原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

居酒屋の「お通し」文化は捨て難い

2012年06月18日 | 
 ここのところ時事及び医療関連論評記事が連続しているため、少し“箸休め”に「酒」カテゴリーのエッセイを綴る事にしよう。


 皆さんは、居酒屋に行くと一番最初に出される「お通し」を如何に捉えていますか?

 酒好きな原左都子は、一杯目の酒と同時に小鉢で座席まで届けてくれる「お通し」を比較的好意的に解釈している人種である。

 近年はこれを出さない飲み処も急増しているように見受けられるが、私にとってはちと寂しい思いだ。
 なんせ若かりし頃より「ざる」の異名をとる飲兵衛の私の場合、酒を飲むスピードが異様に速い。  下手をすると注文した料理が届くまでに“かけつけ3杯”を軽くこなしてしまう場合とて少なくない。(親しい間柄の飲み会に限られるが…)
 これは体裁が悪い事を承知している私であるが、それでも周囲に合わせてちびちびいくのは性に合わないし、ましてや、料理が届くまで酒のお預けを食らって“お利口さん”を強制されるような飲み会だけは今後共参加を回避したいものだ。
 
 こういう場面で「お通し」とは、飲兵衛が酒に手を出す“助け舟的役割”を果たしてくれる存在であると私は位置付ける。 特に酒の会合に於いて“乾杯”の前から用意されているお通しとは、「どうぞ、どんどんお飲み下さい」と言ってくれているかの思いで命拾いする感覚でもある。


 実は、この「お通し」関連エッセイを数ヶ月前の今年2月に既に綴りたいと考えていた私である。
 そのきっかけは朝日新聞「声」欄の議論による。 当時、「居酒屋のお通しは不快だ」との投稿に対する「お通しは無料に」なる異論等々が紙面で展開された。 

 月日が流れ、先だっての6月10日付朝日新聞記事に於いて、再び 「『お通し』って誰のため」 なる表題の記事が掲載された。
 その内容を要約しつつ、原左都子の私論も交えながら以下に紹介しよう。
 飲食店で酒を注文すればまず出てくる「お通し」。 注文していないのに代金を取られることも。 最近は廃止に踏み切る店も出て、この商習慣を取り巻く状況は変わりつつある。 店によっては採算度外視でお通しを出す店もある。 一方で出来合いの加工食品をお通しとして出す店もあるらしい。  そもそも「お通し」って何だろう。 (我が思いの通り)「酒のアテの気遣いの一品」との考察をする飲食コンサルタントも存在するようだ。 だが「お通し」のもう一つの顔は“大事な収益源”であり、お客が支払う代金の10%を占めるとのことだ。  これまで「お通し」として800円を徴収していた高級日本料理店では「今後より多くのお客様に来て頂くために」との思いで、これを廃止したらしい。 その後この高級料理店に於いてはサービス料も廃止したところ、現在では若い世代の客も来店しているという。
 (以上は朝日新聞記事よりその一部を私論も交えて引用したもの)


 ここで、原左都子の私事及び私論に入ろう。

 上記に紹介した朝日新聞内の高級日本料理店に於いては、800円を徴収していた「お通し」と共にサービス料も廃止したところ、現在は若い世代の顧客層の来店で経営が潤っているとのことだ。

 私事であるが、今年3月頃の“身内の飲み会”において「お通し」一人500円を経験している。
 我が身内には飲めないお年寄りもいて、しかも外は凍てつくように寒い日だった。 それを店側が常連である我が身内集団を慮ってくれたのか、来店直後に「お通し」として温かい“湯豆腐鍋”を振舞ってくれたのである。 これは実に感激だったものだ! 4人分合計¥2,000-の「お通し」であろうと、店側の暖かい思いやりに感謝感激だったものだ。


 一方、上記朝日新聞内に取り上げられている“高級日本料理店”創業以来の経営ポリシーとは一体何だったのであろうかと、首を傾げたくなる私である。
 「お通し」はともかく、税務観点からも理解不能の「サービス料」などもっと昔に廃止するべきだっただろうに…。 (今時、名立たる五つ星ホテルに於いても「サービス料」なる項目は排除されていると私は認識しているのだが如何であろうか?)  ましてや税務上不透明性が高い飲食業に於いては、「お通し」と「サービス料」を同観点で対処しようとする“過ち”からして出直すべきではないのか?

