原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

5kmランニング、左膝複雑骨折を乗り越えて 昨日1年1カ月ぶりに完走出来ました!

2023年11月09日 | 自己実現
 (冒頭写真は、今から7年前の2016年秋に出場した地元ランニング大会にて5kmレースを完走した直後に撮影したもの。)


 ここのところ 晩秋に差し掛かっているにもかかわらず、全国規模で“記録的に暑い秋”の被害が蔓延っている様子だ。
 そんな気象異常をかなり脅威に思いつつも、原左都子としては来週郷里旅行を控えている身にして体力増強に励んでおきたいものでもある。


 そんな気分の昨日、ラッキーにも私が住む東京では高温ではあるが晴れ渡った天候に恵まれた。

 そうなると、自宅近くの大規模公園内でランニングをするに限るとの結論に至る。
 しかも来週の郷里旅行を視野に入れた場合、今日こそは1年以上ぶりに5キロを完走したくもなるものだ!

           
 このストップウォッチは、今秋からランニングを再開する際に購入したものだが。 通販アマゾンにて購入すると、予想よりも大きなウォッチが到着した。 
 まあ、年寄りの身にしてはタイムが見やすくて助かるのだが。 ランニング用ポシェットの中に収納するには大き過ぎて、走っている途中でランニングの揺れと共にポッシェットがボタンに触れてしまうようで、昨日は正確なタイムが表示されずに残念だった。 
 それでも腕時計も身に付けていたため、それでおおよそのタイムは把握できた。

 自宅近くの大規模公園が我がメインのランニング場所なのだが。
 周回で3周少しを走るのが私が目指す5kmランニングコースだ。
 10月までは未だそのコースを3周するのが左膝骨折後遺症故に不能で、2周でやめておいていた。(要するに、10月まではほぼ3.2㎞を走っていた計算となる。)

 昨日も 実は2周目の途中で、(これはやっぱり今日も2周でやめておくべきか…)と途中リタイアを考えていたところ。

 またもや 公園内でよくお声を掛けて下さる女性がいらっしゃって、「頑張って!!」の声援だ!
 前回この女性にお会いした時には、私の膝が未だ十分に回復しておらず膝をいたわりつつ走っていたため、途中で止まってこの女性と一時お話をしたのだが。
 今回は、我がランニングの“本気度”が伝わったようだ。 女性は私を引き留めることなく、お声かけだけにして下さったのだ。 それでも私は嬉しくて、もちろんのこと手を振って笑顔でその声援に応えた。
 しかも、その女性のお声かけがとても嬉しくて。 途中リタイアなどなんのその!!  
 俄然“5キロ完走バージョン”に突入し、1年1か月ぶりに私は当該大規模公園内で5キロ完走を果たしたとの訳だ。😃 

 そしてタイムを見ようとしてポシェットからストップウォッチを取り出すと、2周目時点のタイムで止まっているではないか…😰 
 それでも腕時計である程度の時間が判明したところ、ほぼ43分で5キロを完走できた計算となる。


 参考のため、我が公開ランニング大会出場時の5キロ最高タイムは今から約13年程前に出場した時の30分37秒なのだが。  コロナ前の4年前の秋に出場した時のタイムは加齢のせいかその後どんどんタイムが落ちて 34分台だった。 
 今後は、このタイムを再度目指すことになろうが。

 公開ランニング大会では、決められた時間内にゴールしないと「失格」扱いとなる。
 私の記憶では、5キロの場合確か40分以内ゴールが原則だった。 
 そうすると 現在の私はバリバリ「失格」扱いとなるなあ…😱 


 とにかく、とりあえず5キロ40分以内を目指してランニング練習を続けよう!
 必ずや近い未来に、昨年10月から引きずって来た左膝複雑骨折を乗り越えて。
 公開ランニング大会に出場するぞ!!!


