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礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

梅津の周囲には赤が沢山いる(平沼騏一郎)

2019-09-20 02:42:07 | コラムと名言

◎梅津の周囲には赤が沢山いる(平沼騏一郎)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一四日午前九時の日記を紹介する。

十四日午前九時
  目白別邸において平沼〔騏一郎〕男と会見.

 まず予は右の松平〔康昌〕秘書官長談を披露したり。かくて意見交換の結果、
   政局が何れに決定するや判然せざるも、此の際、重臣参集の必要あり。
 というに一致せり。よって平沼男より岡田啓介大将に、岡田大将より各重臣招集の手続をとらしむることに申合す。次で後継内閣の話出で、予が「木戸〔幸一〕は寺内〔寿一〕を考えおれり」と言いしに、男は、
   寺内は毒にも薬にもならぬが、ついている者がしっかりしていなければならぬ。今度の政変は急速に事を運ばなければ、いろいろ面倒が起るだろう。寺内だと現地から呼ぶ必要があるため、時がたつから策動のおそれがある。自分は鈴木貫太郎がよいと思う。又、寺内の場合でも誰の場合でも、陸軍は大臣、総長何れかへ梅津〔美治郎〕(註、大将、関東軍司令官)が来る可能性がある。梅津の周囲には赤が沢山いる。(註、たとえば、さきに企画院にありて、いわゆる革新政策の推進力となりし池田〔純久〕、秋永〔月三〕両少将の如きを指す)随【したが】って左翼的革新派が軍部の中心となるおそれがある。
という。此〈ココ〉において予は、
 敗戦恐るべし。然も、敗戦に伴う左翼的革命さらに怖【おそ】るべし。現段階は、まさに此の方向に向って歩一歩、接近しつつあるものの如し。革命を思う者は何れも、その実現に、もっとも有力なる実行者たるべき軍部を狙わざるなし。故に、陸軍首脳たる者は、最も識見卓抜にして 皇国精神に徹底せる者たるを要するは言を俟【ま】たず。軍部中のいわゆる皇道派こそ、此の資格を具備すというを得べし。此の事に就ては、予は、かつて木戸内府を通じ陛下に上奏せることあり。実に二・二六以後、断えず 予の念願を徂徠【そらい】してやむこと能わざる深憂なり。一意、外に対しては支那事変を拡大し、
(註、梅津、池田、秋永等の同郷の先輩にして大分閥の元老たる南〔次郎〕大将(現枢密院顧問官、前朝鮮総督)は、予の第一次内閣当時、朝鮮総督たる身分をもって、予に対し「支那事変を益々拡大すべし」と打電し来りし事実あり)
 さらに遂にこれを大東亜戦争にまで拡大して、長期にわたり政、戦両局のヘゲモニーを掌握せる立場を悪用し、内においては、しきりに左翼的革新を断行し、遂に今日の内外ともに逼迫【ひつぱく】せる皇国未曽有の一大難局を作為せし者は、実に、これ等彼の軍部中の、いわゆる統制派(註、小磯〔国昭〕大将、現朝鮮総督もこれに属す)にあらずして誰ぞや。予は此の事を憂慮する余り陛下に上奏せる外、木戸内府に対しても縷々【るる】説明せるも、二・二六以来、真崎〔甚三郎〕、荒木〔貞夫〕両大将等をその責任者として糾弾する念先入観となりて、事態の真相を把握し得ず。皇国精神に徹せるこれ等、皇道派を起用するに傾くこと能わざるは真に遺憾なり。寺内元帥なども、いわゆる皇道派を抹殺すれば粛軍万事終れりとなせるも何ぞ知らん。皇道派に代りて軍部の中心となれる、いわゆる統制派は戦争を起して国内を赤化せんとしつつあり。
と述べしに、平沼男も予の話に全然同感なりと嗟嘆【さたん】す。

