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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

鵜崎巨石氏による書評『隠語の民俗学』

2014-08-23 16:46:47 | コラムと名言

◎鵜崎巨石氏による書評『隠語の民俗学』

 物書きというものは、自分の書いたどんな本でも、どんな文章でも、愛着があるものである。たまたま、インターネット上で、鵜崎巨石氏による、拙著『隠語の民俗学』(河出書房新社、二〇一一)の書評を拝読した。この『隠語の民俗学』は、苦労して一冊にまとめあげただけに、とりわけ愛着のある一冊だが、これまで、ニ三の短いコメントを除いては、これといった書評に接したことがない。
 ところが、この鵜崎氏の書評は、本格的な書評であるばかりでなく、こちらが用意していた「ツボ」とでも言うべきものを、ことごとく指摘されている。その点で、非常に感激したし、また畏怖すべき読み手だとも感じた。
 鵜崎氏のご了解を得て、以下に、その書評を転載させていただくことにする。

 隠語の民俗学・差別とアイデンティティ(「鵜崎巨石のブログ」2014-07-24)
 
 今日の読書は「隠語の民俗学 差別とアイデンティティ」礫川全次著 河出書房新社。
 最近このブログでも紹介したが、この研究者の著「サンカと説教強盗」が面白かったことから、図書館で検索して、この著書を手に入れた。
 前作同様、我々普通の人間の知らない世界の話を、非常にわかりやすい表現で語ってくれる、貴重な学者だ。
 本書のテーマは表題にあるとおり「隠語」。本書では、最初に隠れキリシタンの隠語やまたぎ(東北地方の猟師)、警察及び犯罪者の隠語などに当たった後、「隠語の諸相」として、山窩ことばや(サンジョ)芸能民、朝鮮の白丁(食育処理などに当たる被差別民)の特異な言語とその風習など多彩な話題に及ぶ。
 隠語の定義については、著者も大いに悩んでおり、まだ「隠語学」研究というものが進んでいないため、本書の中で、大方の関心ある諸人の参入を期待しているほどである。
 終章に著者なりの「隠語」の定義として、次を掲げている。

《1.所属集団の秘密を保持する機能。外部に知られてはまずい事柄を、集団の安全、防衛のため、隠語化して秘密を保持する。
2.所属する集団の成員間の仲間意識、連帯意識を強化する機能。隠語の使用によって「われわれ意識」あるいは帰属意識も強化する。
3.所属する集団と他の集団とを区別する機能。隠語の使用によって、自らを他と区別し、自分が何者であるかという集団のアイデンティティーを確認する。
4.他の集団に対して、所属集団を誇示する機能。但しこれとは逆に、隠語の存在そのものを秘匿する場合がある。》

 本書では、隠語と「符牒」の関係について論究していない。われわれが古書店などに行くと、カタカナで金額らしきものが付けられていることに気づく。これは符牒であろう。これは1.に類するものともいえるし、多くの伝統的商売ではこういう符牒がある。
 わたしの生家も商人であったから、値段を「分厘貫斤両間丈尺寸○」という。「間○」なら600円か6000円である。60円かもしれない。要するに有効数字二桁程度で済ます。この符牒は、他の似たような業種でも使われたようであることを、後年ある研究から知った。父は客の前でこの符牒を使うことはなかったから、1.に属すると考えても良い。
 寿司屋などの符牒は、2.などに類するだろう。大声で話されるから、半可通を気取るお客は、「おあいそね!」などと言って恥をさらす。もっとも職人などいないところでは、店も気にもしないで応対する。
 こうした符牒も隠語の一種であるが、本書で取り上げないのは、いずれも「正業」の用語であるからだろう。また、符牒と隠語の関係についても、生業的小売商が衰退し、大規模小売業に蹂躙されている今、こうした符牒そのものが機能しなくなっているのも事実であり、「研究」の意味が無くなっている。
 冒頭、東北のまたぎが、アイヌ語を職域での「隠語」として用いた事を挙げる。これは、またぎがアイヌ起源であると言うよりも、アイヌ語という異言を用いる事で、山の幸に猟師側の意図を隠すという意識があることだとする。里言葉を使うと獣に、狩りの意図を知られる恐れがある。
 わたしにとっては、アイヌ語がなお近年まで東北地方に影響を持っていた、と言うことが驚きである。この意味で、東北の地名にアイヌ語が残ることになおさら合点がいく。
 本書は次いで犯罪用語と警察との関係に及ぶ。初期の警察が犯罪者との関係を断ち切れなかったのは「サンカと説教強盗」でも述べられていたが、本書でも、被差別民研究で、犯罪捜査や刑の執行に携わったある種のグループが「2.」の意識を一種の矜持として維持していたことが語られているのも興味深い。
 以下わたしの断片的な感想とはなるが....
 隠語の変形として、犯罪者同士のジェスチャーによる意思疎通が面白い。

《互いに右手を以て自己の耳朶をつかむ・・ご機嫌よう
自己の着用せる羽織の紐を解きて再び結ぶ・・仕事の手伝いをしようか
微笑をたたえ右拳を以て自己の鼻を擦り上げる・・どんなもんだ、おれの技を見たか》

 最後のやつは、小津安二郎の「おはよう」でおならを遊びとしてならして得意がる子供のジェスチャーであった。直接関係はないだろうが。
 犯罪用語で刑事をヤバという。危ないことを「ヤワイ」という。いまや皇太子殿下もお使いになるような言葉である。
 良い品をハクいという。中学の頃、登校時に「ハクいスケを見た」といったヤツがいた。
 山椒大夫のサンショが本書で語られる。サンショには山窩言葉で「のこぎり」という意味がある。
 山椒大夫の最後で、凄惨な復讐場面がある。のこぎり引きである。これは山椒大夫の由来になるとの説を紹介する。
 しかし(つまり「本所」ならざる周辺)民が聖化された業に携わる中で、その仲間言葉でサンショ言葉というものが生ずる。
 のちに民が属地的生業(農業そして検地)の枠組みから外れ、そのアイデンティティーを示す語(つまり上記の2.)が隠語化する過程は確かに想像できる。
 なお、著者はわたしと同世代だが、わたしが子供の時に遊んだ言葉遊びを著者も経験したという。
 それはハサミ言葉といい、江戸時代の遊里の「からこと」(洒落本に多く登場する ある音節の母音の後に、それと同じ母音を有する特定のカ行音を加える)である。
 「セケントコノヲコトコカオコヒキノカカネケヲコトリキニキツタ」(千度の男が帯の金を取りに来た)。われわれは著者同様に「ラ行」をはさんだ。
 今後ともこの人の著作に注目したい。

*転載を快諾していただいた鵜崎巨石氏に、厚く感謝申し上げます。

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