◎農村を救う道は都会の討伐である(高田保馬)
昨日の続きである。高田保馬の『社会雑記』(日本評論社、一九二九)から、「都会討伐」という文章(初出は、一九二六)を紹介している。本日は、その三回目(最後)。
農村を救ふ道は何か、それは都会の討伐である。
討伐といふのはなるだけ農村から、金が都会へ流れ入らぬ工夫をすることである。農村から支払をさへしなければ、都会のみが繁昌してゆく道理はない。この討伐の道筋はいくらもあらう。私の今最も近道だと思ふことが二つある。
農村が大都会の品物を買ふからこそ絞られる。なるだけ大都会のものを買はぬやうにさへすれば、金が出てゆく気づかひはない。国家として国産奨励といふことが必要であるといふ、私はそれよりもまたはそれと同時に、県産乃至地方産奨励が必要であるといひたい。地方の人たちは地方の品物を買ふことにすればよい。地方の生産が発達しないのは買はないからである、買へば地方でそれぞれいいものが出来る、いゝものが出来なかつたら買はないまでの話である。農民は何を買はなくても大体生命のつなげぬはずはない。この徹底的なる非買の決心があれば、そんなに農村の細る道理はない。第二の近道は自作農と小作農、ことにそれらの青年の政治教育である。今まで農村は有権者の大半を有しながら、政治上の実際勢力としては遥に商工業者ことに資本家の下位にゐた。それは彼等が自ら何をなし得るかを知らなかつたからである。彼等が政治的に何をなし得るかを知り、数の勢力を自覚する時、決して今日のまゝ農村を都会の足にふみにじらしては置かないであらう。
(一九二六、七、二七午後)(大正十五年八月二十五日大阪朝日新聞所載)
高田保馬は、若い頃から社会問題の解決ということを考えていたという。そうしたことが動機となって、社会学・経済学を志したが、河上肇と違って、マルクス主義を支持することはなかった。
高田は、西欧の社会学・経済学を吸収する一方で、独自の学問体系を打ち立てようとしたが、生前においては、その独自性は評価されなかった。その独自性は、むしろ今日において、評価されようとしている。
高田は、①若い頃から社会問題の解決ということを考えていた。②西欧の社会学・経済学を貪欲に吸収した。③独自の学問体系を打ち出そうとしていた。これらは間違いないのだが、それら三者の関連性が把握しにくい。それは、ひとつには、高田本人による説明が、十分でないことからくる。また、高田の学問体系が難解だからということもあるだろう。最大の不幸は、高田の学問を引き継ぐと同時に、それを解説しうるような後継者がいなかったということだろうか。
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