注1 鈴木貫太郎 枢密院副議長、海軍大符、男爵。海軍省人事局長、軍務局長、連合艦隊司令長官など海軍要職を歴任、大正十二年〔一九二三〕、大将となり軍事参議官、軍令部長をつとめ昭和四年〔一九二九〕、予備役に編入されて侍従長。侍従長在任中の十一年〔一九三六〕、二・二六事件で陸軍将兵に襲われて重傷を負った。その後、枢密院副議長、議長、二十年〔一九四五〕四月、小磯内閣総辞職後、内閣主班、太平作戦争を終結させて辞職。二十三年〔一九五八〕、八十二歳で死去。千葉県出身。
注2 梅津美治郎 陸軍大将。参媒本部課長、総務部長などをつとめ支那駐屯軍司令官、昭和十一年〔一九三六〕三月、広田〔弘毅〕内閣発足から林〔銑十郎〕、第一次近衛内閣まで陸軍次官の職につき、十三年〔一九三八〕、第一軍司令官。十四年〔一九三九〕から関東軍司令官、駐満大使、十五年〔一九四〇〕、大将、十九年〔一九四四〕、東條大将のあとを継いで参謀総長。戦犯として終身禁固刑となり、二十四年〔一九四九〕、六十八歳で死去。大分県出身。
注3 企画院【略】
注4 池田純久 陸軍少将(のち中将)。梅津大将の下で関東軍参謀副長。陸大卒業後、外国留学の話をけり、「社会科学研究のため」東大に委託学生として三年留学、河合栄治郎教授のもとで経済学を学んだ。陸軍では異質の政策通。永田鉄山軍務局長と共に「統制派」の中心人物として有名。日中戦争のきっかけとなった蘆溝橋事件当時、支那駐屯軍作戦主任参謀だったが「戦争不拡大」を唱えて内地に送り返された。企画院創設後、秋永月三、迫水久常、和田博雄氏らと調査官をつとめ、二〇年〔一九四五〕敗戦当時は秋永氏の後任として、鈴木〔貫太郎〕内閣の総合計画局長官。戦後東京裁番の梅津被告弁護や歌舞伎座の復興、エチオピア政府日本人顧問団長などで話題となる。「陸軍葬儀委員長」などの著書がある。明治二十七年〔一八九四〕生まれ、大分県出身。「近衛日記」で〝赤〟"呼ばわりされていることについて、次のように語っている。
  「二・二六事件当時からの情勢では青年将校の暴力革命になる。そこで陸軍大臣を通じて国の革新をやろう、そのためには統制経済が必要だと考えた。ところが近衛公は経済がわからず、統制経済といえば社会主義、赤と誤解した。また近衛公と親しかった皇道派の軍人が梅津大将や私を中傷する情報ばかりを入れていた。支那事変当時、私は近衛公に会って、『陸軍は反対するだろうが、これは日本の生命〈イノチ〉取りになるからやめさせてくれ』と強く進言したこともあるが、公は『池田君、そんな重大な決心は僕には出来んよ』と考えこんでしまった。『重大なことだからこそ、あなたに頼むのだ』と私は言ったのだが……」
注5 秋永【略】
注6 南次郎【略】
注7 皇道派と統制派【略】
注8 小磯国昭【略】
注9 真崎甚三郎【略】
注10 荒木貞夫【略】

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東條は弱気になって時々、辞意を漏らす(赤松貞雄)

2019-09-19 01:20:51 | コラムと名言

◎東條は弱気になって時々、辞意を漏らす(赤松貞雄)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一二日午後八時の日記を紹介する。

