤っているとのことだ。
私事であるが、今年3月頃の“身内の飲み会”において「お通し」一人500円を経験している。
我が身内には飲めないお年寄りもいて、しかも外は凍てつくように寒い日だった。 それを店側が常連である我が身内集団を慮ってくれたのか、来店直後に「お通し」として温かい“湯豆腐鍋”を振舞ってくれたのである。 これは実に感激だったものだ! 4人分合計¥2,000-の「お通し」であろうと、店側の暖かい思いやりに感謝感激だったものだ。
一方、上記朝日新聞内に取り上げられている“高級日本料理店”創業以来の経営ポリシーとは一体何だったのであろうかと、首を傾げたくなる私である。
「お通し」はともかく、税務観点からも理解不能の「サービス料」などもっと昔に廃止するべきだっただろうに…。 (今時、名立たる五つ星ホテルに於いても「サービス料」なる項目は排除されていると私は認識しているのだが如何であろうか?) ましてや税務上不透明性が高い飲食業に於いては、「お通し」と「サービス料」を同観点で対処しようとする“過ち”からして出直すべきではないのか?
上記“高級日本料理店”では今回の措置によって若い世代が多く来店しその事実を喜んでいると言う事だが、今後如何なる経営方針をもって店の運営に当たりたいのかが原左都子には不明である…。 正直に言うと、若い世代で賑わい始めた“高級日本料理店”を好き好んで訪れたいとは思わない私は、今後の当該店の経営持続を懸念してしまうのだが…
上記朝日新聞にコメントしている若き漫画家氏は、「食べたくないものにお金を払うのは不本意。おざなりのものを出す店はお通しをやめるべき」との結論を述べておられるようだが、それはその通りであろう。
ただ、やっぱり原左都子は居酒屋では「お通し」が欲しいなあ。
と言うのもこの世の中“飲めない人”も数多く、その人種への医学的理解もある私なのよ。
飲めるのに“酒のマナー”だの何だのと言いつつ“お利口さん”に振舞って、その場をつまらない雰囲気にしてしまう人種が大多数であることも事実だしねえ。
そんな「酒」にまつわる人間関係を今までの人生に於いて十二分に観察・経験しながら、飲める立場としては、せめても酒の場の最初の場面だけでも「お通し」力に頼り少しは酒を飲ませてもらって、興ざめしないうちにとっとと帰宅したい思いが切実でもあるしね……
いつまでたっても飲兵衛の立場でしか「酒」を語れない私で、ごめんなさい!
皆さんは、居酒屋に行くと一番最初に出される「お通し」を如何に捉えていますか?
酒好きな原左都子は、一杯目の酒と同時に小鉢で座席まで届けてくれる「お通し」を比較的好意的に解釈している人種である。
近年はこれを出さない飲み処も急増しているように見受けられるが、私にとってはちと寂しい思いだ。
なんせ若かりし頃より「ざる」の異名をとる飲兵衛の私の場合、酒を飲むスピードが異様に速い。 下手をすると注文した料理が届くまでに“かけつけ3杯”を軽くこなしてしまう場合とて少なくない。(親しい間柄の飲み会に限られるが…)
これは体裁が悪い事を承知している私であるが、それでも周囲に合わせてちびちびいくのは性に合わないし、ましてや、料理が届くまで酒のお預けを食らって“お利口さん”を強制されるような飲み会だけは今後共参加を回避したいものだ。
こういう場面で「お通し」とは、飲兵衛が酒に手を出す“助け舟的役割”を果たしてくれる存在であると私は位置付ける。 特に酒の会合に於いて“乾杯”の前から用意されているお通しとは、「どうぞ、どんどんお飲み下さい」と言ってくれているかの思いで命拾いする感覚でもある。
実は、この「お通し」関連エッセイを数ヶ月前の今年2月に既に綴りたいと考えていた私である。
そのきっかけは朝日新聞「声」欄の議論による。 当時、「居酒屋のお通しは不快だ」との投稿に対する「お通しは無料に」なる異論等々が紙面で展開された。