全国の百貨店の「屋上遊園地」が姿を消しつつあるらしい

2023年11月07日 | その他オピニオン
 (冒頭写真は、2023.11.06付朝日新聞夕刊記事「消えゆく屋上遊園 残したい レジャー多様化、維持費負担に 屋上遊園地のある百貨店は5店のみ」より転載したもの。)


 早速当該朝日新聞記事の一部を以下に要約引用しよう。

 朝日新聞は10月、日本百貨店協会に加盟する全170店舗を対象に、常設の屋上百貨店があるかを電話で尋ねた。 今も営業をしていると答えたのは松坂屋高槻店、松坂屋名古屋店、大和香林店、いよてつ高島屋、浜屋百貨店の5店舗。 このほかにも小規模な遊具コーナーを設けている百貨店があったが、屋上遊園地という認識ではなかった。 (中略)
 屋上遊園地の起源は、100年以上前まで遡るが、設置が加速したのは戦後の高度経済成長期。 百貨店が次々とでき、屋上遊園地も「必須アイテム」のように造られた。 (中略)
 だが、郊外型ショッピングセンターの盛況、バブル崩壊や2000年代の不景気など、百貨店を取り巻く環境は厳しさを増していく。 テーマパークなどレジャーも多様化。 集客装置としての屋上百貨店の役割は維持費と見合わなくなり、00年前後から徐々に閉園していったとみられる。

 (以上、朝日新聞記事より一部を引用したもの。)



 実はこの原左都子、私自身の子供の頃にもデパートの屋上遊園地に行った記憶がうっすらあるものの、さほどの思い出は無い。

 それよりも。
 晩婚高齢出産にて産んだ一人娘を都内のデパート屋上や、近くの大規模スーパーマーケットの屋上の小型遊園地へ頻繁に連れて行った記憶が、今尚鮮明だ。

 先程その写真を探してみたのだが、どうやらデパート屋上遊園地にて撮影した写真は残念ながら見つからなかった。 おそらく カメラを持参せずに出かけたものと思われる。😂 😔 

          

          

          

 その代わりと言ってはなんだが。 
 我が一人娘をデパート屋上へ連れて行った幼少の頃に他の場所で撮影した写真が複数見つかったので、それらを公開させていただこう。

 一番上は、おそらく「としまえん」にて夜間撮影した写真のようだ。
 2枚目は、その当時の自宅近くに存在した大規模中央公園にて撮影したもの。
 一番下は、我が家にての撮影だが。 我が一人娘は私が写真撮影をしようとすると、姉妹がいなかったせいかいつもこうやって家中の“お友達”を集めてはポーズをとったものだ。
 面白いのは、その際に「はい〇ちゃん、ちゃんと前を向いて! △ちゃんはおりこうさんね」等々と“いっぱしの”指導を始めるのには驚かされた。😁  将来は教員でも目指すのかと一時思ったりしたが、そうではなかったようだ。😝 


 話題をデパート屋上遊園地に戻すと。
 我が一人娘は、幼少の頃からそれを大いに好んでいた。 
 その後も平日幼稚園や学校から下校した際に、「屋上遊園地へ行こうか?!」と声掛けすると喜び勇んだものだ。 平日は近くのスーパーの屋上、土日祝日には池袋の(今は無き)西武デパートの屋上へ足繁く母娘で通ったものである。 (さすがに亭主は、それには同行しなかったなあ…)
 我が子の場合、大規模遊園地よりもむしろ デパート屋上遊園地を好んでいた思い出がある。  おそらく大混雑が一切無いため、我が子なりに安心してゆったりと遊べたのであろう。

 確かに 我が子が小学生になった頃には、既にデパート屋上遊園地はさびれかけていて、人口密度がかなり低かった記憶がある。    


 かく言う私も、我が子が小さい頃にはディズニーランド等の巨大施設へ連れて行くよりも。(もちろん連れて行きましたけど。)
 近くのデパートやスーパー屋上遊園施設の方が安心感が大きかったし、私自身も我が子が喜ぶ姿を間直に見れて、ずっと楽しかった記憶があるなあ。😃 


