礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

挙母のトヨタ工場で梅原博士の歓迎を受ける

2021-05-21 04:55:41 | コラムと名言

◎挙母のトヨタ工場で梅原博士の歓迎を受ける

 雑誌『自動車の実務』第三巻から、宮本晃男の「東日本一周ドライブから」という連載記事を紹介している。本日は、その二回目。本日、紹介するのは、連載第一回(第三巻第一号、一九五三年一月)の後半。

 翌日〔一九五二年一〇月八日〕も雨の中を出発市中行進の後、安倍川橋畔〈キョウハン〉で安倍川餅に舌づつみを打ち、悪路交通止を迂回し、ようやく掛川から磐田〈イワタ〉に出た。
 この辺りも新道で、道は巾広くまっすぐに立派な道といいたいが、泥沼のようだ。
 ところどころに動けない車がある。こんなところは停らぬように、セコンドギヤで予めスピードを上げて走り抜けた。
 アメリカのように金持の国と異り、ローラーで展圧の費用のない?日本では一、二年自動車が走ってふみかためるのを待ってから段々ほそうするのだそうだ。
 何のことはない、我々の自動車が、建設省のローラーの代用になるわけだろう。
 だから天下の東海道も、自動車を壊すために設けてあるのかと錯覚を起すような状況である。(但し東京―三島間は良い道である)
 観光日本の道路はここ数年先のことだろう。
 磐田では市と教育委員や先生生徒さんたちが千人余道に五色の紙テープを張って出迎えて下さった。
 橋本記者も私もこの大歓迎に感激した。
 浜松、岡崎を経て挙母(ころも)のトヨタ工場についたのは夕刻であった。
 技術部長の梅原〔半二〕博士他多くの人々の歓迎を受けた。
 工場からころもの旅館まで梅原先生御愛用の試作トヨペットを運転してごらんなさいと提供して下さったのには恐縮した。先生を側えおのせして、ほそうした直線道路を思い切り走った。
 近くこの種の新車が出るらしいが、このような乗心地なら欧米外車以上だと思った。
 翌日久し振りで工場を見学した。
 戦前トヨダ織機会社の一隅に自動車部が作られた当時見学し、その後刈谷に自動車組立工場が出現し、先般惜しくも故人となられた、豊田喜一郎氏が、心魂を打ちこんで国産自動車の製造に進まれた当時を回想し、感慨無量であった。
 ライフの記者が見学し、正に東洋一、世界屈指(七番目位)の大自動車工場の一つであると折紙をつけられた通り、特に最近充実した輸入工作機械や、型鍛造施設を見ては一そう力強く感じた。優秀な技術家陣と、これだけの向上設備と今後数倍にも拡張できる空地を見ると、洋々たる前途が頼もしく思われる。
 トヨペットの優秀な信頼性の裏付けとして立派な工場だとうれしく思った。
 後は全員の協力で、さらに安価な車や部品を提供して国産乗用車の名与を回復してほしいと思った。午後出発前の三時間は各種の未だ門外不出の試作車を運転させてもらい、今まで私の運転した、フォードコンサル、オペルオリンピヤ、モーリスマイナー、フィアッ 500C、シムカ、プジョー,シトロエン、ルノー、ビュイック、シボレー、フォード、リンカーン、マーキュリー、スチュードベイカー、ポンテアックなどとも比較してみた。
 私はこのような国産車が一日も早く安価に提供される日を願いトヨタ工場とお別れし名古屋に向った。全員手を振って見送って下さった。
 連日の雨も上って、秋晴れの郊外を朝日新聞社名古屋支局のニュースカーに先導されて名古屋市に入り、東山動物園の歓迎会場に到着したのは夕刻暗くなるころであった。
 名古屋城の金のしゃちほこが見えなくなったのは淋しいが、名古屋の街は美しく整って中部日本復興の一端を語るようであった。
 晩は名古屋名物かしわの笹身に舌づつみを打ちながら、朝日支局の人々と日本の今後について語り合った。 (つづく) (筆者 運輸省自動車局車両課技官)

 文中、「挙母」とあるのは、当時の挙母市。一九五九年(昭和三四)に「豊田市」と改称。
 トヨタ工場技術部長の「梅原博士」とは、梅原半二(一九〇三~一九八九)。トヨペット・クラウンの開発にあたったとされる。「梅原先生御愛用の試作トヨペット」とあるのは、トヨペット・クラウンの試作車のことであろう。ちなみに、梅原半二は、哲学者の梅原猛(一九二五~二〇一九)の実父として知られている。
 名古屋城は、一九四五年(昭和二〇)五月一四日の空襲で、その大半が焼失。「金のしゃちほこ」が見えなくなっていた。

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トヨペットのオープンカーで東日本一周ドライブへ

2021-05-20 02:34:24 | コラムと名言

◎トヨペットのオープンカーで東日本一周ドライブへ

 数か月前、このブログに、「宮本晃男、九州でボロボロの民営バスに乗る(1946)」という記事を載せたことがあった(2021・2・9)。これは、『自動車の実務』の第二巻第一号(一九五二年一月)に乗っていた、宮本晃男(てるお)のエッセイを紹介したものだった。
 宮本晃男は、『自動車の実務』という雑誌の常連執筆者だったようだ。同誌の第三巻第一号から第五号にかけては(一九五三年一月~五月)、「東日本一周ドライブから」というドライブ日記を連載している。
 この「東日本一周ドライブ」がおこなわれたのは、一九五二年(昭和二七)一〇月。詳細は不明だが、東京朝日新聞社が企画し、これにトヨタ自動車会社が協賛したものらしい。
 ドライバーは、東京朝日新聞の橋本記者と運輸省技官の宮本晃男、使用する車は、トヨペットSD型フェートンである。トヨペットSD型は、トヨペット・クラウンが出る直前のトヨペットで、SD型フェートンは、そのオープンカータイプである。
 本日以降、このドライブ日記を紹介してみたい。本日、紹介するのは、連載第一回の前半。

