◎高遠藩・内藤新宿・新宿御苑
今月二〇日のコラムで、『法の支配』121号(二〇〇一年五月)に掲載された内藤頼博に対する追悼文を紹介した。紹介したのは、無署名の「悼 内藤頼博特別顧問」、および日本法律家協会会長・大内恒夫氏の「追悼の辞」である。
このとき言及したが、『法の支配』の同号には、もうひとつ、日本法律家協会副会長・岸星一氏の「内藤頼博先生を偲ぶ」という追悼文も載っている。追悼文としては、この文章が最も長文であり、もっとも読み応えがある。本日はこれを紹介してみよう。
内藤頼博先生を偲ぶ 日本法律家協会副会長 岸 星一
【前略】先生は日法協〔日本法律家協会〕設立の準備の当初は最高裁判所事務総局秘書課長として、昭和24年2月からは同総務局長として、当協会設立の細部に亘り心血を注がれ、発足後も広島及び名古屋高裁長官として東京を離れられた期間を除き、協会の発展に尽瘁〈ジンスイ〉されたことは、忘れがたいことである。
昭和62年8月学習院院長にご就任になってからは、役員会にお見えになる機会がなくなったので、ご指導を願う必要の際は院長室にお邪魔をしたが、快くご教示頂くことが出来た。今、幽明相隔てるに至ったことは痛恨の極みといわなければならない。
拙宅に近い新宿中央公園に、小彼岸桜〈コヒガンザクラ〉の一群がある。そこに建つ記念碑によれば、この桜は昭和57年3月、信州高遠町から新宿区へ「歴史的な繋がりを記念して」送られたと記されてある。高遠は言うまでもなく内藤家のご領地であり、その昔絵島が配流〈ハイル〉された地として、また彼岸桜の名所として名高い。
新宿御苑の敷地は内藤家の江戸屋敷跡、大木戸〈オオキド〉から新宿3丁目に掛けての内藤新宿の商店会は今でも内藤家をお殿様と慕う。御苑は私も月に何度かは散歩に訪れるが、特に現内藤家の裏手に当たる玉藻池〈タマモイケ〉の周辺は大名屋敷の奥庭の面影を残しており、水鳥が遊弋〈ユウヨク〉し、亀が小島に憩う池面を左手に見て林道を辿る小道は、都心の騒々しさを忘れて暫し佇む楽しさを与えてくれる。
昭和40年頃の夏、私は当時司法研修所の教官をしていたので、夏期研修の指導のため数年紀州高野山〈コウヤサン〉に出張した。その始めての時、山内を散策している内に諸大名の墓所を発見した。その中に内藤家の墓所があった。他より大きく立派なものだった。外様〈トザマ〉大名には経費を掛けさせる徳川幕府の政策によるものだと聞かされた。【以下は次回】
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