◎今の統帥は、此のままでいかぬ(昭和天皇)
この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一四日午後一時の日記を紹介する。
同日午後一時
千駄谷・徳川〔家正〕公爵邸において松平秘書官長と会見
秘書官長いわく
東條が十二日午後一時参内した時、内大臣〔木戸幸一〕が内閣〔改造〕に反対したら、東條は沈痛なる面持で帰ったことは話したが……。ところが、その日の午後四時に、今度は参謀総長の資格で拝謁【はいえつ】を願い出た。その時、内大臣はいなかったので、全く知らなかったが、昨朝(十三日)、お召があり、陛下から総長の上奏を伺い、陛下御自身が内府〔木戸幸一〕よりさらに一層強い御語調で、
今の統帥は、此のままでいかぬから、これを確立せよ。なお、宮家からも(註、前記三殿下〔高松、東久邇、朝香〕を指させられしものと拝察す)その上奏があった。
と仰せられたので、東條は恐懼【きようく】して退出し、その晩、直ちに嶋田〔繁太郎〕に辞職勧告をした。
そして今朝(十四日)、さらに参内して
統帥確立のお思召に対し、自分は参謀総長をやめ、嶋田もやめさせます(註、大臣、部長両方か判明せず)統帥の現状を変え、さらに内閣の陣容も変えまして一路邁進【まいしん】致す決心であります。
旨、上奏した後、内大臣とも会見して、この事を報告した。東條に対して統帥云々と言っても、結局、それは全部不信任という意味であるのに、こういうふうに考えるとは呆【あき】れる外ない。私の観測では内大臣は困った立場になったと思う。内大臣はとにかく統帥と言ったのだから……。それも米内〔光政〕とか末次〔信正〕とかを持って来るならよいが、自分が好き勝手になる者だけ連れて来て、陸海統帥部を固めるということになると、内府は、此の点は、それもいけぬと言えない苦境に立つ訳である。もしそうなったら私は内大臣に辞職を進言する積りだ。嶋田は昨日(十三日)、伏見元帥宮〔伏見宮博恭王〕殿下に右の顛末【てんまつ】を言上し、東條は目下、統帥部と内閣との改造に狂奔中だ。
なお、赤松〔貞雄〕(首相秘書官)が来て
東條首相は絶対にやめられぬ。今日の陸軍の陣容は、三年がかりでようやく出来たものだ。首相がやめると、部内が大動揺を来し、その結果、敗戦となるかも知れぬ。そうなると敗戦の責任は重臣と内大臣とが負うベきものだ。
と威【おど】し文句をならべていった云々。
注1 徳川公爵邸 東京都渋谷区千駄ケ谷一ノ三三〇にあった徳川家正氏の邸宅。同氏は貴族院議長、徳川家達〈イエサト〉氏の長男で駐カナダ公使、駐トルコ大使を歴任して貴族院議員だった。
注2 東條首相側近の佐藤賢了〈ケンリョウ〉中将(当時陸軍軍務局長)の「大東亜戦争回顧録」(徳間書店)によれば、この日〔七月一二日〕、木戸内府から三条件を提示された東條首相は「内奏せずに、そのまま官中から退出、私と富長〔恭次〕次官、秦〔彦三郎〕参謀次長を大臣官邸に招き、きわめて沈痛なおももちで」(中略)「この三条件は私に詰め腹を切らそうとするものだ。内府の態度もまるで変わっておる。重臣ら倒閣運動の一味の手が回っておるようだ。そればかりでなく、これはお上のご意図を体しての言葉だと思われる。ご信任は去った。もはや一日も内閣にとどまってはおれぬ」と辞意を表明した。
そこで私(佐藤中将)は「大臣、いつもと違ってえらく、弱気になられましたなぁ。この悪化した戦局のさなかに、中流で馬をかえたらどうなります。軍の志気を挫き、民心をいよいよ動揺させ、敵の気勢を高め、敗戦の道を急ぐ以外のなにものでもありません。いったい倒閣者ども、月経のあがった耄碌〈モウロク〉重臣ども、翼政会のへなちょこどもが、東條内閣を倒して後をどうしようというのですか。総辞職など断じて考えてはなりません。戦争をはじめた大臣は内閣を枕に討ち死にする覚悟でなければいけません。木戸内府の言葉が果たして聖意を体してのものか否か、確かめられたのですか。例閣運動が木戸内府を動かしていることは事実のようですが、東條内閣のご信任が去ったか、どうか確かめもせずに、軽卒な真似はできませんぞ」と声を励まして強調したーーと書いている。さらに東條首相は「聖意を体したか否か、聞かなかったが内府個人の意見とは考えられぬ。拝謁して直接、ご信任のほどを伺うということも……」となお、ためらったが、佐藤中将らが「三条件は人心一新の好意的助言ともとれる。ご信任が去ったらこんな条件も示すまい。重臣の二、三人は入閣させてもよかろう」と述べ、「倒閣運動の背後の和平運動にどんな成算があるか、わからぬが、成算があれば堂々と政府に要求を建議すべきだ。われわれはいぜん戦争を継続、比島〔フィリピン〕か本土かで敵の反攻を叩いて最少限、名誉ある妥協和平を策すべきだ」と提言、富永次官らも同調首相を激励した。首相はこれに対して「参謀総長の兼任は自分も辞めようと考えていた。重臣の入閣は倒閣運動の背後に和平運動があるのだから、へたなものを入れて閣内をかきまわされては困るが、阿部〔信行〕大将や米内大将ならいい」と述べた、と記されている。
この日の日記には、注目すべきことが書かれている。「注2」の内容を含めて考えると、東條は、一二日、木戸内府から内閣改造に反対され、一度は総辞職の意思を固めたが、その後、佐藤賢了らに説得され、続投=内閣改造をおこなうことに決したもようである。だとすれば、この日の午後四時、「今度は参謀総長の資格で拝謁を願い出た」というのも、佐藤賢了らからの献策によるものだろう。また、一三日朝に拝謁した際、昭和天皇から、「今の統帥は、此のままでいかぬから、これを確立せよ」と命じられたものの、「総辞職せよ」と命じられたわけでないらしいことも推察できる。