礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

今夜、ここで重臣会議を開催しよう(岡田啓介)

2019-09-25 03:12:21 | コラムと名言

◎今夜、ここで重臣会議を開催しよう(岡田啓介)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一七日午後四時の日記を紹介する。やや長いので、二回に分けて紹介する。

同日午後四時
  内大臣官邸にて木戸内府と会見

 まず予は、内閣改造の経過を尋ねたり。

 内府いわく
 今日(十七日)、親任式があるはずだ(海相更迭)。然し嶋田〔繁太郎〕以外は、まだ二、三日かかる模様で、参謀総長梅津〔美治郎〕、陸相は東條〔英機〕兼任、米内〔光政〕、阿部(信行)両大将を閣僚に引入れるという案が骨子のようだ。政府は、極力米内引入れに努力している。米内が受けて仕舞えば、とにかく、一応改造は完成する。その後で重臣が上奏することは、陛下を非常に窮地に陥れ奉【たてまつ】ることになる。だから、米内が受けないうちに重臣会議の話を私に伝えてもらいたい。米内が受けたら万事休すだ。是非とも、その前に、重臣の意見をまとめては如何。内大臣として、重臣の上奏を取り次ぐ訳には行かないが、重臣が集まって、斯々【かくかく】の意見が闘わされたということは一個の政治事実だから、これを有りのままに上奏して叡聞【えいぶん】に達することはいつこう差支ない。とにかく、急いでやってもらいたい。
 という希望なり。かく内府の真意を確めたる以上は、もはや長座の必要なし。岡田〔啓介〕大将は平沼〔騏一郎〕邸において待ちおる手はずなれば直ちに辞して平沼邸へ急ぐ。恰【あたか】もよし、若概礼次郎男爵も岡田大将の招電にて上京し、同邸に居合せたれば、予は主人男爵及び両氏に木戸内府の真意を伝達したり。ここにおいて、岡田大将は、
 これで、内府の意向ははつきり分った。今夜、時を移さず、ここ(平沼邸)で米内、阿部、広田〔弘毅〕三氏を呼び(註、原〔嘉道〕枢密院議長は官職ある人なるの故をもって呼ばず)重臣会議を開催しよう。
と提議す。【以下、次回】

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内大臣と重臣と会合することは困難なり(木戸幸一)

2019-09-24 02:45:54 | コラムと名言

◎内大臣と重臣と会合することは困難なり(木戸幸一)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一七日午前九時三〇分の日記を紹介する。

一七日午前九時三十分
  岡田〔啓介〕大将来訪

 大将は松平〔康昌〕秘書官長を通じ内大臣〔木戸幸一〕と連絡したるところ、木戸内府の意向として、
  一、内大臣と重臣と会合することは困難なり。
  二、重臣の上奏を内大臣が取次ぐことも困難なり。
  三、重臣が直接拝謁【はいえつ】、上奏せんと欲せば喜んで、これが斡旋【あつせん】に任ずべし。
 と言い来たれりとて、
  此の間の話とは違うので、内大臣の真意が判らない。仮りに重臣が上奏しても、改造が出来て仕舞っては、事後の上奏だから御採納になる訳には行くまい。そこで、我々の上奏が済むまで、内大臣の工作で改造を遷延させることが出来ないものか。それ等の点について、ふたたび松平(秘書官長)を通じ内大臣の意向を探って見たいと思う。
 という。
 然し、かくては松平、木戸、木戸、松平、岡田というが如く、転々又転々して、いたずらに時を移し、益々時機を失するおそれあるをもって、予〔近衛文麿〕が「直接内府の真意を確むべし」と提議せしに、大将は「是非そうお願いす」という。 此〈ココ〉において直ちに木戸内府に交渉し、同日午後四時面会を約す。
 なお、岡田大将の話によれば、
 既に海軍の切崩し始まりおる由〈ヨシ〉なり。即ち、野村大将が新海相に内定するや直ちに岡〔敬純〕軍務局長の発案にて、
  一、末次〔信正〕大将を現役に復する事。
  二、米内〔光政〕大将を海軍以外の閣僚に迎うる事。
 の二条件を政府に提出し、岡局長は政府に対して、これを鵜呑【うの】みとすべしと章要する慫慂【しようよう】したりと。此の案は海軍側の要望にそう形を具【そな】わることだけは間違いなし。

注1 野村直邦海軍大将。昭和十五年〔一九四〇〕、駐独主席軍事委員としてドイツに駐在、十八年〔一九四三〕帰国、大将、呉鎮守府司令長官。十九年〔一九四四〕七月十七日、東條内閣の海相更迭で嶋田〔繁太郎〕大将の後任となるが二十二日、同内閣総辞職で米内大将と代わる。在任期間わずか五日。その後、軍事参議官。鹿児島県出身。
注2 岡敬純〈タカズミ〉 海軍中将、海軍省軍務局長。昭和十五年、軍務局長となり、太平洋戦争中期まで在任、十九年、鎮海警備府司令長官に転じ、後海軍次官。

