原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

道路建設計画に翻弄された義母(はは)の人生

2013年03月18日 | 時事論評
 昨夏よりケアマンション(介護付き有料老人施設)に入居している私の義母は、元々お江戸日本橋育ちである。

 先祖代々日本橋の地で事業を行っていた家庭に育った義母には、長男である兄がいた。 時代背景的には長男が跡取りとなるのが通常だが、その長男よりも頭脳明晰だったため義母に跡継ぎの白羽の矢が立ったようだ。  その後先代より事業所の女将修行を受けた後、婿養子(既に他界している義父だが)を迎え、女将である義母の経営手腕(及び天性の美貌も手伝って?)により事業を大幅に拡大繁盛させたとのことである。

 私が義母の長男である身内と婚姻した今から約20年程前には、既に日本橋の事業を赤の他人に営業譲渡し、身内一家は東京都豊島区のJR山の手線駅に程近い場所に転居していた。
 時はバブル経済期直前頃の話だったらしい。 事業は大繁盛なのだが、何分跡継ぎがいない。 長男である我が身内を跡継ぎとするには“その適性がない”と早期にきっぱり判断した義母は、身内には別の進路を歩ませる事に精進したようだ。 その結果、身内は「博士」の学位を取得し基礎研究者としての人生を歩んだのだが。 
 (ここだけの話だが、義母の判断は大正解と私も同意する。 何分のんびり家でマイペースの身内である。 生き馬の目を抜くような商業の世界で、身内が大成するとは到底考えられない。 むしろ事業を私との婚姻後まで残してくれていたなら、私がその跡を継げたかもしれないと多少残念無念ではあるが… そんな美味しい話がこの世に転がっているはずもないよなあ。) 


 さて、話題を表題のテーマに移そう。

 身内と婚姻後、義父母の住居兼借家数件を兼ね備えている賃貸住居の一室に半年間程居住させてもらった。  (生前贈与の形での義父母からの資金援助により、我々夫婦のための新住居は他の地に建設中だったが、転居までの期間、義父母の好意に甘えさせてもらった。)

 その当時より義母より見聞していたのが、都内の義父母所有の住居地が「東京都計画道路建設予定地」であるとの事態だ。 
 義母が事ある毎に口にしていた言葉が印象的である。 「この地は道路計画の候補地となっているため、いずれ出て行かねばならない運命にある。 ところがその時期が一体いつのことなのか、都に確認しても一向に埒が明かない。 もうそろそろ家屋を建て直したい思いもあるしその資金もあるのに、建設予定地制限により建て直すことが叶わない。 かと言って、こんな中途半端な土地が売却できるはずもなく、所有するしか方策がない。 何でこんな貧乏くじを引かされてしまったのだろう……」

 その後年月が経過し、義母の決断により、道路計画地の自宅を「改築」する段取りと相成った。 旧宅をすべて取り壊して新築し直す方がよほど事が簡単なのだが、上記のごとく道路建築予定地であるためその制限により「新築」が叶わない。  そこでやむを得ず「改築」の運びとなったのだが、現在の「改築」技法が進化している事情が大きいのだろうが、住人が欲する新築に匹敵するレベルの改築が可能であるとの業者の話だったとのことだ。 反面、その費用は「新築」よりも数段高額の価格が計上される結果となった。


 更には自宅改築後まもなく義父が亡くなった。 
 昨夏には、頭脳明晰で気丈だった義母も要支援の身となり、冒頭に記した通りその地を去って現在ケアマンションに入居している有様だ。

 今年に入って、義母の「保証人」を担当している我が家の身内と共にそのフォローを担当している私である。    
 そんな我々夫婦に舞い込んで来たのが、上記義母が所有している土地家屋にかかわる「東京都計画道路整備に関する事前相談会開催のお知らせ」であった。

