◎初代「マスクの総理」は岡田啓介
木下宗一著『号外昭和史』(同光社磯部書房、一九五三年四月再版)から、「二・二六事件」の章を紹介している。本日は、その五回目(最後)。
マスクの総理
二十七日になると海軍の連中は「総理の死骸を放りツぱなしにしておくとは怪しからん」と言い出した。顔を見られたら、ばれてしまうから大変だというので松尾〔伝蔵〕大佐の顔へすつかりホウタイして顔を見えなくした。その日、憲兵が総理にマスクを持つて来た。「これをかけてお出ましを願います。いずれ御案内しますから」と言つてくれた。やがて憲兵が秘書官に「焼香する人を十人ばかり入れてもらいたい。その中に交ぜて総理を出してしまうから」と言つて来た。それで、総理位の年恰好の者を交ぜて十人集め、海軍経理学校に行つていた総理の令息岡田貞寛氏にも「今日はどんなびつくりしたことがあつても声を出してはいけません」と言いふくめて官邸に入れた。
総理は「自分はすぐ参内したいからモーニングを出してくれ」と言うので、女中部屋で憲兵が着せてくれた。その焼香の間に憲兵が玄関に出て「年寄にあんなものを見せるから病気になつて困るじやないか。早く自動車を玄関につけてくれ」と大声に怒鳴つた。その時、佐々木久二〈ヒサジ〉氏(元衆議院議員京浜電力監査役)の自動車が一番先にあつたから、佐々木氏の自動車がそこに来た。憲兵はマスクをかけた総理を抱いて自動車にのせて首尾よく官邸を脱出した。叛乱軍の兵隊も数名立つていたが誰にも気づかれなかつた。ところが、いつもの自動車でないから宮内省の門鑑がない。すぐ参内は不可能とあきらめて一旦佐々木氏の家に行つた。佐々木氏は尾崎行雄氏の娘婿で、総理が死んだと思つて拝んで帰つて来てみれば、本人の総理が生きて、しかも自分の家に来ていたんだから驚いたのなんの。
それが二十七日の夕方近くで、佐々木氏宅から宮内省へ電話で「すぐ参内したい」と言うと「宜しい」というので準備していると〔川島義之〕陸軍大臣から「こんな日に総理が出て参内しては困る。兵隊だけは帰隊させると言つているのに総理が生きているとなつた日には、青年将校はやけになつて兵隊を使つて撃ち始めやしないか」と言つてきた。それで「明日迄待とう」ということになつた。
二十八日の朝になつてもなかなかケリがつかない。叛乱軍の電話を傍受してみると、北一輝や栗原〔安秀〕中尉の電話が判つて来た。外から激励しているのだ。帰順するというのは嘘で、いつまでも引延ばす計画であることが判つた。そこでその日の午後から、いよいよ奉勒命令をつきつけて片付けることになつた。戦いと決まれば総理は出ても同じことだというので、総理は午後四時年頃参内した。脱出してまる一昼夜、内閣は「岡田総理の生存」を発表した。
陛下は御学間所でお会いになつた。「よかつた」と老首相の奇蹟的脱出によろこばれたそうである。総理は感極まつて泣いた。後で、陛下は広幡〔忠隆〕侍従次長に、
「岡田は非常に恐縮して興奮しているようだ。周囲の者がよく気をつけて、考えちがいのことをさせぬように……」
と言われたそうである。
後年、太平洋戦争の末期、国難打開に一年余の苦心を払い、東条〔英機〕首相を面詰して退陣させたのも、この陛下の御信任にお答えした老政治家の最後の御奉公だつた。そして昭和二十七年〔一九五二〕十月十七日死去した。八十四歳だつた。
この事件に関係した下士官兵は千四百数十名に上つていたが、起訴されたもの百二十三名、同年〔一九三六〕七月五日、 東京陸軍軍法会議で香田清貞〈コウダ・キヨサダ〉大尉以下将校十三名に死刑、常人〈ジョウジン〉村中孝次〈タカジ〉以下四名にも死刑の判決言渡しがあり間もなく処刑された。背後関係については約一年後の十二年〔一九三七〕一月十八日、資金を提供した歌人将軍斎藤瀏〈リュウ〉少将に禁錮五年、その他の十四名にもそれぞれ処刑があつた。