我が実母は、何故真の実力を身に付けるべく頑張らないままに年老いてしまったのかと思う…

2023年11月05日 | 自己実現
 郷里の高齢者自立支援施設に暮らす我が実母関連のエッセイが続いて恐縮だが。

 
 いえもちろん、実母が生まれた時代と私が生まれた時代背景とでは雲泥の差だったであろことはこの私も想像がついている。

 ただ、実母から過去に聞かされた話によると。
 実母が暮らした実家は、地元産のワカメや海苔の養殖業が結構繁盛していたらしい。
 その家の長女として生まれた実母は地元の女学校を卒業し、それなりに戦争も乗り越え役所の公務員として働いていたと私は聞いている。
 その後 縁あって我が父との見合いにての縁談が整い嫁いだようだ。 当初は新婚で二人暮らしをしていたらしいが。
 その後父の実家に誘われて私が4歳時に父の実家へ引っ越したとの経過だ。


 その頃の記憶は、今尚我が脳裏に鮮明にある。
 小さき私としては、今までよりも随分と広大な敷地と家屋がある家へ引っ越したものだ、と少し嬉しい気分にすらなっていた。
 
 そんな私もその地の幼稚園を経て小学生となり、その後中高生と成長していくのは自然の理だが…

 実の母親が次女の私を捕まえては「嫁ぎ先に対する不服」と「長女である実姉の不服」等々を私にぶちまけ続けるのに、ほとほと嫌気がさしていた。


 もしかしたら、私が郷里医学部卒業後すぐに上京した真の理由とは。
 この実母の 次女である私に対するそれらの「自分の不満のぶちまけ対象とされる」事実にとことん嫌気がさしていたのではないか、と今振り返る。


 それでも、実母はめげずに上京した次女の私宛にしょっちゅう電話を寄越し、実父や姉に関する不満を訴え続けて来ていたことを思い起す…

 それがいつまで続行しただろうか??

 我が晩婚後まで続いていた記憶がある。
 いやいや、私が高齢出産にて超難産で一人娘を生んだ時ですら、自身の不満を私に語り続けたものだ…


 「そんなに今の状況がつらいならば、父と離婚して新たな人生をスタートさせればいいんじゃないか? 娘二人も郷里を出て自立しているし、何らの障壁も無いと思うけど。」と私がアドバイスしたこともある。

 そうしたところ実母から返された答えとは、「そんなこと、あの田舎で出来る訳ないじゃろ!!!」」だった。
 
 それは全く違う! 母の自由だろう?!? とすぐさま感じた私だ。
 正直言って外見的努力に関するただのひとつのすべもしないまま年老いてしまっている実母(お洒落の一つもせずデブり続け、早くから腰を曲げてしまっている!😱 )には、そんな対象相手がただの一人として存在し得ないのが結論だったという事だろう…


 とにかく、郷里の実母は。 
 
 表題の通り、実父を既に25年も前に亡くしているにもかかららず。
 その後の人生再スタートの努力をいろんな意味合いでまるでなさずに、無駄に年月を過ごしてきている感がある。