 3月上旬のある日、我々夫婦は東京都建設事務所が開催するその個別説明会に出向いた。
 都から配布された資料及び説明会当日の係員の言及によれば、義母が所有している土地家屋の「東京都計画道路」の建設着工がやっとこさ決定したとの事だ。
 今後、現況測定及び用地測定の実施を経た後、義母が所有する物件の調査と土地評価作業に入り、用地取得・補償交渉を実施するのはその後との都の説明である。 補償交渉が整ったならば1年以内に他の地への移転を強制されるらしい。

 東京都建設事務所の説明会当日の態度は紳士的だったと言えよう。
 自分達が説明する時間よりも、道路建設の“犠牲者”であろう道路候補地市民の話に最大限耳を傾けてくれた印象はある。
 それでも、私は説明会を去る最後に一言付け加えた。 「我が義母がずっと都の道路計画に翻弄された人生を(嫁の)私も垣間見て来ました。 何故にこれ程までに道路計画の実行に長い年月を消費して遅くなったのでしょう??  この辺の対応がもっとどうにかならなかったものでしょうか? その間に義母はすっかり年老いてしまいました……」
 最後は頭を下げるばかりの都職員の対応だったが…


 後日ケアマンションに入居中の義母に、上記「東京都都市計画道路」建設着工が決定した旨を電話で伝えた。
 義母曰く、「私の命があるうちに道路建設着工が決定してよかった。 死ぬ前にこの問題が解決してスッキリした思いもする。 今後の補償交渉も貴方達にお願いするが、どれだけの資産価値があるのか分からないし、如何ほど貴方達に補償額の恩恵があるのかも分からず申し訳ない思いだ」

 何をおっしゃるお義母(かあ)さん。 今後の都との補償交渉こそ我々に任せて欲しい思いだ。 
 お義母さんが生涯かけて営んでこられた事業及び現在所有の不動産物件(他にも存在するが我々夫婦が相続予定なのは道路建設候補地の物件である)の資産価値を、保証人代行の立場として是が非でも守り抜きたいものである。

セーラー服を脱ぎ捨てよう!

2013年03月16日 | 自己実現
 「制服」と聞いて、現在の原左都子が一番に思い浮かべるのは AKB48 だ。

 だからと言う理由のみでもないが、私は、AKBを筆頭として現在芸能界に掃いて捨てる程存在するそれら類似の“素人もどき女子タレント軍団”の存在が鬱陶しくて仕方がない。

 そもそも、企画販売促進者側の宣伝コンセプトの単純馬鹿さ加減を見透かしてしまえるのだ。
 芸能界デビュー志望の年頃女子達をテキトーに集め、学校の制服もどきのコスプレ衣装を着用させて笑顔を振りまかせりゃ、老若問わず若年少女フェチかつ欲求不満の男どもが舌舐めずりしつつそれに飛びつく図式が見て取れる。 

 ひと昔前の1985年に、「セーラー服を脱がさないで」と題するヒット曲が存在した。 (今回の「原左都子エッセイ集」表題はそこから参照引用させていただいたのだか。)
 これもAKB48創設者である 作詞家 秋元康氏が過去にプロデュースした「おニャン子クラブ」との素人もどき女子タレント集団が歌った曲だ。  秋元康氏とは、長年に及びご自身の人生をかけて女子生徒の“制服フェチ”を貫いておられる人物なのか?!? と昨今のAKBヒットの陰でしみじみ感じる私でもある。


 ここで、原左都子の私事に移らせていただこう。

 実は私も過去においてセーラー服を着用した経験がある。 数十年前に所属した公立中学校の制服がセーラー服だったためだ。
 紺地の生地に太い一本線が施されたセーラー襟だったことが印象深い。 公立ではあるが市の中央に位置し、学業成績、部活動等々様々な分野に於ける生徒の活躍により地方・全国大会等々で輝かしい業績を積み上げてきている中学校だった。  当時はこの「一本線セーラー服」を着用する事が女子生徒にとって一種の名誉でもあった記憶がある。 まだまだ未熟な私は、このセーラー服に“一種の特権意識”を持てた頃のたわいない話だ。

