原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

私も地毛が茶色くて

2017年11月09日 | 教育・学校
 私の地毛は生まれつき茶色に近い黒褐色だ。

 日本人の髪の毛の色は「黒」と表現される事が一般的だが、その実、その「黒」のバリエーションは多彩で人により様々であろう。

 
 子供の頃の私の髪の毛は直毛。 おかっぱ頭の頭頂部に“天使のリング”が綺麗に出来る程にツヤツヤしていた。  しかも、色が黒ではなく茶色がかっているのも子供心にお気に入りだった。
 時々「髪の毛が茶色いね」と声を掛けられるのだが、私にとってはそれが“褒め言葉”として響いた。
 当時の学校(小中学校)ではそれを“指導対象”とすることもなかったため、自慢のツヤツヤ茶髪で学校生活を大手を振って渡って来た。

 時は高校時代へと移るが、私が通った高校では「パーマ禁止令」もなかったため、私も高3時にロングヘアにパーマをかけた。 そうしたところ髪の毛の先の方が痛み始め、毛先部分が茶色を通り越し“金髪”状態になった。 
 高校3年生の卒業間近の頃、元々学校嫌いかつアウトサイダー気質の私は、郷里名門高校の制服を当時流行っていたスケバンスタイルに自力で大改造した話題はバックナンバーにても記載したが…  まるでそれにマッチするかのような、毛先金髪化だった。
 それに対し学校側から直接指導を受けたことはないのだが、教員から「最近校内で髪を染めている生徒がいたりして風紀が乱れているため、やめるように。」なる警告が発せられた。 すぐさま、(あー、私の事だ。)と察したものの、これを学校嫌いの私の反発心が受け入れられた快挙!、とプラスに捉えた。 
 その後毛先を切って卒業式を迎えた。
 卒業式の翌日にスケバンスタイルに大改造した制服をすべて捨て去る事により、“学校嫌い”に苦しめられ続けた学園生活と私なりに見事におさらばした事に関しても、バックナンバーにて既述している。 

 と言う訳で私にとっては地毛が茶色だった事とは、(元々人と同じであることを好まなかった)子供時代の自慢であり、はたまた学校に対する反発行動が叶ったとの意味で大いなる勲章だったとも言えよう。


