◎緒方竹虎の顔が編集局の入口に現われた
木下宗一著『号外昭和史』(同光社磯部書房、一九五三年四月再版)から、「二・二六事件」の章を紹介している。本日は、その二回目。
憲兵隊から電話
私は上着を脱ぐとデスクについた。電話のベル――。
「こちらは憲兵隊ですが、あなたの方は号外は出しませんか」
「いや、出しません」
「出さないですね。絶体に出してはいけませんぞ。出したら襲撃されますぞ」
「は、承知しました。伝えておきます」
「あなたはどなたですか」
「いや、社会部の者です。失礼ですが、あなたはどなたです」
「憲兵隊です、麹町の……」
私は二週間前に、社会部次長になったばかりのホヤホヤデスクだつた。「襲撃されますぞ」との一言は聞きずてには出来なかつた。部長〔尾坂与市〕から早速社の幹部に伝えられた。
情報電話は刻々に深刻さを加えて来た。
岡田〔啓介〕首相、高橋〔是清〕蔵相、渡辺〔錠太郎〕大将、鈴木〔貫太郎〕侍従長、斎藤〔実〕内大臣を始め、西園寺〔公望〕公、若槻〔礼次郎〕男も危いという。
「あツ、雪が降つてきた」
給仕が窓から首をつき出して降り出したボタン雪をながめていたが、
「おやツ、兵隊がトラックで通りますよ」
という。
「警戒に行くんだろう」
誰かゞ言つた。
「わア、社の前でとまつた、社の前で……」
給仕が頓狂な声を上げながら走つた。その声に、手のあいていた数名が三階のベランダからのぞきに行つた。その第一報――。
「社の玄関前に擬関銃をすえている。日劇や数寄屋橋方面に銃口を向けている」
第二報が来た。
「将校が、日劇の前にいる人々をピストルを向けて追つ払つている」
統いて第三報。
「将校が社の玄関に来て、朝日の代表に会いたいというので、いま緒方さんが下へ降りて行つた」
「来たナ!」
デスクをとりまいて、みんなの目が一つに凝縮した。
その一瞬だつた。二階の印刷局へ通ずる指段を上つて来た一人の下士官が、編集局の真中まで歩みよつたかと思うと、
「みんな出ろ! 出ないと射つぞ!」
ツケ剣の銃を斜に構えての大音声〈ダイオンジョウ〉である。
丁度その時、緒方〔竹虎〕主筆の顔が編集局の入口に現われた。
「みなさん、一応出て下さい」
右手を高くかざしながら、編集局全員にこう呼びかけた。
編集局に仁王立ちになつた下士官はその後カガシのように黙つて突つ立つたまゝだつた。そのそばを、緒方主筆に命ぜられるまゝに、全員は静かに玄関への階段を降りて行つた。
デスクの連中は、かゝつて来る電話に「一応編集局を出るから」と断つた。大阪〔本社〕、西部〔本社〕への直通電話も「一応連絡を断つ」旨が伝えられた。
最後に、社の玄関を出たのはエレベーター嬢〔菊地滋子〕だつた。編集局の最後の一人を玄関まで運んで、エレベーターのトビラを閉めると、何事もなかつたように雪の数寄屋橋に出て行つた。
朝日を襲撃したのは栗原安秀中尉の率いる五十名で印刷局に乱入、活字ケースを引つくり返して新聞の発行を不能にし、一時間後に引きあげて行つた。【以下、次回】