 どうして我が実母は、特に老後に至って以降各方面・分野に於いて何の努力も無い人生を歩んでしまっているのか…

 実の娘として、何だかもの悲しい気分にすら陥ってしまう…😰 
 

続編「 年寄りとは『手土産』一つで施設スタッフに大事にしてもらえると信じる悲しい生き物…」

2023年11月04日 | 人間関係
 昨日公開した冒頭表題の続編となるが。


 少しだけ、昨日のエッセイ内容を再掲載させていただこう。

  本日昼過ぎに、郷里の高齢者自立支援施設でお世話になっている実母より電話が入った。 その内容が あまりにも疎か、かつ腹立たしい!!😡 😭  ため、急遽それを以下に殴り書きさせていただこう。 
 11月中旬に、私は我が卒業大学医学部の同窓会に久しぶりに出席する予定でいる。 その際のついでに、上記郷里の高齢者自立支援施設にて暮らしている実母が永代供養を予約している四国88か所霊場の一つである5番札所・地蔵寺に、生前の挨拶にお供する予定を入れている。 
 それは問題ないのだが。
 先程の実母からの電話で、「その際に、是非共東京で買った手土産を持参して欲しい。」との以前よりの要望の繰り返しを実母がのたまう。
 これに関しては、今現在我が複雑骨折の左足が未だに万全ではなく、一人で手荷物を複数持参することは危険を伴うとの事情を実母に既に重々話してある。 「前にも言ったけど、その事情があるから今回は前もって施設宛に東京から宅配便を送るからそれで済まさせてもらいたい。」
 この我が要望に、実母は同意してくれたものと思っていたのに。
 先程の電話で、実母は意外な発言をするではないか!
 「実の娘が手土産無しで施設に来るのは恥ずかしいから、当日は施設外で待ち合わせをすることにする。」
 直後には理解しにくい実母の発言であったし、そもそも実母も90歳を過ぎて多少の認知症もあると考え、とりあえずそれに同意をした。
 電話を切った後でよーく考えてみるに、施設外での待ち合わせと言ったとて、実母はおそらく手押し車無くして施設外部へ出る事すら不能であろう。 一体どこで待ち合わせをする気なのだろう…??? (中略)
 それにしても、私はやはり悲しい。

 (以下略すが、以上昨日公開の我がエッセイの一部を再掲載したもの。)



 本日 この件に関して、実母の実妹に当たる郷里の叔母(以下、「さっちゃん」とする)に電話して、実母に対する我が思いをお聞きいただいた。

 まずは、実母の施設へ私が行くことを拒んで施設外で待ち合わせをしたいと実母が言った理由に関してさっちゃんのご意見を伺ったところ、思いもよらぬ返答が返ってきた。
 さっちゃん曰く、「それは、〇ちゃん(私の事)が考えている理由とは全く異なる理由で〇ちゃんが施設へ立ち寄ることを拒んだのではないか? 姉さん(私の実母のこと)を施設入居後ずっと身近に見てきている立場として、姉さんはむしろ施設内では施設スタッフに遠慮ばかりして、何も言えないような気の弱さすらある。 今回、〇ちゃんが施設へ立ち寄るのを嫌がったのは、手土産問題とは全く関係の無い部分で、むしろ、〇ちゃんにそんな施設内での自分の弱腰な態度に気付かれるのが嫌だったからではないかと思う。 例えば、現在役所から税金関連の提出書類が届いているようだが、その書類が自力で作成できなくて私の処へ書類作成の助力を頼んできている。 それこそ施設へ相談すればいいものを、どうも姉さんはその行動が恥ずかしいと考えるようだ。 それだけ元公務員としてのプライドもあるのだろう。 ただ、既に年齢も90代に突入していることだし、私の方で手伝う手はずは整えている。」


 そうだったんだ。😲  とかなり驚く私だが。
 そう言われてみるに、私が実母の施設へ行ったのは入居直後の引っ越し手伝いと、その後は2年に一度程度の訪問後。 コロナ禍に突入して以降は施設側が出入り禁止措置を採ったし…
 ほとんど、実母の施設暮らしの実態を把握していなかったことに気付かされる。


 今回叔母のさっちゃんからの話を伺って。
 そう言われてみると あの実母は“内弁慶”なところがあって、肝心要の事象に関して自分より偉い立場の人達と対等に対応できないところがあることを思い起した。 
 なんだか さっちゃんの話に大いに納得させられて、その後実母に対する怒りの感情が消え去ったのはラッキーだった。

 それにしても、それならばそれで実の娘に対する対応の仕方も他にあるだろうに。 何故 話の内容を「施設に手土産を持ってこない」ことに怒っているがごとくにすり替えたのだろう??

