礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

高田保馬の初期の学問的業績

2014-08-03 04:15:28 | コラムと名言

◎高田保馬の初期の学問的業績

 高田保馬は、「経済学資料」という叢書の第三冊として、一九一三年(大正二)一二月一五日に、グロッパリ著・高田保馬訳『社会学綱要』(有斐閣書房)を刊行した。一方、「法律学経済学研究叢書」の第一三冊として、同年一二月一八日に『分業論』を刊行し、一九一五年(大正四)には、同叢書の第一六冊として『大数法論』を刊行した。「法律学経済学研究叢書」は、昨日のコラムでも述べた通り、編纂・発行は、京都法学会(京都帝国大学法科大学内)、発売は有斐閣書房だった。
 若き高田保馬は、こうして、学者としての実績を、順調に積み重ねていった。ところで、新明正道監修『現代社会学のエッセンス』(ぺりかん社、一九七二)には、「高田保馬」という章があり(向井利昌・執筆)、そこに高田保馬の「学者的経歴」がまとめられている。その最初のパラグラフを引用してみよう。

 一八八三年(明治一六年)といえば、社会科学における一九世紀の最高の巨匠ともいうべきカール・マルクスがロンドンでその生涯の幕を閉じた年であるが、同じこの年に、三人の偉大な社会科学者が国を異にして生れたことは、運命の奇縁ともいえる。すなわち、ロンドンで経済学者ケインズが、オーストリアで経済学者シュムペーターが、そして、日本の佐賀県小城郡三日月村で、二一月二七日に、祖国の社会学を世界のレヴェルに引上げる指導的役割を果した高田保馬が、呱々の声をあげたのである。先祖以来神職と農業にたずさわっている生家で幼年時代を過した高田は、三日月村の小学校から佐賀中学を経て第五高等学校に入学し、明治四〇年に京都大学文学部社会学科へ入学したが、大学時代から卒業後の大学院の時期を通じて、当時世界の社会学の第一線級の諸学説の卓越した理解者として知られていた米田庄太郎(1873~1945)に師事し、ギディングズ(F.H.Giddings,1855~1931)、タルド(G.tarde,1843~1904)、ウォード(L.Ward,1841~1904)、グロッパリ(A.Groppali,1874~1959)、ジンメル(G.Sinmmel,1858~1918)、デュルケーム(E.Durkheim,1858~1917)、テンニエス(F.Tönnies,1855~1936)、パレート(V.Pareto,1848~1923)などを中心とする諸学説を吸収するとともに、マルキシズムの諸文献を検討し、また、経済学、統計学、人口論などにもおよぶ広範囲の知識を深めていった。大学院の卒業論文は、「分業論」(大正二年、有斐閣、改訂版、大正一五年、刀江書院)であったが、大学院時代は、階級の問題をマルクス的立場とは異なる社会学的立場から研究することに主力を注いだ。(「階級考」大正一一年、聚英閣)大学院時代からその後数年間に、研究成果は、グロッパリの「社会学綱要」の訳書(大正二年、有斐閣)、「大数法論」(大正四年、有斐閣)、「社会学的研究」(大正七年、宝文館)の諸著書となって刊行され、大正八年に、世界の学界に誇りうる大著「社会学原理」が岩波書店から世に出るに至った。

 グロッパリのところは、「グロッパリ(Groppali,1874~  )」となっていたが、補充しておいた。なお、「分業論」(大正二年、有斐閣、改訂版、大正一五年、刀江書院)とあるところは、厳密には、「分業論」(大正二年、京都法学会、改訂版、大正一五年、刀江書院)とすべきであり、「大数法論」(大正四年、有斐閣)とあるところは、「大数法論」(大正四年、京都法学会)とすべきであろう。さらに、『社会学綱要』の発行所の「有斐閣」、『社会学的研究』の発行所の「宝文館」も、それぞれ厳密には、「有斐閣書房」、「東京宝文閣」とすべきであろう。

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