 その後進学した高校時代は、親の希望により自分が欲さない地元国立大学を目指しての受験勉強で苦しめられた記憶しかない。
 そんな我が内面よりの反発心がよほど大きかったのだろうか、(一応県内では名門進学校であり女子羨望の的の)制服を、な、な、なんと!高3の受験間近い頃、大改造する作業に入った私だ!
 当時“スケバン不良”と後ろ指を指されていた巷の女子高生の間では、超ロングひだスカートに短い上着のウェストを細くするスタイルが流行していた。  一夜を徹して制服をそのスタイルに変造する作業を私は実行した!   それはそれは大変な作業だった。 スカートに多くのひだがある。その裾を出来得る限り長くしてアイロンをかけるのに長時間を要した。 上着の裾を短くしてウェストを絞り込む作業は比較的容易だったものの… 
 翌朝、その改造制服を着用した私を見た母親の反応を今尚憶えている… 「それ一晩でやったの!? よくぞそこまで改造したよね!」   そうじゃないだろ! と今尚思う私でもある… 何で私の辛い深層心理を親として理解できないのか…と。 (実は母も我が心理を理解していながら受験間近い時期だった故に、あえて私の心境に配慮してその種のリアクションをするしかなかったとも考えられるが……)
 その恰好で学校に出向いた私に、女子同級生も声をかけてくれた。 「○ちゃん、どうしたの、カッコイイじゃん!!」等々と…  
 もうすぐ高校卒業の頃の我が制服に関する一種“切ない思い出話”である。  その制服は卒業と同時に即刻廃棄処分とした。


 その後上京して医学方面の企業に就職した私の仕事着とは、病院で医師が着用しているものと同じ上に羽織るタイプの「白衣」だった。 当時は「白衣」の下に着用する私服が自由だったものの、医学及び時代の変化と同時進行で着用衣類も進化していくのは必然的であっただろう。
 後に「無菌室」や「放射性同位元素取扱室」での作業も発生した私には、下着に関してまでも着用する作業着が特定される事態と相成った。  ファッションにはとことんこだわる私としては、正直なところ職務中とは言えこれには大いなる抵抗感を抱かされたものであるが、職種の使命から発する要請とあれば致し方ない事であったと後に考察する。


 今回「原左都子エッセイ集」に於いてこのテーマのエッセイを綴る機会を得たのは、朝日新聞夕刊一面下欄で今週より特集されている「制服が好き」と題するコラムによる。
 え~~~!? 本気で制服が好きな人種がこの世に存在し得るの!??  と感じるのがこの記事の題名を一見した私の本音である。  と言うのも、中学校卒業後「制服」を嫌い続けている我が人生である故だ。
 その理由により朝日新聞上記記事の詳細を読もうとも思わない私だが、例えば3月15日のテーマなど「(制服は)3割増しでかっこいい」との事である。

 どうなんだろう?? 
 先日発表された今年の大学生就職率が80%少しに留まっている現在、「制服」がある企業に就職でき、それを着用することだけでも若年層にとってとりあえず“ハッピー”なのだろうか??

 若者世代には少し発想を変えて欲しい思いだ。
 「セーラー服などとっとと脱ぎ捨てて」本気でこの世に飛び立たねば、自分が欲する仕事になど巡り会えないのではなかろうか??

 先進国の企業組織において「制服」を強制化している国とは、(上記で示した特殊作業を行う職種を除外すると)この日本だけではあるまいか?
 「制服」が自分のプライドを保ってくれる時代など当の昔に過ぎ去っている。 それを重々認識し、若き世代には自分の意思と能力で社会へ自由に飛び立って欲しいものだ。

虐待の連鎖を如何に断ち切るか

2013年03月13日 | 人間関係
 原左都子自身は子どもの頃、親から「虐待」とまで表現するべく非情な扱いを受けた経験はない部類であろう。
 一方で両親が共稼ぎだったため幼少の頃より日々祖母の世話になり、両親(特に母)には“放ったらかされて”育った印象をずっと抱え続けている。