同日午後八時
  代々木にて松平〔康昌〕秘書官長と会見

 秘書官長いわく
 今日午後一時に東條首相は参内し、内府〔木戸幸一〕と会見して内閣を改造してやって行くことの了解を求めた。これに対して内府は、
  此の際に及んで改造など無意味だ。誰しも不安に思うのは統帥の問題だ。
  陛下も此の点を極めて御不安にお思召されている。
 と言ったところ、首相は頭を垂れて、そのまま辞去したそうだ。そこで自分(秘書官長)の観測では、
 これは東條の統帥に関し、陛下の御信任如何を露骨に証明した訳であるから、東條は辞表を出すかも知れない。あるいは又、参謀総長の分だけ出して内閣の方は居据わるかも知れない。赤松〔貞雄〕(首相秘書官)の話では、最近、東條は弱気になって時々、辞意を漏らすが富永〔恭次〕次官以下、陸軍の首脳部及び側近者が絶対にやめてはいけない、と激励しているらしい。とにかく、弱気になっていることは事実のようだから、此の点から観て、急転直下、政変となるかも知れない。なお、東條は改造と共に詔勅を奏請する意向があるようだ。恐らくサイパン敗戦の発表に伴い、人心作興の御詔勅渙発【かんぱつ】を考えているのであろうが、然し、これは敗戦の責任を詔勅によつて糊塗【こと】せんとするもので内大臣〔木戸幸一〕はこれには絶対反対だ。もしかようの御詔勅を奏請するようなことがあれば職を賭して争うと言っているから、此の問題からも内閣の危機が到来している云々。

注 富永次官は陸軍次官、富永恭次中将。次官辞任後、比島方面陸軍航空隊司令官。

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内閣を改造して一路邁進する決心だ(東條英機)

2019-09-18 03:38:47 | コラムと名言

◎内閣を改造して一路邁進する決心だ(東條英機)

 この間、共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一二日午後五時三〇分の日記を紹介する。

十二日午後五時三十分
  藤山愛一郎氏(海軍顧問)来訪

 藤山氏いわく
 海軍は大臣に米内〔光政〕大将、軍令部長に末次〔信正〕大将ということに部内の意見が一致 している。又、次の内閣は寺内〔寿一〕元帥がよかろうと言っている。
 昨日(十一日)木戸内府に会ったが、内府は自分から発動する意思はないが、重臣が動いて内閣が更迭するようになることを待望している。
 内府は自ら重臣に集まってもらう訳にはいかないが、重臣が自分を呼ぶのなら何時でもその席に出ることを躊躇【ちゆうちよ】しない。重臣会議の開催を促進してもらいたい、と言っていた。なお、今朝、阿部〔信行〕大将を訪問したところ、ちょうど東條首相が来訪していたのでしばらく待って首相が帰ってから面会したが、阿部大将の話では、翼政会〔翼賛政治会〕がサイパン敗戦の責任を問うて「善処すべし」と決議した。その決議伝達に対する返事のために来訪したので、
  戦争は極めて重大だからやめる訳には行かない。又、やめないで引続きその職に尽すことが、臣節を竭【つく】す所以【ゆえん】と考えている。内閣を改造して一路邁進【まいしん】する決心だ。
 と言って行ったそうだ云々。

注1 藤山愛一郎 海軍省顧問。明治、大正、昭和三代にわたる財界巨頭、雷太氏長男。大平洋戦争当時、東京商工会議所会頭、大日本製糖などの社長。戦時中、海軍省顧問、続いて鈴木〔貫太郎〕内閣顧問。戦後、岸〔信介〕内閣の外相となり、政界にはいった。
 同氏の回想によると「当時、国力は限界に達し、東條内閣は財界の支持も失っていたので近衛公や岡田啓介、池田成彬氏らと相談、まず不仲だった海軍の二本柱、米内光政(純軍人肌で非枢軸派)と末次信正(政治家肌で枢軸派)両大将を芝・白金の自宅で握手させ、海軍を一本化、第二段階では閣内の岸信介国務相と提携、東條首相の内閣再建策(岸国務相の解任と藤原銀次郎氏の軍需大臣案)を行詰まらせ、東條打倒に一役買った」という。
 注2 阿部信行 元首相、陸軍大将。荒木貞夫、松井石根、本庄繁、真崎甚三郎各大将と同じ陸士九期生。軍務局長、陸軍次官などを歴任、浜口〔雄幸〕内閣で病気の宇垣〔一成〕陸相代理、昭和十四年〔一九三九〕、対欧政策に行き詰まった平沼〔騏一郎〕内閣のあとを受けて組閣、国民生活不安定で不信任決議を受け軍の支持もなく、四カ月半で総辞職した。十七年〔一九四二〕、貴族院議員、翼賛政治会総裁。小磯〔国昭〕大将の首相就任のあとを受け十九年〔一九四四〕朝鮮総督となり敗戦。戦犯に指定されたが、不起訴処分で釈放。長男信男氏の妻由喜子さんは木戸幸一内大臣の長女で、木戸内大臣とは親しかった。二十八年〔一九五三〕、七十七歳で死去。石川県出身。

