礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

辞退した市川猿之助丈、快諾した市川団十郎丈

2014-08-25 05:33:11 | コラムと名言

◎辞退した市川猿之助丈、快諾した市川団十郎丈

 昨日の続きである。日本法律家協会副会長・岸星一氏の「内藤頼博先生を偲ぶ」という追悼文を紹介している。本日は、その二回目(最後)。岸氏によれば、内藤頼博は歌舞伎界に、強力なツテを持っていたという。

 昭和29年〔一九五四〕であったか、私共の事務所を見たいと言われて、当時三原橋の改造社のビルに〔内藤頼博〕先生が矢崎〔憲正〕さんと見えた。その帰り、歌舞伎座を観ようと誘われて、3人で赴いた。演し物〈ダシモノ〉は何であったか記憶していないが、先生は歌舞伎審議委員であったから、飛び込みでもフリーパスで観劇を楽しめたのであった。【中略】
 平成4年〔一九九二〕の総会は協会設立40周年に当たるため、東京で行うことになった。この総会における講演の講師を何方〈ドナタ〉にお願いするかが理事会で相談された。私〔岸〕の案は当時歌舞伎に新風を吹き込んでいた市川猿之助丈〔三代目〕か、京都奥嵯峨に寂庵を開いた瀬戸内寂聴さんかであった。結局猿之助丈に決まり、先生にお話し〔打診〕をして頂くことになった。数カ月後に猿之助丈から断わりの挨拶があったが、その理由は、随分考えたがお偉い先生方にお話しするのはご遠慮させて頂きたいということであった。先生はややご立腹のご様子で、岸さん、それならもっと格の上の役者を頼もうよ、団十郎ならどうかな、と早速連絡して承諾をとって下さった。この時の団十郎丈〔十二代目〕の講演は家重代で門外不出の小道具なども持参され、薀蓄〈ウンチク〉を傾けての芸談は滋味溢れるものがあり、総会に参加された会員やご家族からも大好評を受けた。先生のお力を思い知らされた一事であった。【後略】

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