 ここのところ、メディアにて学校現場に於ける「黒髪指導」の話題に触れる機会が多い。
 その中から、一つのメディア情報を要約して以下に紹介しよう。

 「頭髪指導に従えないなら授業は受けられない。黒染めするか、学校をやめるか選べ」
 昨年9月、大阪府立懐風館高校(羽曳野市)の教諭は当時2年生のA子さんに告げた。教諭からの度重なる頭髪指導にストレスは限界だった。 「もう嫌や! 黒染めはしたくない! 地毛が茶色いだけで、なんでこんな目にあわなあかんの!?」
 それ以来、A子さんは学校に通えないままだ。
 生まれつき髪の毛が茶色かったA子さんに学校は「ルールだから」と、写真撮影日など入学式の前から黒染めを強要。 度重なる頭髪指導で精神的苦痛を受け、不登校になったと大阪府に対し裁判を起こした。
 慰謝料など約220万円の損害賠償を求める訴状を今年9月、大阪地裁に提出、第1回口頭弁論が10月27日に開かれた。府側は「学校の指導は適切」と、請求棄却を求め、全面的に争う姿勢を示している。
 代理人の弁護士がA子さんの母親が頭髪の件で学校に配慮を求めていたにもかかわらず、入学前に複数の教諭が「髪を黒く染めろ」と迫った。入学後には頭髪指導のたびに黒染めを強要され、A子さんは髪を黒く染め続けたことを明かした。
 A子さんは訴状の中で当時の心情を振り返る。 「黒染めをしなかったら学校に通えない、大学に進学できないと思った」 
 こうした指導はA子さんだけに限らない。同校の頭髪指導は厳しくて有名だった。
 黒染めを繰り返した結果、A子さんの頭皮は薬剤の影響でかぶれ、髪の毛もボロボロになった。代理人は憤慨する。 「生徒の健康を害してまで、これは指導と言えるのか」  
 そして、指導はさらにエスカレートする。 「母子家庭だから茶髪にしてる」と暴言を吐き、「黒染めが不十分」と呼び出し、「黒染めをやり直すまでは出さない」と授業に出ることも禁じた。文化祭や修学旅行など学校行事への参加も拒んだ。  「これは先生たちが学校という組織ぐるみで行った指導という名のいじめ」(代理人)
 学校が生徒の黒髪にこだわるのには日本人ならではの事情があるという。ファッションや化粧の文化に詳しい甲南女子大学の米澤泉准教授は、「生徒は黒髪でベージュの肌をした日本人しかいないと思っており、それ以外は“排除する”という学校現場の意識が強すぎます。色素の加減で髪の毛が茶色く見える人は少なくないのにそれを黒にするというのは行きすぎた管理教育、人権侵害です。例外を認めず、髪の色だけでその人を評価すること自体がおかしい」
 そもそも、同校は「髪は黒がルール」と言い続けてきたが校則には書いていない。 (中略)
 学校側の仕打ちにA子さんが我慢の限界に達したのは今年の6月のことだ。  3年生になったA子さんが学校を訪ねると、生徒名簿にあるはずの自分の名前がない。それどころか、4月に聞いていた出席番号には別の生徒の名前。教室には席もなかった。  学校側の言い分は、「名前や席がないのは不登校を目立たせなくするため。変な噂が広まらないように」
 そんな理屈が通るのか。代理人弁護士は憤る。 「学校は、司法の判断にまかせるが、裁判に負けない限り謝罪はしないと話しています」
 校則に詳しい、千葉・浦安市立小学校の塩崎義明教諭は、「最近の教師は子どもたち同様、決まりに縛られて何も言えないのが現状です。生徒の髪を黒く染める指導に疑問を挟む余地がないのは、教師自身も規則に縛られているということの表れです」
 (以上、ネット情報より一部を引用したもの。)

 
 一旦、私見に入ろう。

 上記A子さんが何故これ程までに学校側から厳しい措置が課せられたのかに関する情報が少ないため、分析しづらい部分もあるが。
 そうだとして、私は上記ネット情報より一種 “不愉快な”「差別意識」を嗅ぎ取った。 それは、A子さんが母子家庭の子供さんだったとの事実だ。 
 A子さんが所属している公立高校が一体如何なるレベルの高校かはネット情報から分かりにくいが、少なくとも当該公立高校に於いて、A子さん家庭への“差別的対処”を実施せんとした事実は明白であろう。

 話題を変えるが、この私も多少不具合を持って生まれた娘を産んで以降、学校現場へ度重なる娘への教育指導に関する意見要望等を提示して来た。 
 もしかして我が家庭も“母子家庭”だったなら、学校は我が訴えを無視したのかと恐ろしくもある。

 
 最後に、私論だが。

 現在に於ける学校現場の「黒髪指導」をストップさせるには、斬新な方策を要すると悲観的に考えざるを得ない。  それ程までに現在の高校学校現場とは、指導者自体が“井の中の蛙”に陥っている状態であろうと判断する。
 学校現場の教員採用に於いてその採用方式を大幅に見直さねば、「黒髪指導」は全国各地で繰り返され、今後も犠牲生徒を出すような悪い予感がする。

 言っとくが、私は生まれ持っての個性ある茶髪を、今でもお気に入りで誇りに思っている。
 20年程前に患った頭部皮膚癌罹患後も、その手術痕カバーのための高額オーダーウィッグを我が地毛茶髪に色を合わせて作成し続けている事実を付け加えておこう。 
 (プロフィール写真を参照下さい。 まさに子供の頃のヘアスタイルと髪色髪質同様のウィッグをオーダーして、現在使用しています。)

何故、見知らぬ相手に「死にたい」と訴える?