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全く今度は東條に肩透かしをくった(岡田啓介)

2019-09-23 03:02:27 | コラムと名言

◎全く今度は東條に肩透かしをくった(岡田啓介)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一六日の日記を紹介する。

十六日午後二時
  岡田啓介大将来訪

 大将いわく
 全く今度は東條に肩透【す】かしをくった。然し、此のままではいかぬから重臣が会合して、そこへ内大臣〔木戸幸一〕にも来てもらって、政局問題につき話し合ったらどうかと思って平沼〔騏一郎〕に意中を話したところ、男〔平沼〕もそういう希望だ、という。
 予〔近衛文麿〕も直ちに、此の提議に賛成し、大将に内大臣との連絡を依頼す。なお、伏見宮〔博恭王〕殿下の陸海総統帥案は如何と問いしに大将は、
  此の事はチラと耳にしたが、陸軍の策謀と思う。伏見宮殿下と嶋田〔繁太郎〕との、従来の関係を利用して、海軍を抑えようとするものだ。海軍としては困る。
 という話。

 この日の記事は、東條英機内閣に対する倒閣運動のリーダーが岡田啓介海軍大将(元首相)であったことをよく示している。また、伏見宮博恭王陸海総統帥案が、岡田が捉えた通り、「陸軍の策謀」であったとすれば、倒閣運動に対する陸軍の抵抗も、そうとう手が込んでいたということである。

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陛下は、此の頃、神経衰弱の御気味で……(賀陽宮恒憲王)

2019-09-22 02:28:05 | コラムと名言

◎陛下は、此の頃、神経衰弱の御気味で……(賀陽宮恒憲王)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一五日の日記を紹介する。

十五日夜
  中川良長〈タカナガ〉男来訪

 中川男は賀陽宮〔恒憲王〕殿下のお使として来れるなり。以下、賀陽宮殿下の御言葉。
 来る十七日、朝香、東久邇両宮殿下、軍事参議官の資格で統帥部の教化に就て上奏せられることになっている。その主たる内容は、伏見元帥宮〔伏見宮恭博〕殿下を陸海両軍の統帥となさせられんことを願うというにある。
(註、前記三殿下上奏の事が、かく発展したるものとみゆ)
 陛下は、此の頃、神経衰弱の御気味で、往々、非常に昂奮遊ばされる。高松宮殿下が何か御熱心に上奏されると「無責任の皇族の話は聴かぬ」と仰せられたりする。自分もこういうことでは、陛下を御輔翼し奉る訳に行かないから皇族を拝辞しようと思ったが、東久邇宮殿下に慰留された云々。

注1 賀陽宮 邦憲〈クニノリ〉王第一男子恒憲〈ツネノリ〉王。陸軍中将。東京師団長。東條内閣退陣直前、任期わずかに三カ月で陸軍航空総監部付に転出、終戦当時は陸軍大学校長。戦後二十二年〔一九四七〕二月皇籍を離脱、賀陽家を創立。
注2 軍事参議官 重要な軍務について天皇の諮問に応じる軍事参議院のメンバー。同院は 元帥、陸相、海相、参謀、軍令部両総長と特に親補〈シンポ〉された将官で構成していた。東久邇稔彦王、朝香宮鳩彦王は終戦時まで軍事参議官をつとめた。

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今の統帥は、此のままでいかぬ(昭和天皇)

2019-09-21 02:54:48 | コラムと名言

◎今の統帥は、此のままでいかぬ(昭和天皇)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一四日午後一時の日記を紹介する。

