礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

いつから「幕末」は始まったのか(三田村鳶魚)

2014-08-08 04:03:05 | コラムと名言

◎いつから「幕末」は始まったのか(三田村鳶魚)

 早稲田大学講演部編『明治維新の全貌』(早稲田大学出版部、一九三五)には、三田村鳶魚〈ミタムラ・エンギョ〉による「幕府の瓦解と男女の道」という文章(講演記録)も収められている。三田村は、この文章の後半で、「幕末」というのは、いつから始まったのかと自問し、これに自答している。本日は、その部分を紹介してみよう。

 幕末と云ふことはどうも決つて居ない。それならば是は何時から何に依つて決めるか。何時からと云ふよりも何に依つて幕末と云ふことを決めて宜いかと云ふことは可なりな問題であると思ふ。私共が老人達から聞いて居りますのに依りますと、それを文久三年〔一八六三〕六月十二日に馬関〔下関〕で外国船を長州の人々が攻撃しました。その為に幕府から使を出して、幕命を待たずして戦端を開いたのはどう云ふことであるかと詰問したのに対して、来る五月十日は御攘夷期限であるから、攘夷の先駆をなしたけのものであつて、別に幕府の命を受くべきものでないと言つて、幕府の達書〈タッシガキ〉を返却した。是からが幕末になるのだと言つて居る者が古老の中にはあるのであります。それから同年の七月になりますと、長州は幕府からやつた使番の中根一之丞〈ナカネ・イチノジョウ〉を斬つて、幕府糞喰へ〈クソクラエ〉と云ふ態度を執つた。更に進んで同年七月十八日に是はどなたも御承知の禁門の変で、長州が禁門に向つて発砲を致したと云ふ大事件。是は色々歴史にも書いてある大事件で、有名なことです。皆さんも御承知でせう。あの時に一般に久坂玄瑞〈クサカ・ゲンズイ〉と覚えられて居る久坂義助等が戦死して居る。之に付て私共古老に聞いて居りますことは、如何なる理由があるにせよ禁門に向つて発砲したのは何とも恐入るから、生きて国へ帰ることは出来ないと云つて、殊更に戦死を択んだものであると言つて居ります。それから後に幕府が征長の軍を仕向けた時に、長州は三家老の益田右馬介、福原越後、国司信濃の三人に腹を切らした。其首を幕府に渡した。是が禁門事件の責任者である。幕府に降服の意を表すると云ふことで之を渡した。斯う云ふことになつて居る。是が事実はさうでなかつた。長州では幕府に謝る意思は全燃なかつた。幕府を引繰〈ヒックリ〉返してしまはうと云ふ積りで居るから便宜の言訳はしても降服する意思は更にない。それなら何故是だけの重い役目の人達を殺したかと申しますと、是も矢張り〈ヤハリ〉自分が部隊を率ゐて居て、而も禁門に向つて発砲したことは怪しからぬと云ふことで切腹さした。さう云ふことを私は古老から聞いた。如何にも其通りだらうと思ふ。偖て〈サテ〉幕府に叛き〈ソムキ〉、のみならす朝廷に対し奉つて斯様〈カヨウ〉なる未曾有なる大失態を致した、之に掲して当時の諸大名が長州は気の毒である。今外国との交渉もあるのに幕府が之に兵を加へると云ふのは宜しくないからと云つて、長州に同情して居る。是が幕末維新史には色々書いてありますが、私は是程までに諸大名と云ふものが物が分らなくなつたのかと思ふ。実に我国としては傷ましい〈イタマシイ〉ことであり、それと同時に古老が、長州が幕府の達書を叩き返したと云ふ文久三年六月十二日から初めて幕末に入つたと云ふことを私は疑ひませぬ。

 三田村は、長州藩が、幕府の達書〈タッシガキ〉を返却した文久三年六月一二日という日を強調する。すなわち、この日をもって、幕府を頂点とする秩序は崩壊したと見たのであろう。なお、上の文章ではわかりにくいが、長州藩が、下関でアメリカ船を砲撃したのは、攘夷期限とされてきた同年五月一〇日のことであった。

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