2017年11月06日 | 時事論評
 冒頭から話題をズラすが、本エッセイ集2008.8.27バックナンバーとして「無痛化する社会」と題するエッセイを綴り公開している。
 公開して後既に9年以上の年月が経過しているが、今尚アクセスが多いスタンダードナンバーの一つと表現出来るエッセイだ。

 そのエッセイから一部を要約して、以下に紹介しよう。

 少し以前の話になるが、ブログ関連のとある場で、若い世代の方が書いた文面に対し、私は少し批判的な反応をさせていただいたことがある。 そうしたところ、間髪を容れずにご本人から「自分に対するアクセスは今後一切しないように。書き込んだ文章は即刻削除して欲しい。」という趣旨の抗議文が私の元に届いた。 これに対し私は「今後一切(ご本人に対し)アクセスをしないことは承諾するが、(私が)書き込んだ文章が趣旨に沿っていない訳でもないのに、削除を強制するのは言論統制に当たり越権行為であるため拒否する。」旨の返答をした。
 この例に限らず例えばブログの世界においても、肯定的なコメントは歓迎するが異論反論は受け付けないとの立場をとるブロガーは少なくないのではなかろうか。  誹謗中傷についてはもちろん誰しも拒否したいものであるが、肯定的なコメントのみを受け付けて表面的でお手軽な“仲良し倶楽部”をすることが快楽であるというような、“無痛化”現象を目の当たりにするひとつの現象と私は捉える。
 人間関係に的を絞り、“無痛化”現象に対する私論をまとめよう。
 既に当ブログの人間関係カテゴリー等で度々既述しているが、人間関係の希薄化現象とは、要するに人間関係の“無痛化”現象なのであろう。
 他者から褒められたり肯定されるのは快楽であるため好む人はもちろん多い。 一方で、批判等の否定的な対応を受けることは、たとえそれが本人の成長に繋がるアドバイスであれ忌み嫌う人種が急増している様子である。 たとえほんの一時であれ“痛み”を受け付ける免疫力がなくなってしまっている時代なのであろう。
 ところが、人間関係とは“痛み”を経験せずして真の信頼関係は築けないものである。紆余曲折しながら、すったもんだしながら人間関係は少しずつ厚みを増していくものだ。 そうやって築かれた関係は簡単には崩れ去らないし、たとえ別れの時が訪れてもいつまでも忘れ去らないものでもある。
 その場しのぎの、“痛み”を知らない表面的な快楽だけの人間関係も、もちろん存在してよい。 ただ、自分をとりまくすべての人との関係がそんなに薄っぺらいとしたら、生きている意味はどこにあるのだろう。
 “痛み”を実感できるような人との関係を堪能し、今後共ひとつひとつの確かな人間関係を刻み続けたいものである。 
 (以上、「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 私見に入ろう。

 いやはや、ブログを開始して未だ1年足らずの9年以上前に綴り公開した我が記述を読み返してみると、(いや~~、私も若気の至りだったものだ)と驚くやら、ある意味で反省させられるやら、だ。
 ただ、このブログ初期頃の事は今でもよく覚えている。
 何分ブログ新人にして、某ブログコミュニティを通じあれよあれよと読者登録が押し寄せ、わずか1年足らずの間に多く(数百人)の良質読者に恵まれ、“いい気になっていた”時代背景である。
 恵まれたブログ環境の中、こちらからアクセスをさせて頂いた事もある。
 上記の「事件」は、その中でも若き世代(未だ10代後半くらい)の男性相手に寄せた我が書き込みに対する反応を取り上げたものだ。 今思えば、相手が未成年者である事実に対する配慮もせず、こちらこそが大人げなく不躾だったと反省させられる。

 観点を変えて、更に私見を述べよう。
 そうだとして上記のやり取りとは、ある意味で“建設的”なネット上のかかわり方が出来ているとも感じ取れる。 それは文面上の論争が行われている故だ。 (我が論争を相手に拒否されたとの顛末だが、そうだとしても)、単に “私のブログを見て下さい” “友達になりましょう”云々ではなく、我が意見を相手が拒否しているところに確かに“論争”が成立している。
 その意味では「無痛」ではなく、お互いに「痛み」を伴った関係をほんの一時だが築けた有意義なネット関係だったのかもしれない。