 上記“高級日本料理店”では今回の措置によって若い世代が多く来店しその事実を喜んでいると言う事だが、今後如何なる経営方針をもって店の運営に当たりたいのかが原左都子には不明である…。  正直に言うと、若い世代で賑わい始めた“高級日本料理店”を好き好んで訪れたいとは思わない私は、今後の当該店の経営持続を懸念してしまうのだが…

 上記朝日新聞にコメントしている若き漫画家氏は、「食べたくないものにお金を払うのは不本意。おざなりのものを出す店はお通しをやめるべき」との結論を述べておられるようだが、それはその通りであろう。

 
 ただ、やっぱり原左都子は居酒屋では「お通し」が欲しいなあ。

 と言うのもこの世の中“飲めない人”も数多く、その人種への医学的理解もある私なのよ。 
 飲めるのに“酒のマナー”だの何だのと言いつつ“お利口さん”に振舞って、その場をつまらない雰囲気にしてしまう人種が大多数であることも事実だしねえ。
 そんな「酒」にまつわる人間関係を今までの人生に於いて十二分に観察・経験しながら、飲める立場としては、せめても酒の場の最初の場面だけでも「お通し」力に頼り少しは酒を飲ませてもらって、興ざめしないうちにとっとと帰宅したい思いが切実でもあるしね…… 

 いつまでたっても飲兵衛の立場でしか「酒」を語れない私で、ごめんなさい!

6歳未満児の脳死判定・臓器移植に異議申す!

2012年06月16日 | 時事論評
 「脳死後の臓器って、一体如何程の価格で売れるの?  相当の“破格値”なんだろうなあ。」
 臓器移植のニュースに触れる度、“へそ曲がり”の私の脳裏に真っ先に浮かぶのはこれである。

 だって、そうでしょう? 
 特に脳死対象者が子どもである場合、本当に死んだのかどうか分からない「脳死」という段階で、その可愛い我が子の“まだ生きている状態の各種臓器”を小さい体を切り刻んで提供する事に同意する立場に置かれるのは、保護者である親に他ならないのだ。 
 原左都子ならば我が命に替えてもそんな大それた決断は絶対に出来ない。
 ところが、それを即座に「息子は誰かの体の一部となり長く生きてくれる。息子を誇りに思う。」と医師に告げて、臓器提供に同意する親がこの世に実在する現世だ。 これには子を持つ親であれば誰しも仰天させられるのではあるまいか?

 私の解釈では「脳死」とは身体各所の臓器はまだ生命を保っている状態であり、今後何らかのインパクトにより「脳」が活性化されれば命が繋がる可能性が極小の確率であれまだ存在する事態である。 
 そして「脳死」状態者からの「臓器移植」とは、その身体臓器が生命を保っている時間内に移植手術を実行する事が必須条件であるからこそ、医療現場は“時間勝負の血走り状態”を余儀なくされているのである。
 「臓器移植」に関しては関係機関が一般市民にその意向を問うべく「カード」を持たせていると私は心得ている。 その「カード」持参の大人に関しては、医療機関は誰の承認を得ずとも即刻「臓器移植」の手配が可能となろう。
 ところがその対象が子どもの場合、咄嗟の判断でかけがえのない我が子の体を切り刻んで息づいている臓器を取り出す決断は、保護者に委ねられる事となる。
 それを即断する保護者が我が国に存在する現状だ……

 だからこそ「臓器は“破格値”で売れるのだろうか?」との発想が出てしまうのだ。
 それと同時に、一般人とは「脳死」の意味合いをどれ程理解した上で、医師からの切羽詰った臓器移植嘆願に従って、可愛い我が子の体を切り刻み臓器を取り出す事に咄嗟の合意判断を下しているのかを知りたい思いだ。


 一昨日の6月14日に富山大学病院で行われた国内初の6歳未満児脳死判定、及びその後の心臓、肝臓、膵臓移植手術は本日(16日)までに全国各地の病院にてすべて無事に完了したようだ。
 本日昼のニュースによると、臓器提供を受けた側の子どもの保護者から、複雑な思いながらもそれに感謝している旨のコメントも報道されていた。

