◎オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
木下宗一著『号外昭和史』(同光社磯部書房、一九五三年四月再版)から、「二・二六事件」の章を紹介している。本日は、その三回目。
岡田首相即死の発表
その夜八時十五分になって陸軍省は事件の概要をこう発表した。
《本日午前五時一部青年将校は左記個所を襲撃せり
△首相官邸(岡田〔啓介〕首相即死〕△斎藤〔実〕内大臣私邸(内大臣即死)△渡辺〔錠太郎〕教育総監私邸(教育総監即死)△牧野〔伸顕〕前内大臣宿舎、湯河原伊藤屋旅館(牧野伯爵不明)(後に判明)△鈴木貫太郎侍従長官邸(侍従長重傷)高橋〔是清〕大蔵大臣私邸(大蔵大臣負傷)(後に絶命)△東京朝日新聞社
これらの将校等の蹶起せる目的は、その趣意書によれば、内外重大危急の際、元老、重臣、財閥、軍閥、官僚、政党等の国体破壊の元兇を芟除〈サンジョ〉し、以て大義を正し、国体を擁護、開顕〈カイケン〉せんとするにあり、右に関し、在京部隊に非常警備の処置を講ぜしめられたり。》
天 皇 の 激 怒
このため翌二十七日、帝都に戒厳令が布かれ香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉中将が司令官になつた。海軍では万一に備えて、第一第二両艦隊で東京湾と大阪湾を警備、更に横須賀警備戦隊は東京港警備のため芝浦に入港した。
首相官邸、陸相官邸、陸軍省、警視庁を占拠した反乱部隊はその後、首相官邸、蔵相、鉄相、文相各官邸、国会議事堂、料理店幸楽、山王ホテルに移動し、二十六日の夜は幸楽で大宴会を開いて気勢を上げた。
戒厳令が布かれたのは「自分らの目的が一部達成せられたもの」として、川島〔義之〕陸相に向つて「軍部内閣」の早急出現を要望した。軍の首脳部では、反乱部隊に同情するものもあり、とつおいつの相談にくれて行つた。天皇はこれを聞かれて激怒された。
「お前達の手で鎮圧が出来ぬなら、自分が出向いて鎮圧する」
かくて〔二九日〕、空からは「下士官兵に告ぐ」というビラがまかれた。兵隊に罪はないという建前である。
アドバルーンやラジオを通じて、兵隊に呼びかける一方、反乱部隊の集結地に対して砲門が向けられた。
「帰順しなければ砲撃を加えるぞ」
という威嚇である。
二十九日午後二時になつて、反乱軍兵士は全部原隊に帰順した。こと志と違つた反乱軍の首脳は野中四郎中尉が自決したほか、香田清貞大尉以下十四名は陸軍刑務所に収容された。事件突発から四日目である。【以下、次回】
文中、「ビラがまかれた」とあるが、『号外昭和史』一五八ページにある写真によれば、その内容は、次の通り。タテ書き。/は、改行を示す。【 】内は、原文におけるルビ。
下士官兵ニ告グ
一、今【イマ】カラデモ遅【オソ】クナイカラ原隊【ゲンタイ】ヘ帰【カヘ】レ
二、抵抗【テイコウ】スル者【モノ】ハ全部【ゼンブ】逆賊【ギヤクゾク】デアルカラ射殺【シヤサツ】スル
三、オ前達【マヘタチ】の父母兄弟【フボケイテイ】ハ国賊【コクゾク】トナルノデ皆【ミナ】泣【ナ】イ/
テオルゾ
二月二十九日 戒 厳 司 令 部