 話題を大幅に変えよう。

 現在神奈川県にて発生している9人連続殺人事件も、ネットを通してのやり取りから事件が勃発しているようだ。  今となってはネット犯罪は何ら珍しい事象でもなく、そんな事件がまたもや発生したか、程度に万人が捉えている事だろう。
 事件の発端は加害者が(要するに)“自殺幇助”に応じるとネット発信したのに安易に反応し、その文言に引き込まれた若き女性(女子)達が犠牲者となっているとの事件のようだ。
 被害者のご関係者にとって一番許し難き点とは、実は加害者が最初から殺害を企てていて自分は死ぬ気など毛頭なかった、との部分ではなかろうか?
 しかも。 加害者によれば、「(実際に会ってみると)本当に死にたい人がいなかった」との無残さだ。

 私が一番無念なのは、何故彼女ら(男性犠牲者も1名いるようだが)は全く見知らぬ相手に「死にたい」と訴えねばならなかったのか、との点だ。
 報道によれば、加害者はネットから自分に近づいて来た女性達にさしあたり“やさしく”接したらしい。 だからこそ彼女らは加害者の棲家まで足を運び、結果として命を失う羽目となったのだろう。


 最後に私論でまとめよう。
 
 自分が抱える(究極の場合「死にたい」なる)悩みを、ネットを通じて見知らぬ相手を見つけ相談する、との事態。 
 これも「無痛化」の一現象と捉えられるのかもしれない。 

 現実世界での人間関係の希薄化が極度にまで進んでしまった現在の社会に於いて、下手に現実世界の知り合いに相談したところで、不十分な回答しか得られなかったり、そもそも相談に乗ってくれる受け皿がまったく無い事も重々想像できる。 その回答が想像可能な立場にして、無意味な現実とのことだろう。
 そうした場合、とりあえずとにかく自分の思いを表面的にでも受け止めてくれそうな相手がネット上で見つかったなら、“藁をも掴む”思いになる切実な彼女らの気持ちも理解可能とも言えようか。

 何分、髪の毛が「黒」でなければ「地毛証明書」を提出しろ! と生徒の尊厳を根本から拒絶する指導を平然と強行している現在の学校教育現場だ。  そこに勤務する教員らが指導教育を担う集団現場に日々通わねばならぬ生徒達に「優しい心」が育まれるはずもない!  家に帰っても貧しい親どもが「学校指導に従え!」と怒鳴る。 (事例が極端だった事はお詫びするが。)

 この世の不条理・不憫に悩み苦しむ若い世代が、何を心の拠り所にすればよいのか? 
 そこで辿り着くのがネット世界しかないとの現実こそが、若者達にとって実に厳しい現状と結論付けられよう。

 そんなネット世界の大いなる「マイナス所産」に対する制御機能が未だ無い事態に対し、特にネット産業にて暴利を得ている企業群は早急に着目し、改善策を提案して欲しいものだ。

イバンカさんの能力と魅力の程が分かりにくい

2017年11月04日 | 時事論評
 明日(2017.11.5)初来日する米国トランプ大統領の日本到着に先立ち、その長女であるイバンカ・トランプ氏が来日し、本日米国へ帰国するとのことだ。


 このイバンカ氏、トランプ大統領の就任当初より、誰よりも優先して大統領に何処へも引き連れられるがままに行動を共にしているようだ。
 以下に、そのイバンカ氏のトランプ大統領同行ぶりをウィキペディア情報より引用してみよう。

 2016年アメリカ合衆国大統領選挙で立候補した父ドナルドの政治活動でも出馬会見や集会で前座を務め、選対本部長や閣僚の人選に介入し、トランプがシリアをミサイル攻撃した際も決定を後押ししたとされ、世界各国の指導者との会談に同席し、政府の役職に就かずして機密情報へのアクセス権とホワイトハウスに執務室を得るなど父ドナルドの顧問となった夫ジャレッド・クシュナーとともにその絶大な影響力から「政治を私物化してる」という批判もあり、「才色兼備」としても注目を集めていることから父ドナルドの「秘密兵器」とも呼ばれている。
 2017年3月29日には無給の大統領補佐官に任命されて夫婦でホワイトハウス入りした。同年5月、大統領の初外遊である中東歴訪にレックス・ティラーソン国務長官、夫のクシュナー大統領上級顧問とともに同行した。 同年、6月にドイツで開催されたG20では大統領に同行。 期間中に開催された「アフリカや移民に関する会議」では、席を外した大統領の代わりに一時的に着座、イバンカが中国の習近平国家主席とイギリスのメイ首相の間に座り、会議に参加している様子が報道された。
 同年9月、当初計画されたイヴァンカと夫のクシュナーの中国訪問が中止され、首都ワシントンD.C.で行われた国慶節の記念式典に夫婦揃って出席して中国の劉延東国務院副総理と会見した。
 同年11月、国際女性会議出席のため初来日。安倍首相も同席して講演に臨み、女性の起業や自立を広く訴えた。
 (以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)