 一方、臓器提供側の6歳未満男児は“事故”による心肺停止と低酸素性脳症であったらしい。 
 (脳死判定の1週間も前の時点の)6月7日に、主治医が「重篤な脳障害で回復が難しい」と保護者に伝えたところ、その日のうちに両親より臓器提供の申し出があったとの報道である。 
 加えて朝日新聞6月16日付朝日新聞記事によると、病院側は臓器提供に関しては「警察や児童相談所に問い合わせ、虐待はないと報告を受けた。念には念を入れて(脳死判定)をやった」事を強調しているらしい。(これって違う角度から言うと“虐待”が疑われる要素が皆無とは言えない、というニュアンスでしょ??) 
 厚労省が今年1月、47都道府県を対象に児童相談所が医療機関からの虐待の問い合わせにどう対応しているか調べたところ、照会に「対応する」と答えたのは11県のみで、これに富山県は含まれていなかったとの記事内容でもある。

 原左都子が冒頭で懸念した 「臓器とは一体いくらで売れるのか?」 との話題と関連して、実に空恐ろしい報道内容だ… 
 医療移植現場と児童虐待関係機関との連携は、今後も大いなる課題となるのは必須であろう。


 私論に移るが、もしも今回の脳死判定6歳未満児が医学判断上の「脳死」であったとしても、上記に述べた通り、今後極小の確率で生き延びる奇跡が起こったかもしれないと私は無念な思いである。

 少し話が飛躍するが、我が子が多少の事情を持って出生していることに関しては本エッセイ集バックナンバーに於いて幾度となく公開して来ている。
 出生時のトラブルにより仮死状態にてこの世に産まれ出ざるを得なかった我が娘は、当時の帝王切開手術担当医より 「脳に障害が残る恐れがある」 との事実を告げられていた“らしい”。 (出産当時自らの身体も打撃を受けていた私が、身内からこれを知らされたのは遅ればせながらも我が子1歳半頃の事だったのだが。)
 「なんで、そんな大事な話を元医学関係者の私にもっと早く伝えなかったのよ!!」と激しく責め立てつつ、直ぐに娘を医療機関脳神経科受診させると同時に、我が家に於ける「お抱え家庭教師」業を開始した私である。
 何故ならば、“脳の活性化”とは脳が未発達の子ども幼少の頃より実施開始した方がその効果が格段に大きいからである。
 医学関係者でなくとも皆さん既にご存知であろうが、脳神経細胞とは体内他細胞と異なり一旦死んだら再生されないのが特徴である。 ところが生命体の脳を活性化する方策は様々存在して、例えばの話、外部からの働きかけにより生き延びている脳神経細胞を利用して脳内にバイパスを作るという方策があるのだ。(私の知識が古いため、現在に至ってはもっと進化した素晴らしい研究業績が存在するであろうことは想像の上だが。)
 (字数の都合により詳細は割愛するが)それらの医学的知識を活かしつつ、教育的観点から我が子を「お抱え家庭教師」の立場で現在に至るまで導いてきている私であり、我が子は当時の想像をはるかに超える成長を遂げ続けている。

 だからこそ、脳死判定が下った子どもにもその年齢が幼少である程に、今後の医療や家族からの脳活性化努力による生存の可能性がなきにしもあらずではないのかと、無念に思うのだ…。

 今回の6歳未満児の「脳死判定・臓器移植」に関しては、報道されている事実の水面下にはもっと複雑な家庭環境事情が存在したのではないかと推測してしまう。


 そうでなくとも原左都子は元々「臓器移植」反対派であることは、バックナンバーにおいても幾度か綴ってきている。

 2009年7月に公開した 「私はあげないし、要らない」 を参照下されば私の「臓器移植」絶対反対の思いを感じ取ってもらえるだろうが、ここでその結論のみを手短に紹介しよう。 
 人それぞれの「死生観」の差は大きいのであろう。 それにしても、いつをもって“人の死”とするかについて法的に喧々諤々議論した上で、幼き子どもの命までをもここからが「死」であると法改正して“線引き”しようとすること自体に、現代社会の歪みを実感させらる。

 科学の目覚ましい発展は“人の倫理観とのせめぎ合い”をもたらした。
 さらに時代が突き進み人の“倫理観”と“エゴ”との境界線の判定さえも困難にまで成り下がった現在において、我が子の「脳死判定・臓器移植」の医療現場からの要請に親が即座に“OKサイン”を出す現状を、皆さんどのように感じ取っておられるのであろうか??

