◎内藤頼博と『原住民司法論集』
司法資料第二九〇号『原住民司法論集』(一九四五年一二月)について、もう少し、補足する。
昨日のコラムで、同書の「序文」の最後の部分を紹介した。読者の中には、「内藤頼博氏」という名前が出てきたことに、注目された方もあったかもしれない。
内藤頼博〈ナイトウ・ヨリヒロ〉は、のちに名古屋高裁の長官となり、さらには学習院院長なども勤めた人物である。その内藤であるが、同書の「序文」が書かれた一九四四年二月の時点において、司法省秘書課に関わりを持つ判事であり、同書収録論文の翻訳を担当していたことがわかる。
ウィキペディアは、内藤頼博を次のように紹介している。
内藤 頼博(ないとう よりひろ、1908年3月12日―2000年12月5日)は東京府出身の裁判官、弁護士、教育家。元子爵。正三位勲一等瑞宝章。
経歴/旧信州高遠〈タカトウ〉藩主内藤子爵家の第14代当主として東京府豊玉郡内藤新宿町に生まれる。内藤頼直の孫、内藤頼輔の子。1931年、東京帝国大学法学部卒業。東京家庭裁判所長、広島高等裁判所長官、名古屋高等裁判所長官を歴任。1973年に退官し、弁護士となる。/弁護士業の傍ら、1979年から1987年まで多摩美術大学学長、1975年から1991年まで多摩美術大学理事長、1987年から1993年まで第22代学習院院長を務めた。老衰で死去。/息子の内藤頼誼は元朝日新聞社アメリカ総局長。
今日の「新宿御苑」が、かつて内藤家の敷地であったことは、よく知られていることである。
それは措くとしても、この項目は、内藤が、終戦後における司法制度改革に尽力したことなどに触れておらず、きわめて不完全なものである。
ところで、入手した『原住民司法論集』の表紙右上には、鉛筆書きで、「内藤課長」とある。おそらくこの一冊は、内藤頼輔の旧蔵本だったのではないだろうか。【この話、続く】