◎龍土軒、偕行社、青山の寺院、回向院などで
本日からしばらく、福本亀治著『秘録二・二六事件真相史』(大勢新聞社、一九五八)を紹介する。著者の福本亀治(ふくもと・かめじ)は、二・二六事件当時、東京憲兵隊の特高課長だった人物である。
この本で福本は、いわゆる相沢事件(相沢三郎による永田鉄山軍務局長斬殺事件)に関しても、かなり詳しく述べているが、今回、紹介するのは、二・二六事件関係の記述である。
第三章 動乱の四日間
「青二才に何が出来るか」
世に云う叛乱事件――いわゆるこの二・二六事件は前代未聞の突発事件だつたと語る者がいるが、前述したように、決して予期しない突発事件でもなければまた、軍首脳部の故意か? 過失か? 怠慢か? と云うようなものでもなかつたのである。
つまりこの事件が爆発するまでには対外的な問題、対内的な問題と云つたように、幾多の複雑な事態が絡み、そこに純真一途な青年将校等〈ラ〉の激情が発火し遂に大事件を生むに至つたと云う事は、今更繰り返す要もないだろう。
ところで、この青年将校等をして二月蹶起と云う決意を固めさせた原因は、いわゆる相沢事件の影響もあつたが、直接の原因は何と云つても軍首脳部が青年将校等の熱望する粛軍問題を取上るどころか、関心も示さない冷酷さのうちに第一師団が満洲に派遣されると云う情報が入つて来たからである。
「近く第一師団が満洲に派遣されるそうだ。それまでに吾々は急遽、事〈コト〉を決行しなければならん」
「それには相沢事件の公判を有利に展開させ、決行時機を醸成するのだ」
先づこれが青年将校等の計画になつていた。
すると昭和十年〔一九三五〕十二月、第一師団の満洲派遣と云う事態が意外にも早く発表され、早くも兵器類の整備、輸送も行われ出した。
こうなると青年将校等は勢い慌てざるを得なくなったのだろう。以来、同志の運動は「相沢事件の公判闘争を通して革新気運の醸成」の一点に集中し出した。そして密会、画策が慌ただしく行われて行つた。
この空気はやがて何か重大事の勃発を予感させる、幾多の情報になつて我々憲兵隊の耳にも入つて来ていた。
ところが軍当局はそれを一笑に附し「青二才連中に何が出来るか」と云つて鼻であしらい、むしろそう云う連中なら、逆にこつちが御して〈ギョシテ〉対政治的策謀に利用してやろうと云うような気配さえ示していた。
ところが現実は軍当局のそんな甘い考えとは到底想像もつかない事態で進展していたのである。
いわゆる統制派の陸軍省、参謀本部などに勤務して「青二才に何がやれるか」と豪語する将校達が新橋の〝とんぼ〟柳橋の〝柳光亭〟築地の〝金龍〟赤坂の〝田中〟富士見町の〝ほたる〟〝豊田屋〟神楽坂の〝松ケ枝〟鮫洲の〝川崎屋〟麹町の〝宝亭〟と云つた一流の待合料亭で華美な会合を行つては気焔を上げるのに対し、皇道派の将校や隊附勤務の若い将校連は麻布の〝龍土軒〟〝偕行社〟或いは〝青山の寺院〟、南千住の〝回向院〟または互いの自宅で秘かに会合を行つては研究すると云つた行き方であつた。
然し稀には五反田の〝松泉閣〟とか渋谷道玄坂の〝福寿亭〟数寄屋橋の〝福井〟などで薄給の中から会費を出し合つて騒いでいることもあつたが、多くは極めて質素な隠密会合だつた。
また、この会合の顔振れと云うと、統制派は三月事件、十月事件に関係のあつた将校や神田、清水各中佐、真方、片倉、櫛田各少佐等が加わつて中心になり、これに政界、財界、官界の連中がしばしば加わつて盛大なものだつた。
これに引かえ革新派と云うと大岸〔頼好〕、香田〔清貞〕、安藤〔輝三〕各大尉に栗原〔安秀〕中尉が中心になり、磯部〔浅一〕、村中〔孝次〕、西田〔税〕等が参加していた。
それは兎も角〈トモカク〉、昭和十一年〔一九三六〕一月廿八日、麻布の龍土軒に集つた香田、山口〔一太郎〕、栗原、安藤、磯部、村中等の九名が論を闘わしていたのである。その論議の重点は第一師団の満洲派遣問題と計画実行の時期にあつたのだろうが、この会合の情報が憲兵隊に入つて来たのを想い出してみると、
「第一師団が近く満洲に行くことになる。そうなれば当分、維新運動の決行の時期を失う事になる。従つてそれまでに決行しなければならん」
これは磯部、村中、安藤、栗原等の強硬な意見である。
「いや、満洲に行かねばならんから早急に決行しなければならんと云う事は間違いだ。先づ相沢事件の公判を有利に展開させて重臣、政界、財界、官界、軍閥の腐敗、醜状を天下に暴露し、これに依って維新断行の機運を醸成すべきだ。決行はそれからでも遅くはあるまい」
これが香田、山口等の意見であった。
従つて両者の間に意見の対立が出来た。だが大勢は磯部、村中、安藤、栗原等の主張に傾いて行つた。そして、
『相沢中佐の公判闘争の展開に伴い、維新運動決行の準備を進めること』
『相沢公判に軍首脳部の証人出廷を要求し情勢を最高潮に熱しさせた時機を捉えて決行する』
『決行の時機は概ね二月十五日頃……二月二十日頃……二月二十二、三日頃と予定し、その何れかに決行すること』
と決議した内容の情報であった。【以下、次回】