礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

備仲臣道氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

2014-08-21 04:35:16 | コラムと名言

◎備仲臣道氏評『日本人はいつから働きすぎになったのか』

 数日前、『日本人はいつから働きすぎになったのか』(平凡社新書)を上梓し、日ごろお世話になっている方々に進呈した。
 すると昨日、ジャーナリスト・作家の備仲臣道〈ビンナカ・シゲミチ〉さんから、さっそく書評をいただいた。最初にいただく書評であり、かつ、目利きの読書家として知られる備仲さんの書評でもあるからして、緊張して読ませていただいたが、最初のほうに「すらすらと読める」とあって、まず一安心した。「十四の仮説」について紹介しながら、その中味には触れず、さりげなく「伏線」の存在を示唆するといった紹介の仕方は、同じ「物書き」でなければできないと思って感心し、かつ感謝した。
 備仲さんは、これをフェイスブックに載せられるそうだが、ご了解をいただいたので、このブログでも紹介させていただく。
 
 礫川全次『日本人はいつから働きすぎになったのか』を読んで 備仲臣道

 礫川全次さんの著書『日本人はいつから働きすぎになったのか』を一気に読んだ。一気とは言ってもはじめの日に三章を、つぎの日に残りの七章を読んだのであるが、つまり、私のようなものにもすらすらと読める、判りやすい文章で書かれた本であると、ここでは言いたいのである。
 さて、過酷なノルマや理不尽なパワーハラスメントが横行し、企業というものがブラック化しており、それは独立行政法人の下での大学もまた例外ではないとまで言われるほどである。過労死や過労による自殺も珍しい話題ではなくなった今日の日本であるが、この書物は「自発的隷従」の根源を、歴史的に探ろうというものである。
 江戸の昔から明治大正昭和、そうして今日まで、懇切に例を挙げて述べられていて、勤勉と言えば日本人なら誰でも思い浮かべるだろう、二宮金次郎の「神話」の検証と、実際の「二宮流」の、そうだろうなと思わせる姿の比較。また、マックス・ウエーバーと日本仏教の浄土真宗との対比などは、非常に興味深く読むことができる。
 著者はこの書物にある仕掛けを施していて、それは、十四の仮説なのであるが、それを見ることによって、本書の表題が問いかけているものへの答えを得ることができる。だから、それをここに羅列するようなことはしないけれど、どうか、本書を丁寧に読むことによって、答えを手にしていただきたい。
 ところで、著者はもう一つ仕掛けをして、伏線を引いておいた。それは、江戸期の農民が、休日をふやしていったということについてである。彼らは勤勉によって得た余剰を祭礼や、芸能などに回して、心にゆとりをもたらしていたのである。著者がこの伏線を引いたことによってこそ、最終の一行が立派に生きてくると言っていい。
 現代の労働がその楽しさを失ってしまったとしたら随分不幸な事じゃないか──というのは、著者が『農民哀史から六十年』という渋谷定輔の本から引用した言葉であるが、私たちはそうなってから、労働を楽しいものと思わなくなってから、すでに久しい現実の中にいる。
《戦後の「日本的経営」というのは、労働者の「自発性」を調達すると同時に、労働者の「自発性」に依拠するような経営手法だったということができるだろう。その経営手法の中に、労働者の「自己責任」を問う一面もあったわけだが、このことは、やがて、過労死・過労自殺の問題の重要な要因として浮上してくる。》
 著者が右のように記していることは、誠にそのとおりであって、「新自由主義」のもたらしたものであると思うけれど、新自由主義云々については、著者の見解ではなくて、私の考えであるということをお断りしておく。
 こういうところに、私たちは明るい未来を見出すことはできない。だがしかし、著者が終章の中で、日本人の勤勉性に怠惰を以って対置していることに、少なくとも私は明るいものを見出すのである。この本は「怠ける勇気を持とう。怠けの哲学を持とう」という言葉で結ばれていて、ここにこそ礫川全次の真骨頂があると言っていいのであろうと思う。
(平凡社新書 八百二十円)

*転載を快諾していただいた備仲臣道さんに、厚く感謝申し上げます。
*なお、明日は、都合により、ブログをお休みいたします。

コメント (1)
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