生活保護者の面倒を今後一体誰が見ると言うのか?

2012年06月14日 | 時事論評
 今回の記事は、本エッセイ集に於いて先だっての5月28日に公開した 「生活保護者を量産する前に行政がやるべき事」 の続編の形で綴ることとする。


 一昨日だったと記憶しているが、昼過ぎからNHKで放映された「国会中継」において、「あしなが育英会」の資金問題に関する質疑が自民党 西田氏 より呈示された。
 質疑応答のメモを取り損なっているのに加えて我が記憶も曖昧なため、誤った記述をする可能性が高い事をあらかじめお断りしておくが、この質疑に対する藤村官房長官の答弁が以外や以外いつになく“面白おかしく”て、そのまま聞き入った私である。
 
 どうやら現民主党官房長官の藤村氏とは国会議員になる以前の若かりし時代に、財団法人「交通遺児育英会」(正確でない場合お詫びします)の職員をしていたらしい。
 その財団法人の実態とは藤村氏曰く(バリバリの)「天下り財団」であり、当時の天下り職員達は国からの多額の助成金を我が肥やしとして“どんぶり勘定”しつつ、「表でおかゆ、離れですき焼き」 状態だったとのことだ。  (よくぞそこまで言ってくれたよ、藤村さん!
 また、当時の交通遺児とは事実上の「天下り財団」の存在により、他種の遺児達と比較して相当恵まれた存在だったらしい。 一般的にこの時代の遺児達とは高校進学もままならない中、交通遺児のみは“どんぶり勘定”の「天下り財団」助成金に支えられて大学進学者も数多かったとの藤村氏の答弁だった。 (民主党もこういう話題を国会で暴露してくれたならば、庶民にとって親しみが持てて支持率が上がるというものなのにねえ~~)

 財団法人「交通遺児育英会」は「あしなが育英会」とはまったく別の組織であり、後者は寄付金により賄われてる財団との事である。 上記のごとく(国の「天下り財団」の恩恵を受けて恵まれた存在だった)交通遺児の“恩返し”活動によって発足したのが「あしなが育英会」であり、現在では国内外の様々な遺児を支援する非営利組織(NPO)に位置付けられるようだ。

 冒頭からこの話題を紹介したのは、藤村氏の国会での答弁がいつもテレビで見る官房長官としての、礼儀だけ正しくて没個性で何らのインパクトもない応答とは異なり“面白おかし”かった故のみではない。
 社会的弱者を救済する財団の「資金源」や環境によってその救済のされ方が段違いに異なり、例えば弱者が子どもの場合、その歩むべき将来が大幅に左右される宿命に原左都子が心を痛めたからに他ならない。


 今回の我がエッセイ集のテーマである「生活保護者」に話を戻そう。

 我が国に於いて年々急増している「生活保護者」を救済する資金源として如何なる源資を当てるべきかの私論を、原左都子はバックナンバー「生活保護者を量産する前に行政がやるべき事」に於いて述べた。
 対象が何であれ行政が一旦「社会保障」との名目を掲げさえすればそれが庶民に“正当化”されるはずと安直に判断し、それを国家政策の前面に打ち立てる政党こそが「よき政党だ」と国民に信じさせよう、とのその単純思想自体から見直すべきだと。
 
 現在においては、国及び地方財源で「社会保障対象者」救済のすべてを支えようとする事自体に限界が存在するのは当然であろう。
 ましてや「生活保護」申請者の“多様性”を鑑みた上で私が提案したのは、「生活保護」を受けている(受けようとしている)人物の法律上の近親者の財力こそを、国や地方の「社会保障財源」に優先して頼るべきではないのかとの私論であった。