月日が流れ、先だっての6月10日付朝日新聞記事に於いて、再び 「『お通し』って誰のため」 なる表題の記事が掲載された。
その内容を要約しつつ、原左都子の私論も交えながら以下に紹介しよう。
飲食店で酒を注文すればまず出てくる「お通し」。 注文していないのに代金を取られることも。 最近は廃止に踏み切る店も出て、この商習慣を取り巻く状況は変わりつつある。 店によっては採算度外視でお通しを出す店もある。 一方で出来合いの加工食品をお通しとして出す店もあるらしい。 そもそも「お通し」って何だろう。 (我が思いの通り)「酒のアテの気遣いの一品」との考察をする飲食コンサルタントも存在するようだ。 だが「お通し」のもう一つの顔は“大事な収益源”であり、お客が支払う代金の10%を占めるとのことだ。 これまで「お通し」として800円を徴収していた高級日本料理店では「今後より多くのお客様に来て頂くために」との思いで、これを廃止したらしい。 その後この高級料理店に於いてはサービス料も廃止したところ、現在では若い世代の客も来店しているという。
(以上は朝日新聞記事よりその一部を私論も交えて引用したもの)
ここで、原左都子の私事及び私論に入ろう。
上記に紹介した朝日新聞内の高級日本料理店に於いては、800円を徴収していた「お通し」と共にサービス料も廃止したところ、現在は若い世代の顧客層の来店で経営が潤っているとのことだ。
私事であるが、今年3月頃の“身内の飲み会”において「お通し」一人500円を経験している。
我が身内には飲めないお年寄りもいて、しかも外は凍てつくように寒い日だった。 それを店側が常連である我が身内集団を慮ってくれたのか、来店直後に「お通し」として温かい“湯豆腐鍋”を振舞ってくれたのである。 これは実に感激だったものだ! 4人分合計¥2,000-の「お通し」であろうと、店側の暖かい思いやりに感謝感激だったものだ。
一方、上記朝日新聞内に取り上げられている“高級日本料理店”創業以来の経営ポリシーとは一体何だったのであろうかと、首を傾げたくなる私である。
「お通し」はともかく、税務観点からも理解不能の「サービス料」などもっと昔に廃止するべきだっただろうに…。 (今時、名立たる五つ星ホテルに於いても「サービス料」なる項目は排除されていると私は認識しているのだが如何であろうか?) ましてや税務上不透明性が高い飲食業に於いては、「お通し」と「サービス料」を同観点で対処しようとする“過ち”からして出直すべきではないのか?
上記“高級日本料理店”では今回の措置によって若い世代が多く来店しその事実を喜んでいると言う事だが、今後如何なる経営方針をもって店の運営に当たりたいのかが原左都子には不明である…。 正直に言うと、若い世代で賑わい始めた“高級日本料理店”を好き好んで訪れたいとは思わない私は、今後の当該店の経営持続を懸念してしまうのだが…
上記朝日新聞にコメントしている若き漫画家氏は、「食べたくないものにお金を払うのは不本意。おざなりのものを出す店はお通しをやめるべき」との結論を述べておられるようだが、それはその通りであろう。
ただ、やっぱり原左都子は居酒屋では「お通し」が欲しいなあ。
と言うのもこの世の中“飲めない人”も数多く、その人種への医学的理解もある私なのよ。
飲めるのに“酒のマナー”だの何だのと言いつつ“お利口さん”に振舞って、その場をつまらない雰囲気にしてしまう人種が大多数であることも事実だしねえ。
そんな「酒」にまつわる人間関係を今までの人生に於いて十二分に観察・経験しながら、飲める立場としては、せめても酒の場の最初の場面だけでも「お通し」力に頼り少しは酒を飲ませてもらって、興ざめしないうちにとっとと帰宅したい思いが切実でもあるしね……
いつまでたっても飲兵衛の立場でしか「酒」を語れない私で、ごめんなさい!