◎米田庄太郎と高田保馬
高田保馬は、大学時代、大学院時代を通して、社会学者の米田庄太郎(一九七三~一九四五)に師事した(昨日のコラム参照)。
後年、高田保馬は、この当時のことを、次のように回想している。これは、『社会歌雑記』(甲文社、一九四七)の巻末に収められている「思想回顧の一節」という一文からの引用である。
当時京都帝国大学の社会学教室は日本の社会学研究に於てはもとより、社会思想の研究に於ても水先であり先駆であつた。長く欧米にあつて社会思想の空気を呼吸し、帰来また毎日朝五時から夜十二時まで勉強を推し通すといふ米田〔庄太郎〕博士の講義は大正の初年すでに唯物史観を一〈ヒトツ〉の主題としてゐた。而も〈シカモ〉これに関する当時までの文献にして参照せられざるものなしといふ状況であつた。日本に於けるマルクス及び社会主義の研究の歴史の為に、これは主要なる一の史実である。私は学問的滋味を殆ど独占的に吸収することを許された。翌年即ち明治四十五年の暮、「資本家的集積説の研究」を書くまでに、カウツキイ、オッペンハイマア、べルンシタイン、ツガン・バラノウスキ、プレハノフなどを読んでゐたが、これらを理解しうべき基礎はすでに米田博士によつて与へられたるものである。
当時に於ける私の考では不平等、ことに経済上の不平等が社会の積弊の根原である。衣食住などの生活内容の高さよりも、差等が根本の問題である。此主張は意識的に講壇社会主義に反対してゐた。此立場は社会政策が生産力を高むるといふ理由からそれの実現を目指すと共に、それの合法的進展によつて社会主義社会に進まうとしたのである。けれども私見によれば、生産力の増加、生活内容の上昇といふことは第二義的のことに過ぎぬ、貧苦の困難は、少くも今日の文明に達して以来、主として不平等から来る。社会主義への進行は此意味に於て意義がある。かういふ立場を貫かうとしたのである。而して社会思想乃至社会主義思想の中に於て、此東洋的色彩をもつ主張は必ず特異の地位を占むるものと信ずる。宗教的共産主義に於てならばとにかく(其一例、日蓮宗の不施不受派)、近代社会科学思想を呑吐〈ドント〉して而も此立場を守ることは、飽まで〈アクマデ〉個性に固執しようとする高田自身のことである。これは米田博士の訓戒の精神に副ふ所以であると思つてゐる。左右田喜一郎〈ソウダ・キイチロウ〉博士の、学問は芸術であるといふ信条亦、此精神以外のものではないと思つてゐる。
この文章は、高田が米田博士から受けた学恩について回想すると同時に、社会問題に対する高田の基本的な考え方を、かなり明確な形で示すものになっている。