 一旦、私見に入ろう。
 
 まさに、この親子の行動は私の目にも「政治の私物化」としか映らない。
 ただ上記ウィキペディア情報内にある通り、イバンカ氏が大統領補佐官の身分を“無給”で引き受けている事実を鑑みると、あくまでも趣味範囲でそれを実行していると捉えてよいのかもしれない。
 未だ幼き3人の子持ちにしてその行動が叶うのも、億万長者の娘であるが故だろう。

 それにしても未だ若きイバンカ氏にも自身のポリシーがあろうに、父であるトランプ大統領に指示されるまま金魚のウンチのごとくくっついて、(今回の来日の場合イバンカ氏の到着が先行したようだが)大統領と行動を共にしてご本人が何を目指したいのかが理解しにくい。

 
 そこで、さらにウィキペディア情報より、イバンカ氏の生い立ちを探ってみよう。
 イヴァンカ・マリー・トランプ(Ivanka Marie Trump、名は日本語ではイバンカとも、1981年10月30日 - )は、アメリカ合衆国の女性実業家、ソーシャライト、女性相続人(英語版)、ファッションモデル、大統領補佐官。 不動産王で第45代アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプと実業家イヴァナ・トランプの娘であり、トランプ・オーガナイゼイションの副社長を務めた。
 ニューヨークの名門女子校の一つであるチャピン・スクールに通った後、15歳でコネチカット州のチョート・ローズマリー・ホール校に転入。同校卒業後、ジョージタウン大学に2年間在学した後、2004年にアイビーリーグの一つ私立ペンシルベニア大学のウォートン・スクール(学士課程)に転入し優等 で卒業。経済学の学士号 (bachelor of science in economics) を取得する。
 幼少期から芸能界に興味を持ち、ミュージカル『レ・ミゼラブル』のオーディションを受けて落ちたことがある。1997年に父がオーナーの一人である『ミス・ティーンUSA』の司会を務め、テレビ界にデビューした。2006年に父が出演するリアリティ番組『アプレンティス』第五シーズンで、審査員キャロライン・ケプチャーの代役として5話のエピソードに出演。第六・七シーズンにはケプチャーに代わりレギュラー審査員となった。同年『ザ・トゥナイト・ショー・ウィズ・ジェイ・レノ』にゲスト出演し、レノに口ぶりなどに父の影響が見られるとコメントされた。2010年10月26日、『ゴシップガール』第四シーズン第六話に夫と共にカメオ出演した。
 1996年、モデルとしてデビュー。両親の知名度もあり、すぐに注目を浴びた。彼女が初めて表紙を飾った雑誌は「Seventeen」で1997年のことだった。それ以来ヴェルサーチ、ティエリー・ミュグレーなどの有名ブランドのファッションショーに起用されるようになる。トミー・ヒルフィガーの広告に起用された際はイギリスの男性誌「Stuff(英語版)」2006年8月、2007年9月号の表紙を飾りフィーチャーされた。これまで「フォーブス」「ゴルフマガジン」「ELLE メキシコ」「ハーパース・バザー」などの表紙も飾っている。
 大学卒業後にいくつかの不動産企業で勤務した後、父ドナルドがCEOを務めるトランプ・オーガナイゼーションに入社し、不動産開発・買収部門のヴァイスプレジデントを務める。父譲りといわれるビジネス手腕を発揮し、2008年、パートナー企業であるダイナミック・ダイヤモンド・コーポレーションとオンライン・ジュエリー・ブティック『ivankatrumpcollection.com』を立ち上げた。海外事業も多数手がけた。 トランプ政権の間、トランプ・オーガナイゼーション及び自身のブランドの経営から退くことが発表された。
 (以上、再びウィキペディア情報より一部を引用したもの。)