 原左都子以外にも、国内に急増する「生活保護者」に関する世論が膨大化するのは当然の現象であっただろう。
 そんな社会の世論を受けたのか、先だって朝日新聞「社説」欄で「生活保護者」救済財源を「近親者」に依存するべきとの見解に対する 「反論」 が掲載されていた。
 上記朝日新聞社説によると、今回人気お笑いコンビ河本氏の話題が取り上げられたがために、巷で「生活保護者」は近親者で救済するべきとの議論が横行しているが、その論理は破綻との論旨のようだ。
 朝日新聞「社説」の言い分とは、河本氏の事例の場合「生活保護者」である母親と“懇親関係”であったにもかかわらず、その母に「生活保護」受給をさせていたからこそ氏の落ち度が認められ、今後氏が母親の生活費を負担する事と相成ったとの見解である。
 全国の「生活保護」受給者の事例に関しては家族・身内関係が崩壊状態である場合も多く、救済財源を「身内」に負担させるのは“筋違い”であるとの朝日新聞の論評だ。 
 それは少し理解可能かなと、考察したりもする原左都子であるが…。

 一方私が前回呈示した、個人の資産所有等を地方自治体が見逃して「生活保護」を承認しているのではないのか? との事案に関しては、今後もっと個人情報を徹底的に追求し、自己資産を売却させて生活費に当てる事から行政指導を始めるべきとの我が観点は譲れない思いだ。
 朝日新聞社説においては、これに関しても、自治体の職員数不足等により個人情報調査を施行することが困難などとの軟弱な見解であったようだ。

 加えて、原左都子は「生活保護者」当人への就業指導も欠かせない行政の役割であることを上記バックナンバーで綴っている。 これに関しても、朝日新聞社説は自治体現場の人員不足を理由として「困難」な状況との結論としているようだ……。
 この論説に触れたならば、朝日新聞社とは自治体支援団体なのか!と指摘したくもなる。
 この課題こそ、民間活力に頼ればよいではないか!  この種の分野にこそ国や自治体が民間力を投入すれば済む話であろう。
 今を時めく民間専門組織に、生活保護者(及び候補者)の個人情報徹底調査並びに就業指導を全面委託してはどうなのか?


 この記事の最後に原左都子が一番訴えたいのは、「生活保護者」を量産しない最善の方策とは国民に対する子どもの頃よりの「教育力」であろうとの事実だ。
 字数が多くなるため、これに関する私見に関しては後に改めて綴りたく考えているが、この国は高度経済成長期以降、明らかに学校現場に於ける「個人尊重教育」の意義を履き違え続けていると私は理解している。
 時間はかかるであろうが、この国に於いて「生活保護者」を量産し続けている事態を回避するためには、今後の学校現場における「教育」こそを大幅に改革して、国民一人ひとりに確実な生活力を身に付けさせるべく出直すべきであろうと考察する原左都子である。

「梅ちゃん先生」、立派な医師になろうね!

2012年06月11日 | 医学・医療・介護
 NHKの連続テレビ小説「梅ちゃん先生」を見ていると、戦後まもない時期から善良な医師も存在したのかもしれない事実に少し思いを馳せたりもする。


 元医学関係者の原左都子であるが、どうも私は医学関係の学問に励んでいた十代当時より医療機関や医師嫌いの部類である。
 それ故に、(当時としてはごく少数派ながら)就職先としてあえて臨床現場の医療機関を回避して医学関連民間企業を選択し、それが我が人格・気質としては大正解だったと今尚実感している程だ。


 本日放映されたNHK「梅ちゃん先生」に於いて大傑作だったのは、医師国家試験合格者発表新聞欄に「下村梅子」の字が誤植により「下村悔子」となっていた場面である。 これには抱腹絶倒した私だ。
 少し意地悪観点かもしれないが、原左都子の視線では梅子は父親の“七光り”により医専に合格進学し、その後のインターン先及び今回帝都大学医学部第一内科への就職が叶ったのも、全面的に父のコネとしか捉えられないのだ。  梅子は確かに性格は悪くはないようだが、医師として相応の総合学力や強靭な意思や忍耐力等が未だ感じ取れない。 このまま梅子が医師としての道を突き進むに当たっては、性格の良さのみで太刀打ちできるはずもなく、まさに今後「悔」の念が付きまといつつの医師修行となるのではなかろうか…… などと老婆心ながらも心配してしまう私だ。