 その感覚は今尚脳裏から消え去る事はなく、現在に至っても郷里に帰省した際年老いた母と喧嘩をすると (今更私に対して母親気取りの口を聞くなよ、子どもを放ったらかして仕事してたくせに。 私が上京して自立した時からあんたと私は対等な関係だよ!)と、喉元まで出そうになるのを辛うじてこらえるはめとなる。
 私自身が娘を産んだ後の子育てに関しても、昔祖母に育ててもらった感覚が脳裏に生きていて、それを手本とする場面が多い事に感慨深い思いだ。 
 何分、真面目かつ働き者で気丈、親しみ易いとは言えなかったかもしれないが質実剛健で実に頼りになる祖母だった。

 そんな環境で育った私が大人になった折には親元を離れ、上京して自立する決断をするのは必然的であり自然の成り行きだったとも言える。


 さて、3月9日朝日新聞“悩みのるつぼ”の相談は20代女性による 「虐待の記憶を忘れられません」 だった。

 以下にその内容を要約して紹介しよう。
 20代半ばの女性だが、両親から精神的な虐待を受けてきた。 弟と妹は可愛がられ、問題を起こしても両親はきちんと対応していた。 片や私が同じ事をしたら殺されると思い、真面目に生きてきた。 高校卒業後すぐに就職し生活費も渡していた。親に経済的負担をかけていないはずなのに「額が足りない、お前の顔を見るとムカつく」等々暴言を浴びせられた。 家が狭く、子どもの真横で平気でセックスをするような非常識な親を心の底から軽蔑し、大嫌いである。  現在は結婚して両親とは完全に交流を絶っている。 だが恨みは消えない。夢にまで両親が出てきたりの呪縛から逃れられない。 どうしたらこの記憶から解放されるのか。 
 一番心配なのは虐待は繰り返すということだ。 私の娘はまだ8ヶ月で可愛いが、いつか自分も親と同じように子どもを虐待しないかと不安だ。
 (以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”より要約引用。)

 上記20代女性の相談を受け、ここで一旦原左都子の私論に入ろう。

 相談女性には弟妹が二人いる中、何故両親から精神的「虐待」の標的とされたのかに関して理解し難い側面があるのも事実だ。 
 ここで原左都子の私事を述べよう。  私にも姉がいるのだが、私は持って産まれた特質から姉よりも両親を始めとする家族に可愛がられた記憶がある。 その特質とは何かというと「客観的観察力」及び周囲へのある程度の「同調性」である。  どうやら姉にはその種の能力が備わっていなかった様子で、いつも我がまま放題の行動を取り周囲の手を煩わせる存在だった。  我が親が「○子(私の事)は育て易いが、△子(姉の事)には難儀させられる…」とよく話していたのを私も記憶しているが、姉がその会話を心に留めていないはずはない。  
 そんな姉にとって、幼少期に仕事ばかりして祖母に育児を全面的に任せ、ろくろく子育てをしていない両親に対する敵対心が私以上に深層心理に芽生えるのは必然的だろう。  英語を専門とする姉は米国へ渡ることを20代前半頃から希望し、それを実行した。 渡米後まもなく永住権を取得して30数年程の年月が経過した現在、日本には露程の未練もないとの事で今後一歩たりとて日本の地を踏む意思もなければ、親の遺産相続も全面的に拒否辞退しているとのことだ。  
 (という訳で、今後実母の面倒を私一人で看るはめになるのだが…  これが私にとって吉と出るのか凶と出るのか…… 

 原左都子が昔から現在に至るまで抱えている上記私事が、“悩みのるつぼ”相談者の参考になるかどうかは不明だ。 だが私にもそんな家庭事情があるからこそ、20代相談者にアドバイスをしたい思いでもある。
 現在は結婚して出産され、子どもさんが可愛いことのこと。 その思いを今は大事に育んで欲しいものだ。 しかも、現在8ヶ月の赤ちゃんを抱えている相談者に新聞に投稿する程の余裕時間があることを慮るならば、きっと日々良き母親として赤ちゃんの育児に励まれている事と推測する。


