◎二十六日朝、真崎大将宅に自動車を廻すこと
福本亀治著『秘録二・二六事件真相史』(大勢新聞社、一九五八)の第三章「動乱の四日間」を紹介している。本日は、その七回目で、前回に続いて、「嵐まさに到らんとす」の節紹介する。この節の紹介としては二回目。
二月二十三日、亀川哲也が真崎〔甚三郎〕大将を訪問した。
其他相沢公判中は閉廷後には必ず麻布龍土軒や偕行社や、私宅等に集合して、当日の公判状況に就て対策を協議している。また、北〔一輝〕、西田〔税〕、栗原〔安秀〕、村中〔孝次〕等の自宅でも屡々密会していたが、会合の内容は判らない。
此等将校の会合と前後して民間方面でも種々の会合が行われている。例へば、
一月六日――星某等が浅草馬道の甲州屋(香具師)の親分と会合して「真崎大将の教育総監更迭に依り軍部が軟化した。渡辺〔錠太郎〕大将をやつつける必要がある。一月十七日朝鈍刀と木刀を以て渡辺大将宅を襲撃する」ことを協議した。
一月七日には薩摩雄次が相沢中佐の無罪論を公開した。
一月十一日には山本英輔大将が斉藤〔実〕内府宛「時局収拾に関する書翰」を送つた。
こうした情勢であつたから、事件前夜の二月二十二、三日頃は実に息のつまる様なあわたゞしさを現出していた。
また、これも事件後判明したことなのだが、二月二十二日の相沢公判で問題の真崎大将の証人出廷と云う事が二十五日に決定した為、二十二日に決行する筈のものを延期し、二十五日の公判を最終段階とすることにし、同夜栗原の自宅で磯部、村中、河野〔寿〕、栗原等が集合して次の様な決定を行つた。
一、蹶起の日時――二十六日午前五時を期し同志一斉に蹶起すること。
二、襲撃の目標――総理大臣 岡田 啓介
大蔵大臣 高橋 是清〈コレキヨ〉
内大臣 斎藤 実〈マコト〉
侍従長 鈴木貫太郎
伯 爵 牧野 伸顕〈ノブアキ〉
公 爵 西園寺公望(取止め)
陸軍省・参謀本部・陸軍大臣官邸・警視庁占拠
宮城坂下門を扼し、奸臣と目する重臣、大官の参内を阻止すること。
三、蹶起後の措置、香田〔清貞〕大尉、村中孝次、磯部浅一が陸軍大臣に対して事態収拾方を要望すること。
四、山口〔一太郎〕大尉、北、西田、渋川〔善助〕、亀川等は外部に在つて蹶起の目的達成を推進すること。襲撃を聞いたら直に工作にかゝること。
五、発見次第射殺する人物
石原莞爾大佐、武藤章中佐、根本博中佐、片倉衷〈タダシ〉少佐等
其他警戒線の通行を認める将校の名前も決定した。
六、二十六日朝真崎大将宅に自動車を廻すこと。
こうした決議に基づいて栗原中尉は翌二十三日、豊橋に急行豊橋教導学校の対馬〔勝雄〕、竹島〔継夫〕中尉等の同志と共に蹶起に就て打合せを行つた。
また渋川善助は小石川水道端町の直心道場で磯部、村中と打合せた結果、牧野伸顕伯の所在を確めるため、夫人を連れて一般浴客を装い、わざわざ神奈川県湯ケ原温泉地を偵察に行つている。【以下、次回】