◎真崎大将には前夜、決行を知らせること
福本亀治著『秘録二・二六事件真相史』(大勢新聞社、一九五八)の第三章「動乱の四日間」を紹介している。本日は、その六回目で、「嵐まさに到らんとす」の節を紹介する。この節は、かなり長いので、何回かに分けて紹介する。
嵐まさに到らんとす
ここで愈々日本を震撼させた動乱四日間の本筋に入るのだが、先づ事件発生前の慌ただしい軍内の動静を知る一端として、当時、統制派はどこでどんな集会を行つて誰が出席していたか―——またこれに対し皇道派もどこでどんな会合を行い、どんな協議を行つていたのか――主なものを参考にして置きたい。
所謂統制派将校の主な集会
一月三日、六日――富士見町待合豊田屋で神田〔正種〕中佐、馬奈木〔敬信〕、片倉〔衷〕少佐等が何事か談合した。
一月四日――熱海の旅館で石原莞爾大佐、満井佐吉中佐、橋本欣五郎中佐等が集つて「宇垣〔一成〕内閣」の実現に就て協議した。
一月一五日――品川区大井鮫洲の川崎屋に神田中佐、清水〔規矩〕中佐、真方〔勲〕少佐、景山主計等統制派将校六名が、美土路昌一〈ミドロ・マスイチ〉(朝日)菅太郎〈カン・タロウ〉(内務省)清水達三郞、平野捨吉、小原辰明、民政党議員某、財閥某等三十名と会合して革新対策を協議した。
一月下旬――松下芳男、実川時次郎、牧某等が統制派将校校と会合して満井佐吉中佐の相沢公判に於ける行動に就て反対協議を行つた。
二月八日――柳橋柳光亭に武藤(章)中佐、清水中佐、片倉少佐、田中〔弥〕大尉、山科某外数名が会合して革新問題に就て協議した。
二月中旬――築地の金龍で清水中佐、長(勇)、重藤〔千秋〕少佐、田中大尉等が四回集合して打合せを行つた。
二月二十二日――京橋の料亭(名不詳)で陸海軍将校が私に会合して打合せを行つた。
又皇道派将校は、
一月初旬――数寄屋椅待合福井に安藤〔輝三〕、栗原〔安秀〕、間瀬、飯淵、西田〔税〕等が会合して蹶起に関する対策を協議した。(前年の十一月にも同様の会合をしている。)
一月中旬――山口〔一太郎〕大尉が三六俱楽部と連絡した。
二月十二日――麻布龍土軒に安藤、栗原等数名が集合して革新運動に就て協議した。
二月中旬――五反田松泉閣に青年将校等十八名が集合して国家革新問題に就て討議した。
二月中旬頃――—道玄坂福寿亭に青年将校八名が集合して打合せを行つた。
二月十八日――麻布龍土軒に香田〔清貞〕、安藤、山口、栗原、磯部〔浅一〕、村中〔孝次〕等十九名が集合して公判対策を協議し、村中から状況報告及今後の対策に就て協議を行つた。
二月十八日頃――栗原の自宅に磯部、村中、西田等数名が集合し、二十二日頃決行することに就て次の様な打合せを行つた。
『今度の蹶起には民間側は参加させぬこと。真崎〔甚三郎〕内閣、柳川〔平助〕陸相の実現。西園寺〔公望〕公の襲撃は豊橋組で決行すること。(西園寺公の襲撃に就ては反対があつたのて結局軍部内閣実現の為利用することとして襲撃を中止した。)
本庄〔繁〕侍従武官長には山口大尉から前以て知らせること。
真崎大将には西田税から決行の趣きを前夜知らせること。……等々』
【一行アキ】
然し二月二十二日は事なくして終った。【以下、次回】