 今回の“悩みのるつぼ”相談者であられる社会学者の上野千鶴子氏も、「それをあなたの『宝物』にして」と題して回答しておられる。 少しだけ、端折って以下に紹介しよう。
 あなたにとって虐待が過去の経験でありその場を断ち切れたならば、とりあえずおめでとう、よくやりましたね!(と賞賛したい)。 過去の経験から、子供を虐待した親の方にはその自覚がなく反省などしないことも分かっている。 親を恨むことは更に自分が傷つくだけだからやめよう。
 相談者は虐待が連鎖する事を心配しておられるが、自分自身がそれを自覚した時に既に歯止めがかかっている。  虐待親とはそれを自覚していないもの。  どんな親でも潜在的虐待者だが、自覚する度にストップを掛けることが一番。  自分が虐待するんじゃないかと怖れているあなたは素晴らしい想像力の持ち主。 そう思えるのはあなた自身に被虐待経験があるからに他ならず、それはあなたにとって宝物。 子どもさんを愛してあげて下さいね。
 (以上、“悩みのるつぼ”上野千鶴子氏の回答を要約引用。)


 親から受けた虐待の連鎖を如何に断ち切るか?

 その結論を原左都子なりに末尾に述べよう。
 自分を虐待した親とは完全に縁を切り、その親を一生に渡り(出来得る範囲で)捨て去る事。 
 そして何よりも自分自身が社会性と経済力を身に付け、新たに築いた世界である家族を大切に育み子どもと共にこの世を強く生き抜く事。  
 それしかなく、それこそが一番の幸せと私は心得て現在生きているが如何だろうか? 

大規模災害発生時の緊急対応に際する非常識

2013年03月11日 | 時事論評
 (写真は、2011年3月11日午後2時46分に発生した 東日本大震災 激震直後の午後3時過ぎに撮影した我が家の一光景)


 未曾有の大震災勃発後2年目の春を迎えている。

 昨日の東京地方は午前中に25℃を超える夏日を記録したかと思いきや、午後過ぎには嵐のごとくの大風が吹き荒れた。 北からの突風と共に気温が急激に低下する中、黄砂で黄色く変色した外気中に飛び散る花粉とPM2,5を吸い込みつつ連発するくしゃみと鼻水を耐え忍びながら、私は所用に出かけた。

 本日は昨日とは一転して肌寒い陽気である。 大震災発生後2年目を迎えた本日、私が住む地域では比較的落ち着いた気候であることに多少救われる思いだ。


 現在パソコンキーボードを打つ私の後ろのテレビからは、「東日本大震災ニ周年追悼式典」の中継が流れている。 ちょうど今午後2時46分となり、黙祷が始まった…


 昨夜はNHKテレビに於いて夜9時から放映された “NHKスペシャル”「メルトダウン」を娘と共に見聞した。
 震災直後の福島第一原発現場における原子炉冷却失敗の詳細を取り上げ、その失態を元に今後如何に原子炉事故拡大を防いでいくかに関し見識者が議論する等々の内容であった。
 
 ここで手短に、昨夜放映された上記NHKテレビ番組に対する原左都子の私見を述べよう。
 東電の取り返しがつかない失策に関してはもちろん許し難い思いを抱かされる。 
 反面、では、他の優れたエキスパート団体が大震災発生に即して完璧に対応したならば、今回の事故を最小限に留められたのだろうか??  結局、そんな“奇跡的エキスパート団体”など存在し得ないのがこの世の悲しい性(さが)との、虚しい結論を私は抱かされてしまうのだが…
 取り返しがつかない事態が発生した事後に、その事態を詳細に分析し落ち度を批判する言動も重要ではあろう。  だが今回の大震災に限らず、“事後批判”とは当該分野に関して多少のバックグラウンドがあれば比較的容易にこなせる業であり、そこには責任も伴わないと私は捉えてしまう。(要するに批判者側の言いたい放題と表現しようか…)
 
 もちろん、原子力発電という人民に与える巨大なる危険を背負って成り立っている大規模組織においては、出来得る限りの危険回避に備える使命があるのは当然のことでもあるが…
 それでは、不完全な人間集団である我々が今後如何なる行動を取ればよいのかと言えば、それはまず過去の失策を当事者はもちろんのこと、社会全体が我が事として反省し肝に銘じる事ではなかろうか?