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本日は「このブログの人気記事」のみ

2019-09-17 17:32:47 | コラムと名言

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東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずや

2019-09-15 00:33:47 | コラムと名言

◎東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずや

 共同通信社「近衛日記」編集委員会編『近衛日記』(共同通信社、一九六八年三月)の紹介をしている。本日は、一九四四年(昭和一九)七月一〇日の日記を紹介する。

十日午前十時
  細川護貞氏来訪
 高松宮殿下に拝謁【はいえつ】し来れりとて「殿下は矢張りどうしても早く和平をやるがよい。どう考えても早い方がよい」というお考えなりと報告。

同日細川氏の来訪前
  舎弟水谷川【みやがわ】忠麿男来訪

 公正会の明石〔元長〕男爵より聞きたりとて、石原莞爾中将と会ったら中将は、
 本土は防衛の第一線だ。ここが守り切れなくなったら陛下を京城へ奉遷し、京城がだめになったらさらに満洲へお出を願うのだ。
と言っていたという話。
 此の話は東條首相の参謀総長としての部内に対する命令と符節を合するものあり。サイパンを死守せず本土において防衛せんと欲する陸軍の肚【はら】を如実に物語るものにあらずして何ぞ。海軍は、サイパンを失陥すれば本土の防衛不可能なりと叫ぶ。常識にて考うるも海外の交通を遮断せられ、本土を防衛するの不可能事に属するは明瞭なり。もちろん、陸軍といえども此の見易き道理を解せざるにあらず。結局は東條首相も陛下を擁して満洲へ赴く意図にあらずやと思考せらる。石原中将と東條首相とは不仲なるも元来、同じ満洲組なれば、首相の考えも中将と同一線上に彷徨【ほうこう】しつつあること疑なかるべし。
(付記、この予の観察は早速、木戸内府に書面をもって通報せり)
 なお、以上を裏付ける材料として後藤隆之助氏は「今朝鮮へ兵を集めている」と言い、長野朗〈アキラ〉氏は「山梨県に非常に食糧を集めている」という。

 注1 木谷忠麿 男爵、近術文麿公の末弟。貴族院議員、戦前、戦後、奈良・春日大社宮司をつとめた。昭和三十六年、五十八歳で死去。
 注2 公正会 貴族院の一会派。当時の貴族院は皇族、華族、勅選、多額納税、学士院会員の各議員で構成。近衛公ら公爵と侯爵は火曜会、伯爵と子爵は研究会、男爵は公正会をつくり、勅選、多額納税両議員は同成会、交友倶楽部、会に属し、学士院会員(四人)は無所属だった。翼賛政治体制下でも貴族院の各会派は、社交クラブとして存続を認められた。
 注3 明石男は明石元長〈モトナガ〉男爵。台湾総督、陸軍大将明石元二郎の長男で、昭和十四貴族院議員となる。
 注4 石原莞爾【略】
 注5 後藤隆之助【略】
 注6 長野朗 陸士〔陸軍士官学校〕二十一期で石原莞爾中将と同期だったが大尉で退官、農民運動にはいった異色の評論家。日本に孫文の「三民主義」や「華僑」の新語を最初に紹介したという中国問題の専門家でもある。「遊撃戦、遊撃隊」「昭和農民総蹶記録」など著書多数。戦時中、吉田茂氏らと反東條運動を行なって、近衛公や重臣に中国問題、食糧対策で招かれ会っていた。現在、全国郷村会議委員長、拓大名誉教授。福岡県出身。「近衛日記」の記述について氏は「戦争末期、政府は大本営を長野県松代に移し、海軍は山梨、陸軍は長野に集結する計画が進んでいた。近衛公はそのことを書いたのだろう」と語っている。

※明日は、都合により、ブログをお休みいたします。

*このブログの人気記事 2019・9・15(なぜか10位に土肥原賢二)

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