同日午後一時
  千駄谷・徳川〔家正〕公爵邸において松平秘書官長と会見

 秘書官長いわく
 東條が十二日午後一時参内した時、内大臣〔木戸幸一〕が内閣〔改造〕に反対したら、東條は沈痛なる面持で帰ったことは話したが……。ところが、その日の午後四時に、今度は参謀総長の資格で拝謁【はいえつ】を願い出た。その時、内大臣はいなかったので、全く知らなかったが、昨朝(十三日)、お召があり、陛下から総長の上奏を伺い、陛下御自身が内府〔木戸幸一〕よりさらに一層強い御語調で、
  今の統帥は、此のままでいかぬから、これを確立せよ。なお、宮家からも(註、前記三殿下〔高松、東久邇、朝香〕を指させられしものと拝察す)その上奏があった。
 と仰せられたので、東條は恐懼【きようく】して退出し、その晩、直ちに嶋田〔繁太郎〕に辞職勧告をした。
 そして今朝(十四日)、さらに参内して
  統帥確立のお思召に対し、自分は参謀総長をやめ、嶋田もやめさせます(註、大臣、部長両方か判明せず)統帥の現状を変え、さらに内閣の陣容も変えまして一路邁進【まいしん】致す決心であります。
 旨、上奏した後、内大臣とも会見して、この事を報告した。東條に対して統帥云々と言っても、結局、それは全部不信任という意味であるのに、こういうふうに考えるとは呆【あき】れる外ない。私の観測では内大臣は困った立場になったと思う。内大臣はとにかく統帥と言ったのだから……。それも米内〔光政〕とか末次〔信正〕とかを持って来るならよいが、自分が好き勝手になる者だけ連れて来て、陸海統帥部を固めるということになると、内府は、此の点は、それもいけぬと言えない苦境に立つ訳である。もしそうなったら私は内大臣に辞職を進言する積りだ。嶋田は昨日(十三日)、伏見元帥宮〔伏見宮博恭王〕殿下に右の顛末【てんまつ】を言上し、東條は目下、統帥部と内閣との改造に狂奔中だ。
 なお、赤松〔貞雄〕(首相秘書官)が来て
  東條首相は絶対にやめられぬ。今日の陸軍の陣容は、三年がかりでようやく出来たものだ。首相がやめると、部内が大動揺を来し、その結果、敗戦となるかも知れぬ。そうなると敗戦の責任は重臣と内大臣とが負うベきものだ。
 と威【おど】し文句をならべていった云々。

注1 徳川公爵邸 東京都渋谷区千駄ケ谷一ノ三三〇にあった徳川家正氏の邸宅。同氏は貴族院議長、徳川家達〈イエサト〉氏の長男で駐カナダ公使、駐トルコ大使を歴任して貴族院議員だった。
注2 東條首相側近の佐藤賢了〈ケンリョウ〉中将(当時陸軍軍務局長)の「大東亜戦争回顧録」(徳間書店)によれば、この日〔七月一二日〕、木戸内府から三条件を提示された東條首相は「内奏せずに、そのまま官中から退出、私と富長〔恭次〕次官、秦〔彦三郎〕参謀次長を大臣官邸に招き、きわめて沈痛なおももちで」(中略)「この三条件は私に詰め腹を切らそうとするものだ。内府の態度もまるで変わっておる。重臣ら倒閣運動の一味の手が回っておるようだ。そればかりでなく、これはお上のご意図を体しての言葉だと思われる。ご信任は去った。もはや一日も内閣にとどまってはおれぬ」と辞意を表明した。
 そこで私(佐藤中将)は「大臣、いつもと違ってえらく、弱気になられましたなぁ。この悪化した戦局のさなかに、中流で馬をかえたらどうなります。軍の志気を挫き、民心をいよいよ動揺させ、敵の気勢を高め、敗戦の道を急ぐ以外のなにものでもありません。いったい倒閣者ども、月経のあがった耄碌〈モウロク〉重臣ども、翼政会のへなちょこどもが、東條内閣を倒して後をどうしようというのですか。総辞職など断じて考えてはなりません。戦争をはじめた大臣は内閣を枕に討ち死にする覚悟でなければいけません。木戸内府の言葉が果たして聖意を体してのものか否か、確かめられたのですか。例閣運動が木戸内府を動かしていることは事実のようですが、東條内閣のご信任が去ったか、どうか確かめもせずに、軽卒な真似はできませんぞ」と声を励まして強調したーーと書いている。さらに東條首相は「聖意を体したか否か、聞かなかったが内府個人の意見とは考えられぬ。拝謁して直接、ご信任のほどを伺うということも……」となお、ためらったが、佐藤中将らが「三条件は人心一新の好意的助言ともとれる。ご信任が去ったらこんな条件も示すまい。重臣の二、三人は入閣させてもよかろう」と述べ、「倒閣運動の背後の和平運動にどんな成算があるか、わからぬが、成算があれば堂々と政府に要求を建議すべきだ。われわれはいぜん戦争を継続、比島〔フィリピン〕か本土かで敵の反攻を叩いて最少限、名誉ある妥協和平を策すべきだ」と提言、富永次官らも同調首相を激励した。首相はこれに対して「参謀総長の兼任は自分も辞めようと考えていた。重臣の入閣は倒閣運動の背後に和平運動があるのだから、へたなものを入れて閣内をかきまわされては困るが、阿部〔信行〕大将や米内大将ならいい」と述べた、と記されている。

 この日の日記には、注目すべきことが書かれている。「注2」の内容を含めて考えると、東條は、一二日、木戸内府から内閣改造に反対され、一度は総辞職の意思を固めたが、その後、佐藤賢了らに説得され、続投=内閣改造をおこなうことに決したもようである。だとすれば、この日の午後四時、「今度は参謀総長の資格で拝謁を願い出た」というのも、佐藤賢了らからの献策によるものだろう。また、一三日朝に拝謁した際、昭和天皇から、「今の統帥は、此のままでいかぬから、これを確立せよ」と命じられたものの、「総辞職せよ」と命じられたわけでないらしいことも推察できる。

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