◎撮影所は面白半分に行くところではない(淀川長治)
『バンビブック』第九号「映画なんでも号」(一九五二年四月、朝日新聞社)の紹介を続ける。この本には、野口久光、双葉十三郎、清水俊二、淀川長治、白井茂といった人々が寄稿している。
映画評論家の淀川長治(よどがわ・ながはる、一九〇九~一九九八)は、エッセイを二本も寄稿している。本日は、そのエッセイのうちのひとつ、「撮影所というところ」を紹介してみたい。
撮影所というところ
―面白半分に行くところではない― 淀川長治
神 聖 な 仕 事 場
だれでも撮影所は見たいものです。だから私なども、よく一度撮影所という所へ連れていってくれとせがまれます。けれど私は一年に一度も行かないくらいです。ハリウッドへ行ったときは、それが私の仕事なので毎日行きましたが、これとても何週間も前から手紙で約束をし電話連絡した上で、雑誌上に発表するとうわけで行けたので、「面白半分にちょっとのぞいてみたい」というのは最もいけないことだといえましょう。なぜなら、撮影所というところは、例えば作家が小説を原稿用紙に書いている部屋です。私たちはその小説を読めばいいので、油ののりきった作家が苦しみながらペンを走らせているのを横から見る、そんなことは作家に大変失礼じゃありませんか。
日 本 の 場 合
私は、そんなわけてあまり出かけませんが、それでも原稿を書くため「二十四の瞳」の木下恵介監督のセットをのぞいたことがありました。教室で高峰秀子さんの先生が村の生徒と二人っきりで話す場面です。こんな時、この場面のためにセット係りや電気屋が、どうしたら午後三時ごろの生徒の帰ってしまった静かな教室の感じを出そうかと天井の電気を右にやったり左にやったり大変な苦心をしています。木下監督はそれをだまったまま見ております。そしてライトの位置などきまってから、これでいいてすか、とライトマンなどが木下さんにたずねます。するとレンズからそのセットをのぞいて「はい結構です……それでは始めましょう」と少し大きな声でいいます。するとセットわきで待っていた高峰さんとその相手の少女が「ハイ」といってきまった位置に座ります。こんな時、私は高峰秀子さんが盛んに煙草をすっては捨て、また新しい煙草に火をつけて口にしているのを見ました。高峰さんは常日ごろあまりたくさん煙草をすう人ではありません。その高峰さんが、そんなに煙草をすっているのは、さあこれから演技するのだ、という自分には気のつかない心のきんちょうなのです。思わず心がたかぶって煙草に火がつくのです。私はこれを見て感心しました。どんなちょっとした場面でもスターはこんなに心身をすりへらして力を注いているのが分ったからてす。
ア メ リ カ の 場 合
ハリウッドで一度こんなセットにぶつかりました。RKOラジオ映画で、いましもフリッツ・ランク〔Fritz Lang〕という監督が、J・キャロル・ナイシュ〔J. Carrol Naish〕という中年の役者に演技をつけております。この役者が長いセリフを相手のポール・ダグラス〔Paul Douglas〕というスターにしゃべる場面です。ポールはただ「うん、そうか」というだけで、J・キャロル・ナイシュばかりの長いセリフの場面です。ところが、その日どうしたことか彼は何度やっても失敗するのです。長いセリフの途中でしくじるのです。七回、八回、九回、とうとう彼は自分でその失敗の瞬間に両手で顔をかくし体を伏せてしまいました。シーンとしたセットじゅうが水を打ったようになりました。そんな時、フリッツ・ランク監督や相手のポール・ダグラスは一体どう慰めるのだろうかと見てますと、この人たちは両手をポケットにつっこんだまま、ただ黙ってキャロル・ナィシュのこうふんの静まるのを待っているのでした。これにも感心しました。もしもここで二人がキャロルを大げさに慰めたりすると、ますます彼の心は波立つことだったでしょう。【以下、次回】
淀川長治は、その撮影現場を見学したという「映画」のタイトルを記していない。しかし、RKO、フリッツ・ラングなどキーワードで検索すれば、そのタイトルは容易に判明する。一九五二年六月公開のRKO映画『熱い夜の疼き Clash by Night』である。この映画は、たぶん日本では、公開されなかった。だから淀川は、タイトルを示すまでもないと思ったのではないか。