 本日の放送では、「なぜ梅子は医師になりたかったのか? 医師とは高収入だし、人から“先生”と呼ばれて奉られるしね。」等々… と近隣住民からつつかれる場面もあった。
 ここで初めてタイトルである 「梅ちゃん先生」 の呼び名が登場する事と相成った。
 原左都子としてはこの場において、梅子自身の口から 「隣近所のお付き合いでは私は今はまだ一人の若輩者に過ぎないし、皆さんとの関係に於いては今後共に一人間でしかないから“先生”の呼称はやめてほしい」 とでも言って突き放して欲しかったものだ。  ただ物語の時代が戦後まもない時期であり、その社会文化的バックグラウンドを考慮した場合、梅子の口からその発言を望むのは無理な話なのかもしれないが…。


 私が医師嫌いである核心とは、まさにその辺にある。
 昔の医師とは実に“えばり腐って”いたものだ。 常に“自分は偉いぞ、との“上から目線”で患者に接してくることを、感受性が強い私は子供心にいつも感じ取っていた。
 我が学生時代に“医師の卵”と接触する場面は数多かったが、たかが“卵”の分際ですら“えばり腐って”いる雰囲気を嗅ぎ取れた私は、若くして医師嫌いをさらに助長されたものである。  (特に自宅が開業医の“医師の卵”などは、既にその跡継ぎを目指すための結婚相手の選択肢として“金持ちのお嬢さん”をターゲットとしている事が見え見えだった事をおぞましく感じたものである。 ならば医学部としては偏差値が低いこんなド田舎の国立ではなく、リッチ層が多い私立医大へ入って結婚相手を探せよ!と言いたい思いもあった私だ…

 まだまだいろいろあるぞ…
 私が通っていた医学部(私の場合はパラメディカル分野だったのだが)の授業を医学部教授や講師等々が担当していた。 この「先生」達は若き女性が多い我が専攻分野の授業に来る事を“実に”楽しみにしていた様子だ。 そして当時の大学とは諸先生方から女子学生に対する「飲み会」等のお誘いも多数あり、酒に強い私はいつもそれに参加したものである。
 「時効」の判断の下に当時の医学部教授の失態を暴露するが、酔っ払った私をタクシーで家に送りつつ、まだ未成年の私の体を触りに来たものだ…。
 そのすぐ後の日に、学内でその人物からこっそりと「あれはなかった事にして欲しい」等々の言い訳を聞かされたりもした。 当時より“腹が据わっていた”私にとっては単なる“スケベ親父の醜態”の範疇でありそんな事どうでもよい話であるから、ここで公開したのみである。


 少し話題を変えて、私にとって「梅ちゃん先生」が興味深いのは、やはり我が若き学生時代の病院実習を思い起こさせてもらえる故である。

 例えば「解剖学実習」の場面などまさにあの影像の通りだったものだ。 私の場合は「パラメディカル専攻」であるため実際に人体解剖をしなくてよい立場だったが、医師候補学生がそれを実行するのを一部始終観察したものである。

 それから、「梅ちゃん先生」の大学附属病院に於けるインターン実習に関しても、我が学生当時をそのまま再現する程の迫力があった。 
 例えば内科外来実習に於いて、外来患者の目の前で担当医師が各学生に質問を投げかけて答えさせる場面などNHK影像の通りであり、私などそれに即答する事が出来ず患者さんの目の前でどれ程の恥をかいたことか…   あるいは、入院患者の回診には教授を筆頭として職員一堂、最後尾に学生と序列順に並び、白衣の大集団でぞろぞろと病棟を訪れる風景も懐かしい思いで見守ったものだ。

 加えて、病院の検査室風景に関しては我が医学専門分野であるため凝視したのだが、残念ながらさほどの医学的背景を観察出来ないままだった。
 その中で梅子やあかねが病院内で「血液検体」を運ぶ場面が描かれていたが、あの描写の仕方に大いなる違和感を抱いた私だ。  患者から採取した「検体」とはその体及び生命の一部であることを、医療従事者たるもの絶対に忘れてはならないのが鉄則だ!  梅子が考え事をしつつ「検体」を運んだり、その「検体」の前で眠りこけた影像は、たとえ場面のシナリオ描写と言えども医療的配慮から今後は謹しむべきであろう。


 医師国家試験が今尚「五肢選択制」を貫いている実態を何とかして欲しいと考えている私でもある。
 かく言う私も過去に於いて同様に「五肢選択制」の医学関連国家試験に合格して免許を取得しているのだが、人の命を預かる職種としては、ここはやはり試験制度を見直すべきではなかろうか。
 「司法試験」にしても「会計士」「税理士」試験等々においても、ずっと以前よりすべて鉛筆禁止の記述方式を採用している。 医師国家試験に於いてもその一部だけでも、もうそろそろ記述方式を取り入れるべきであろう。

 さてさて、NHKの梅ちゃん先生。
 あなたはおそらく戦後まもない時代に医師になっている事を考慮すると、やはり父親のコネに頼ったことは否めないと私は結論付けている。
 たとえそうであったとしても、テレビ映像内で現代人が納得できるべく医師として成長する姿を今後共に見守っているよ!