 大幅に話題を変えるが、東日本大震災発生2年目に際し、本日我が家では今後の大規模震災発生時に家族の個々人が取るべき対応に関して今一度話し合った。

 東京に位置する我が家の場合、2年前の大震災時の被災状況は大規模被災地に比し決して大きくはない。 
 それでも、我が家なりの小規模被災は経験している。 上記写真を参照していただくと分かり易いが、集合住宅上階に位置する我が住居は震度5強の揺れに際し、棚や机の置物がすべて床に落下する被害を被っている。(大物家具に関しては免災措置を施していたため辛うじて倒れることはなかったが、机や背の低い本棚等は15cm程移動した。)

 以下に、2011年3月11日大震災発生後に公開した「原左都子エッセイ集」を少し振り返らせていただこう。
 3月11日午後に外出予定があった私はその準備に取り掛かろうとしていた。
 「あっ、揺れている。これは地震だ。」  その後 どんどん揺れが大きくなる。 (これは尋常な地震ではないぞ)と思い始めると同時に、和室に設置してある高さ230cm程の書棚が前後に大きく波打ち始め、上部が後ろの壁にぶつかってはドーンと大音量を発し開き戸が全開してしまった。 咄嗟に(中の書籍が飛び出したら大変!)と思った私がその扉を閉めようと和室に駆けつけたところ、横の机の上に山積みにしてあった書物や資料等々が机の揺れと共に和室一面に放り落とされてしまった。
 この時私は、ここで書棚を押さえていたのでは必ずや倒れて我が命を失うであろう事がやっと想定できた! 書棚が倒れる心配よりも自分の命をつなぐべきだと少し冷静さを取り戻してみるものの、和室から見えるリビングルームの置物はすべて床に放り落とされ、壁に掛けていた絵画等も落ちて散在している。
 尚、揺れがおさまる気配はない。 とりあえず自分の命を守ることを優先した私は自宅内の物が落下しない場所に立った。 立っていられない程の揺れなのだが、座ると上から物が落下してケガをする恐怖感で座る気になれない。
 多少揺れが落ち着いた時点でテレビのスイッチを入れると、悲鳴にも似たアナウンサーの津波避難指示が流れている。 私自身は東京地方に特化した情報こそが知りたいのだが、そんなことよりも大被害を及ぼす津波警報が優先されるのは当たり前であろう。
 これは自分で今取るべき方策を判断するしかないと悟った私は、とりあえずベランダから周辺地域の状況を観察した。 一見したところ近隣住居の中に倒壊した家屋はなく近くの公立小学校の“古い校舎”が崩れている様子もない。  おそらくこのまま自宅にいるのが一番安全だと私は悟った。
 次なる心配は我が娘! であるのは親として当然だ。 首都圏の交通網は全面マヒ状態。 早速娘との携帯通話を試みたものの、報道で見聞しているごとく携帯電話は一切繋がらない。 16時を過ぎてパソコンからメールをしてみると、やっと送信されたようだ。 ただ娘よりの返答は届かない状態が続く…。  もし娘が早い時間に帰宅できた場合、自宅内の惨状を見せてトラウマに陥らせることは避けたいと考えた私は、激しい余震が繰り返す中果敢にも散乱物の“片付け”行動に入った!
 首都圏の交通網は復旧が不可能状態のようだ。 「下手に大混乱の首都で“帰宅難民”になるよりも、もしも学校で一夜を明かせるならばそれが一番の安全策!」との私の指示に素直に従った我が娘は、所属高校の体育館で「緊急対策グッズ」を配られ眠れぬ中何とか一夜を凌ぐことと相成った。
 (以上、「原左都子エッセイ集」より一部を要約引用)