 再度、私見だが。

 上記ウィキペディア情報を一言で要約するならば。
 イバンカ氏は子供時代から現在に至るまで、学業、芸能界、モデル界、実業界、すべての活躍分野で米国にて名立たる実業家である父トランプ氏の恩恵を被りつつ現在の地位を築いてきたと総括して間違いないだろう。


 ここで話題を変え、同じく大統領の娘氏であられるキャロライン・ケネディ氏を取り上げさせて頂こう。
 皆さんもご存知の通り、キャロライン・K氏は昨年まで駐日大使として日本に居住されていた。
 実は私はこの人物を好んでいた。 そのためキャロライン氏が駐日大使になられたと聞き、密かに来日を心待ちにしていた。
 とにかく笑顔が素敵な方だ。 笑うと皺が目立つのだが、それでもメディアにて本気の笑顔を絶やさないその姿を拝見出来ることが楽しみだった。
 キャロライン氏は言わずとしれているが、故ジョン・F・ケネディのご長女だ。
 父ジョン・F・ケネディ氏が1960年の大統領選挙で大統領に選出された後、わずか3年後の1963年11月22日に暗殺されるとの悲劇が勃発した。 
 その後のキャロライン氏の生育に関して亡き父の恩恵が無くはなかったのだろうが、父亡き後の(特に精神面での)彼女のご苦労・心痛の程を察して余りある。
 駐日大使を終え米国帰国の際には、我が心に一抹の寂しさが漂ったものだ。


 最後に再び、トランプ大統領長女イバンカ氏に対する我が印象でまとめよう。

 彼女が今回来日したのは、おそらく安倍首相から差し出された57億円也!の「国際女性会議WAW!」拠出に対するお礼行動だったと判断してよかろうか。
 それにしても米国大統領と「蜜月」と批判されている安倍氏も、よくぞまあ自分勝手に巨額国家債務を抱える立場にして、相変わらずの“国政私物化”の有様だ!
 今回の衆院選にて少しは「謙虚」になるべきと反省しているのかと思いきや、悪い癖とは一生治らないものと実感させられる。

 さて、イバンカさんだが。
 メディアを通して、彼女の笑顔を見る事が無い。
 いや、カメラ目線でモデルとして“笑み”を作っているらしき表情は見るが…。

 彼女が今回大統領本人に先立って来日したのは、おそらく上記安倍氏による“蜜月関係”金銭拠出に応えるためトランプ大統領に指示されたのだろう。
 それにしても億万長者の家庭に生まれた子供とは、一生に渡り“真の自分”を出せず(それに気が付く事さえないまま)に終わるのだろうか?
 今後イバンカさんは、本気で笑うとの貴重な経験が出来るのだろうか??

“あおられる”恐怖

2017年11月02日 | 時事論評
 私が車の運転を完全リタイアして以降、既に十年以上の年月が流れている。

 その間、ただの一度足りとて “運転を再開しよう” と考えた事がない。
 一番の理由は、その後特段車の運転をする必要が無い生活を送っている故だ。

 特に子育て中は何処のご家庭も、子どもの習い事等々の送り迎えをするのは母親の役割であることだろう。
 大都会で車を動かすこととは様々な理由で難儀な生業だが、この私も子育て中は無い知恵を働かせてそれを乗り越えて来た。
 たとえば駐車場確保に難儀する。
 都会の場合ほとんどの習い事教室付近に駐車場が無いため、他に車を止める場所を確保せねばならない。 しっかりした子供さんを持つ母親氏など、路上に違法駐車したまま車内運転席で待機し、子供が車まで来たら発車すれば済む様子だった。(実際、その種の母迎え車が大多数だった。 ただ、現在は違法駐車に厳罰が下されるめ減少しているかもしれないが。)
 残念ながら我が家の場合、その種の早業を我が子に課すのは“命取り”であり所詮無理だ。 必ずや母の私が習い事教室の玄関先まで迎えに行き、時には指導者に娘の成長具合を確認したりしつつ、娘の手を引いて私が確保した駐車場まで連れて行き帰宅した。
 