「保安要員」が喧嘩腰で機内の秩序はどうなる?!

2012年06月09日 | 時事論評
 近年、国内外に於ける相次ぐ大手航空会社の経営破綻現象と平行するかのように、格安航空会社による激安運賃化が急速に進んでいる。

 原左都子も、郷里への帰省や国内外旅行等である程度の頻度で空路を利用している人種だ。
 航空運賃は安価であるに越した事はないのだろうが、私の場合は空路道中でも“旅の安らぎ”を求めたい意向が強いため、あえて格安航空会社を選択するという事はない。 
 現在では、旅をする時期や予約のタイミング、あるいは旅行会社の選び方等々によって割安航空券をゲットできるチャンスは多いため、何も好き好んで格安航空会社を選択せずとも比較的リーズナブルかつ心地よい旅行(移動)が可能な時代ではなかろうか。
 一方で、現在世界中で展開されている格安航空会社による激安航空機運賃競争に於いては、例えば国内片道¥1,000-等、桁違いに激安の航空券が販売されているとの情報もあるようだが…


 この夏も郷里帰省予定の私はそろそろその航空券の手配でもしようかと考えていた矢先、航空機内サービスに関する“信じ難い”記事を目にした。

 朝日新聞6月4日付社会面 「機内での苦情 受け付けません」 と題する記事を以下に要約して紹介することにしよう。
 航空会社スカイマークが、乗客向けの対応方針を示した「サービスコンセプト」が話題を呼んでいる。
 早速スカイマーク社が呈示する「サービスコンセプト」の主な項目を以下に列挙する。
 ○ お客へのサービス
    ・荷物はお客様の責任で収納を。 収納の援助は致しません。
    ・従来の航空会社のような丁寧言葉遣いを義務付けておりません。
 ○ 乗務員の服装・メーク
    ・会社支給のポロシャツ、ウィンドブレーカーを含めて服装は自由、
     メーク、ヘアスタイルも自由としております。
 ○ 苦情について
    ・乗務員の私語について苦情を頂くことがあるが、お客様に直接関係のない苦情はお受け
     致しかねます。 幼児の泣き声などの苦情も一切受付けません。
 スカイマーク社によると、上記の主要項目を含めた「サービスコンセプト」は8項目。5月18日から各席前のポケットに入れた。以前から接客方針は同じだが「荷物の収納をなぜ手伝わないのか」などの問い合わせが顧客からあり明示したという。
 これに対するネット上の書き込みが1千通以上あった。「目的地に着くならそれで十分」「普段の態度がいい加減だと、緊急時の対応が心配」  
 国土交通省の幹部は「挑戦的な内容にも読めるので、これが元で機内トラブルが起きないか心配」 とはしながらも、このコンセプトの内容が法規に違反しているとは言えず指導の対象外らしい。
 スカイマーク側は、客室乗務員について「サービス担当者」より「保安要員」としての役割を重視しているという。
 (以上、朝日新聞記事より要約引用)


 ここで、原左都子の私事に入らせていただこう。

 実は私も過去に於いて、上記朝日新聞記事に取り上げられている“スカイマーク”機に搭乗した経験がある。
 十年程前のことだっただろうか、我が過疎地の田舎への空路に スカイマーク社 が一時進出していた時期があるのだ。 その頃、この航空会社を利用して我が一家が帰省した時の様子をここで再現しよう。
 当時のスカイマークは特別“格安”という訳ではなく、大手他社よりも少しだけ安価という程度だった。 当該航空会社では当時航空券発行業務が未だシステム化されていない様子で、空港で手渡されたのはスーパーのレジで発行されるレシートのごとくペラペラ紙片であり、それを搭乗口で係員より回収され機内へと入った記憶がある。 さらに当時は機内で飲料サービスがあったのだが、これがペットボトル形式だったことが印象深い。 その後このペットボトルを乗務員女性がビニールの“ゴミ袋”を持参しつつ回収に訪れる。  我が過去の海外旅行時にその海外国内移動のために利用したマイナー航空機内に於いて、まったく同じ光景を既に経験済みだった事を思い起こした。  そんな私にとっては、当時のスカイマーク社の対応はむしろ“合理的”と映り心地良かったものである。
 スカイマーク社にとっては我が田舎への空路は採算が取れない路線だったらしく早期撤退と相成り、その後利用する機会はなく現在に至っている。