 2013年3月の本日、娘と共に再度当時の事を懐古したところ新たな“アンビリーバブル情報”を得た私だ。
 実は、震災当日(娘所属の私立)学校側は生徒に対して個々の携帯電話から親に迎えに来るよう伝える事を指示し、迎えに来た親から子どもを帰したとの事だ。
 近くの子どもはそれが叶ったのかもしれない。
 ところが当時の首都圏交通網は鉄道、道路共にほぼ断絶状態。 一体全体どうやって親に迎えに来いと言いたかったのだろう???  親はもちろん我が子が可愛い事には間違いないが、決してスーパーマンではない。 親とは自分の身を守ってこそ子どもを助けられるものでもあると私は信じている。 それでも学校の指示に従い、夜を徹して娘を迎えに行った親もいたとの娘の談話だ。  私自身は子どもの安全を最大限保障することを欲し、娘には学校に留まる指示をした。 それが大正解だったと今尚疑っていない。

 東日本大震災発生後しばらく経過した後日、学校から大震災発生時の今後の対応に関し初めて作成された書面が届いた。  それによれば、今後は生徒を学校に留めることを主たる方針とするとのことだ。 これこそが非常識ではない正当な対応であろうと、保護者としては実に安堵したものである。 


 未曾有の大震災発生後、2年の年月が流れた。
 政権は移り変わり、安倍政権は原発の再稼働を明言する始末だ。

 今日のこの日、我々国民が目指すべきは今後大震災発生時に官民の“非常識”対応と闘う姿勢を保つことと私は心得るが如何だろうか?

レンタル、私は金輪際利用しません。

2013年03月09日 | その他オピニオン
 (写真は、3月上旬に写真館にて撮影した我が娘が来年迎える成人式の早撮り写真。 プロカメラマン撮影中に母の私が横からスナップショットしたもの。 着用している振袖一式はレンタルではなく、生地素材を購入して娘用に仕立てました。)


 「レンタル」との営利商売が事業として成立し始めたのは、いつ頃の時代からだろうか?

 少なくとも私が子どもの頃暮らしていた過疎地では、親族間や地域内に於ける“相互扶助による無料にての物品貸借”は日常頻繁に行われていたものの、その種の業者が営利目的で存在していた記憶はない。

 そんな私が一番最初に「レンタル業者」と係ったのは、上京してすぐ海外旅行へ出向くためスーツケースを借り受ける時だった。
 既に19歳にして海外短期留学経験がある私は、当時買い求めたスーツケースを郷里に置き去りにして来た。  それを宅配してもらうのも親の手間だし、一緒に旅立つ友人の勧めもあって「レンタル」に頼る事とした。
 当時はまだまだ都会においてもレンタル業者が数少ない時代背景であり、私はレンタルスーツケースを借り受けるために自ら電車を何本か乗り継いで新橋駅まで出向いた。 レンタル料金は購入代金の半額程だっただろうか?  決して安価とは言えないレンタル料金よりも、それを自力で自宅まで持ち運ぶ労力の方がよほど辛かった記憶がある。
 寒さ厳しい海外旅行を終え、疲れ果てて帰国した私は直後にインフルエンザに罹患してしまった。 40℃近い高熱と体の痛みを独り身で耐え忍ぶ中、心掛かりなのがスーツケースのレンタル期間だ。  帰国後3、4日の余裕を持ってレンタルしていたものの、高熱を出して寝込んでしまった私は、期限超過にかかるレンタル料金ばかりが気に掛かる…
 (なんでレンタルなんかしてしまったのだろう…  友人の勧めに乗らずに買い求めればよかった。) 高熱にうなされつつ思い浮かぶのは、不覚にもレンタルなどに頼った後悔心ばかりだ
 微熱に戻った日、思い切って私はスーツケースの返却のため新橋まで向かった。 それでも超過料金を何千円か没収されたであろうか??  金銭的損失は耐え忍ぶとして、私のインフルエンザはその後悪化した。(そもそもインフルエンザ罹患後1週間程度は周囲への感染防止のため外出を控えるべきだが…)   無理がたたって、私はその後腹痛や下痢症状まで発症し体重を何キロか落とし、職場復活まで思わぬ期間を要してしまうとの致命的醜態を晒す結果となったのだ。