 その後、そんな娘も私立中学生となり、電車を3本乗り換えて通学する身となった。
 クラシックバレエ及び油絵絵画の習い事を続行させていたが、通学の帰り道に自身で教室へ立ち寄ってくれるようになったため、我が送り迎えの生業終了と同時に車の運転リタイヤの運びとなった。


 私の車運転リタイヤを一番残念がったのは、郷里の実母だ。
 私が郷里に帰省する都度母がそれを責めた。 その気持ちも分かる気がする。 交通網が発達し得ない過疎地郷里に於いては、“車無し”生活など成り立たないのは百も承知だ。
 そんな母が我が帰省の都度必ずや言った。 「何も“運転完全リタイア”せずとも、空港からレンタカーを借りたら身軽だよ」と。
 この発言から母は“旅の楽しみ”を知らない人種だと、私はいつも感じる。 帰省とは言えども郷里実家に立ち寄る時間帯が少ない私の場合、路線バスとタクシーがあれば十分だし、その方が自家用車やレンタカーの中に身内で閉じこもるよりも “一期一会” の出会いが格段に増えるとのサプライズ楽しみがあるのだ!


 話題のテーマを表題に戻そう。

 当時の女子としては早期の19歳時に運転免許を取得した私だが、決して運転が得意ではないとの感覚はあった。
 自動車教習所でも(自己分析で周囲と比較して)劣等生であることを自覚していたのだが、どういう訳か、仮免も本免許も周囲より早期にゲット出来た。 それを後に分析するなら、要するに“試験の要点”を心得る能力に長けていたからに他ならない。

 免許ゲット当初、実際車を運転するとの事実が私にってどれ程恐怖だったことか!  早速大学へマイカー通学を始めた私だが、日々の運転が怖い事この上なかったものだ。
 そんな私に、最初の“あおり運転”恐怖機会が訪れた。 過疎地にしては広い交差点に差し掛かった際黄信号に変わったため、初心者としては安全確保のために停止したのだ。 それに怒り狂ったらしき後部の大型トラック運転手が、最大限の警告音を出しつつ、小さき車の運転席の私を睨み付けながら猛スピードで接近しつつ走り去った。
 ただその後郷里にて、“若葉マーク”を貼りつけていた私をあおる運転手と遭遇しなかったのはラッキーだったと言えるだろう。


 話題を上京後に変えよう。

 若き世代の男女の付き合いに於いて、「ドライブ」なるデート手段は今現在もスタンダード形態であることだろう。
 上京して後自家用車を持たなかった私も、独身時代は彼氏の車でドライブも堪能した。

 20代後半期に差し掛かり、いつもは都心の飲み食い処デートが中心だった某彼氏(B氏としておくが)と初ドライブと相成った。
 その時、私は初めてB氏の車に乗ったのだが。
 驚愕させられたのは、B氏に車の運転をさせると極端に人格が変貌する事実だった。 いつもは優しいB氏が、突如として「何やってんだ!前の車は!」等々と運転席で怒り始めるのだ。  その事態に私こそが仰天させられ、「何言ってるの!前の車は特段悪い事をしていないよ!」等々なだめるにも関わらず、「こんちくしょー!」と叫び始めた時点で、私は即刻B氏との付き合いを終焉させる決断を下した。


 最後に、私論でまとめよう。

 前方をノロノロ運転車が走っていたり、合流時に割り込まれたした際、普段は口にしないような罵声を浴びせたり、抜き返そうと荒い運転になってしまったり、という「あおり運転」。
 朝日新聞記事によれば、その実態とは「車特有の“匿名性”と“万能性”が火に油を注ぎ」、その場では身元が相手に分からないため感情の抑制がききにくい、とある。 
 要約するならば、車に乗ったらまるで「鉄のよろい」でも被ったつもりになり自分が強くなった錯覚に陥るとの記述だが、まさにその通りであろう。

 いやはや、恐ろしい限りだ。
 私自身は十年程前に車の運転から完全リタイアした人間である故に、今後一切運転席には座らないつもりだが。 
 今後車の運転を続行したい方々は、どうか他力本願勘違いの「鉄のよろい」を外して自己の人格を取り戻した後に、運転席に座って欲しいものだ。