 おそらく現在のスカイマーク社とは私が過去に搭乗した時期より大幅に経営方針を変更し、更なる格安航空機会社に変貌するべくしてその地位を保ち続けているのであろう。

 現在世界規模で存在する格安航空会社とは、効率化の向上により低価格かつサービスの簡素化により航空輸送サービスを提供する航空会社であることを、世界人民の要請から余儀なくされるに至っている。
 そのため格安航空会社にとっては、 運航コストの低減、地方中小空港への乗り入れ、多頻度・定時運航による航空機の有効活用、等々により経費節減を行うのはもちろんのこと、自社内での人件費の削減は一番はずせない課題となろう。
  人件費削減目的に関しては、既に大手航空会社でも客室乗務員をパート化する等の政策が採られて久しい今の時代である。
 パート化施策ですら、格安航空会社に取ってはコスト面で厳しい現状と言うのであろうか?

 例えば上記の朝日新聞内においてスカイマーク社が言うところの、客室乗務員のユニフォームなど、それこそどうでもよい課題であると私も同感する。 まさか男性乗務員がメークをして顧客の前に現れないであろうが、それと同じく女性乗務員がメークをしていようか否かなど二の次でよい話であろう。
 ただし、ヘアスタイルに関してはそれこそスカイマーク社が掲げている「保安要員」としての職責を満たせるべくスタイルを規定して欲しい思いだ。 最低限有事の際に乗務員が機敏に活動可能なヘアスタイルを、スカイマーク社をはじめとする各航空機会社が規定していることに期待したいものである。

 ここで航空機内の安全のため、ひとつだけ航空各社に原左都子が要望したいことがある。
 それは客席の上部に位置する棚に収納する荷物に関してなのだが、比較的最近の出来事として(航空会社を特定して申し訳ないが)ANAの客室乗務員の点検ミスにより上部荷物棚が開いた状態で飛行機が動き出した事を私は実体験している。
 それにすぐさま気付いた私だが、シートベルト着用のサインの下、こんな事があって許されるのかとの思いと共に、その事実を如何なる手段で(おそらくパートであろう)乗務員に訴えるべきか躊躇してしまったのだ…。  その時、近くの男性が座席から立ち上がってそれを閉めてくれたから助かった思いだったものの、もしもそのまま離陸して乱気流にでも巻き込まれていたなら一体どうなっていたのかと、今でも印象深い出来事である。

 もうひとつ、スカイマーク社にお願いしたいことがある。 
 それは乗務員の私語に関してだが、これだけは顧客側としては是が非でも勘弁願いたいものだ。 私自身は航空機内で乗務員の私語になど出くわした経験はないものの、航空機内に限らずあらゆる職場において、働く人員の私語など許容されるものではないであろうに…
 これに関してはスカイマーク社が何を顧客に要望したいのかが不明である。

 だが、これと同列で顧客幼児の泣き声苦情を受け兼ねる事態を「サービスコンセプト」として語っている現状を慮るに、要するにスカイマーク社とは今後乗客とは一切コンタクトしたくない意向を“身勝手にも”この「サービスコンセプト」で表明していると捉えるべきなのかもしれない。

 このスカイマーク社の論理が少しは理解できる思いもする私だが、同社のコンセプトを受け入れる乗客のみを顧客対象とするとの経営方針であるならば、その運命もそれに追随するということなのであろうか… 
 以外や以外、それを支持する乗客層を摑み取れるならば、この種の格安航空機会社も今後共世界規模でしばらく生き残れるという話なのか…。
 
 原左都子自身はやはり多少の出費を覚悟してでも、旅は危険性なく、かつ人間関係がギスギスしない環境下で心地よく寛ぎたい心境である。