 上記レンタルスーツケースの大失敗経験を肝に銘じてレンタル利用など全面放棄すればよかったのに、私は性懲りもなくレンタル失策を繰り返すはめとなる。

 次なる失敗とは、我が子誕生後の「ベビーベッド」だ。
 これとてレンタル料金は新品購入価格の7割程度の高額だったと記憶しているが、不必要となった時点での廃棄処分が面倒と考えレンタルに踏み切った。 加えて上記スーツケースレンタル時代と比較してレンタル事業も多少は進化し、業者が搬入・引取作業を全面的に担当してくれるとのメリットもあった。
 さて1年間程ベビーベットを利用した後レンタル企業に“引取”を依頼したものの、何日待てども誰も引取作業に訪れない…  我が家は近々引越しを予定していた事もあり早急に引取って欲しく幾度となく催促電話をかけるのに“なしのつぶて”である。  もしかしたらレンタル会社自体が経営破綻しているのかも!?との事態も視野に入れつつ、「これ、我々が料金支払って処分しなきゃいけないのかなあ?」などと身内で話し合っていた引越し直前期に、やっとこさ引取り業者がやって来た。


 我が家のベビーベッドレンタル失敗後20年程の年月が流れた現在に於いては、「レンタル業界」もその使命を確実に果すべく進化を遂げているのだろうか??

 と思っていた矢先、朝日新聞3月2日別刷「be」“between”コラムのテーマが「レンタルを利用していますか?」 だった。

 おやおや、この記事を読んでみると以外や以外、現在でも“レンタルを使用しない派”に軍配が上がっていると原左都子は解釈した。
 参考のため 「いいえ」 の回答内容を紹介すると、「借りたいものがない」 「レンタルの手間が面倒」 「割高な気がする」 等々の順位でその理由が挙がっている。

 原左都子の“レンタルを使用しない”一番の理由を発表させていだだくならば、それは上記に記した通りレンタルとは 「トラブルが多い」 故に、後々借りた顧客である消費者側が鬱陶しいはめになる事に他ならない。

 実は上記以外にもレンタルを利用して大失敗した経験がある。 それに関しては「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも記載済みのためここでは詳細は省略するが、手短に説明するならば、レンタル過程で物品に瑕疵が生じた場合の補償責任負担を、物品自体の元々の劣化度を度外視して全額消費者側に負荷しようとのレンタル業者の“暴利目的魂胆”姿勢が見て取れた事態である。

 上記朝日新聞記事内に於いても、有識者の方が「レンタルを利用する際には、不測の事態が起きた場合に備え事前に契約内容を確認することが大切」とのアドバイスをされている。
 そんな事百も承知の原左都子ですら、レンタルとは究極の場合業者の破産等々不測の事態を招きやすい事を視野に入れると、金輪際割高のレンタルなど利用しないとの結論となるのだ。


 上記写真に披露させていただいた我が娘の成人式振袖一式を、「レンタル」ではなく「仕立て買取」としたのもその理由による。
 そもそも今時の成人式にかかわる振袖衣装代金など、トータルで計算すると「レンタル」「買取」両者間でさほどの差が生じないとの結論に達すると私は判断するのだが、如何であろうか?

 それもそのはず、「レンタル」に関して後々顧客に対し賠償責任騒動を引き起こす等々の失礼を回避するべく良心的な対応を民間業者が実行するためには、必然的にそれ相応の費用が発生するであろうと私は心得るのだが…。 
 消費者の皆さんはその辺りを如何に捉えられ、消費行動に走られるのだろうか?