  昨日まではそれに憤っていた私だが。
 本日叔母のさっちゃんと電話での貴重な会話が叶って、実母に対するその憤り感情が消え去っている。


 とにかく、11月中旬には実母が暮らす高齢者自立支援施設へ行こう。
 それ程までに、娘の私が施設担当者の皆さんに会うことを実母が避けて欲しいのならば、それに従ってもいいが。 
 娘の私とて短時間でいいから、施設担当者さん達に一言二言の日頃の挨拶はしたいものだよ…
 

年寄りとは「手土産」一つで施設スタッフに大事にしてもらえると信じる悲しい生き物…

2023年11月03日 | 医学・医療・介護
 本日のエッセイは、午前中まで全く別のテーマ題材を用意していたのだが。


 本日昼過ぎに、郷里の高齢者自立支援施設でお世話になっている実母より電話が入った。

 その内容が あまりにも疎か、かつ腹立たしい!!😡 😭  ため、急遽それを以下に殴り書きさせていただこう。

 
 11月中旬に、私は我が卒業大学医学部の同窓会に久しぶりに出席する予定でいる。
 その際のついでに、上記郷里の高齢者自立支援施設にて暮らしている実母が永代供養を予約している四国88か所霊場の一つである5番札所・地蔵寺に、生前の挨拶にお供する予定を入れている。

 
 それは問題ないのだが。
 先程の実母からの電話で、「その際に、是非共東京で買った手土産を持参して欲しい。」との以前よりの要望の繰り返しを実母がのたまう。
 これに関しては、今現在我が複雑骨折の左足が未だに万全ではなく、一人で手荷物を複数持参することは危険を伴うとの事情を実母に既に重々話してある。 「前にも言ったけど、その事情があるから今回は前もって施設宛に東京から宅配便を送るからそれで済まさせてもらいたい。」

 この我が要望に、実母は同意してくれたものと思っていたのに。
 先程の電話で、実母は意外な発言をするではないか!
 「実の娘が手土産無しで施設に来るのは恥ずかしいから、当日は施設外で待ち合わせをすることにする。」

 直後には理解しにくい実母の発言であったし、そもそも実母も90歳を過ぎて多少の認知症もあると考え、とりあえずそれに同意をした。

 電話を切った後でよーく考えてみるに、施設外での待ち合わせと言ったとて、実母はおそらく手押し車無くして施設外部へ出る事すら不能であろう。 一体どこで待ち合わせをする気なのだろう…???


 そんなことを考えているうちに、私はだんだん腹立たしくなって来た!

 そもそも現在の高齢者施設では、入居者からの「手土産」を一切禁止している様子だ。 それは義母が暮らす施設とて同様だ。
 それでも 入居者の家族からの差し入れ「手土産」が途絶えることの無い現状であることは、義母の施設で経験済みでもある。 特に義母の施設は、職員の対応もまちまち。 完全拒絶する係員もいれば、喜んでお受け取り下さる職員も存在する。😷  おそらくこの現状は、実母の施設とて同様であろう。


 それにしても、私はやはり悲しい。
 実母には幾度も、私の左膝複雑骨折の現状を伝えてある。
 上にも記したが、本日の電話ではその件に関して実母より現在の容態を問うてきた。 私が「未だ万全では無いが、一人で郷里までの旅行に出ようと志せるレベルまでは回復している」と答えたまでは良かったが…

 その後の、「実の娘が手土産無しで施設に来るのは恥ずかしいから、当日は施設外で待ち合わせをすることにする。」 
 この実母の発言に、私は十分に痛めつけられた。😱 
 
 だから、事前に施設宛に送ると言ったじゃないか!!!

 
 今思うに、この我が提言をもう一度実母にぶつけるしかないような気もしてきた。
 それよりも、それを実行に移せば済む話じゃないか!?!?!


 事前に実母が暮らす施設へ我が手紙を添えた贈り物を届けるのが一番の方策と思えて来た!
 
 明日、早速その手だてを打とう!!