 東日本一周ドライブから
  =東海道を名古屋へ=    ◇宮 本 晃 男◇

 10月7日午前10時2分前トヨペットSD型フェートンのエンジンをかけた、油庄も水温も、そしてエンジンの調子も快調である。
 私は湧き返る歓送の渦の中で東京朝日新聞本社玄関の電気時計と自分の腕時計の針とをじっと見くらべた。
 さあ出ましょう、とハンドルを握る橋本記者をうながし、正10時スタ一トした。
 スキヤ橋を渡り、新橋を過ぎ、泉岳寺前から品川八ツ山の陸橋を越し京浜国道を一路西え、六郷橋をわたり、送って来た朝日新聞や、トヨタ自動車会社のトヨペットに別れると、これから二千数百粁〈キロメートル〉の前途と、未だ空からより見たことのない(札幌から東京経由鹿児島よりまだ長い)東北の悪路、次々と立ちふさがる峠の数々、まだ性能も十分わからないトヨペットのことを思うと、いささか淋しい感じがした。
 かつて朝日の塚越〔賢爾〕航空機関士から飛び方を習って、はじめて岡田航空官と二人一式双発高練〔一式双発高等練習機〕で松戸から九州に飛んだ日のことを思い浮べた。
 いくら朝日新聞の依頼でも国産車でそんな長距離を走ったら、車の方が運よくもったとして、君の身体がまいってしまうよ。などと中止をすすめてくれた深切な人たちのことも思い浮べた。この頃から雨が降ってきて寒くなった。
 しかし、今国産乗用車が、欧米の外国車輸入の荒波に押されて危機にあるとき、自動車技術行政の一端を荷う一員として、国産乗用車の代表ともいうべきトヨペットの特質をしっかりつかみ日常の仕事の正しい指針にしたい熱意にも燃えた。
 未だ十分に知らない、終戦七年目の東日本の現状も、どんな道路をどんなにして自動車が走っているかも認識したいと思った。
 こんな計画を進めてくれた朝日新聞、心よく自動車を提供したトヨタ自助車会社に対しても、運輸省自動車局の面目にかけても是非予定のダイヤ通り一周したいと思った。
 神奈川トヨタと桜木町の朝日新聞横浜支局に寄っているうちに40分以上も予定時刻に遅れてしまった。
 途中の雨に幌〈ホロ〉の骨がさびついてうまくひろがらなくて苦労したためもあった。
 横浜からしっかりハンドルをにぎってまっしぐらに東海道を走った。
 程ケ谷の峠で紙をつんだトラックが一台橫すべりして転覆し、クレーンで引上げ作業中であった。
 ちらばったまっ白な紙が印象深く、私たちの車の前途に注意せよ! の信号に感じられ今更ながら前車の轍の諺を思い浮べた。
 小田原まで四十数粁/時の快速で雨の東海道松並木を横目でちらり、二人共だまったままひたすら前方を見守った。
 大磯を通るころ、広島から東京まで無停止運転の東洋工業の泥だらけの勇ましい三輪車マツダ号に会って思はず手を振った。
 私たちはあの車の三倍近くを走らなければならないと思うと重い気持だった。
 しかしちらっと見る運転者の顔は同じ苦労をしている人に対する同情の念でいっぱいだった。
 箱根越えは嵐の中だ、いつもとちがった男性的な景色は一入〈ヒトシオ〉趣きが深かった。
 中学生時代先生に引率されて歩いて越えたことも懐しく、風の声が、箱根の山は天下の嶮 の歌声のように耳にひびいた。
 雨と三菱石油のオクタンガソリン(一般市販売品)のおかげか、エンジンの調子はますます良く、全然ノッキングもなく、セコンドとサードギヤで猛スピードで登り続けた。上りはブレーキがすぐ効くから高速で走る方が良い。
 重い荷物を山のように積んだトラックが次々と上り下りしている。
 いさましいエンジンの音、トヨタ・トヨベット、ニツサン、ふそう、ミンセイ、日野などのトラックを頼もしく見送った。
 昔箱根で会ったトラックやバスが、フォード、シボレー、ホワイト、ウーズレーやスイス製ザウラーなどで国産車は一台も見られなかったことと思いくらべて感無量であった。
 乗用車もかくありたい。
 芦ノ湖を見下し、関所跡を過ぎ、立派なコンクリートほそうの道をエンジンブレーキで下りながら、やがて雲の切れ目から平野を見下し、やがて沼津にすべりこんだ。今日はあいにく富士の姿は見えない。しかし今日は見物どころではない。
 沼津から吉原えの道は旧街道を避けてショートカットした四車線のまっすぐな砂利道が、松林にそって作られている。
 雨で泥沼のような道を、国産のトラックが60キロ余の高速でサーッと走っている姿は実に美しい。
 自動車は止めて見るものでない。重い荷物をつみ,泥だらけとなりほこりや、しぶきを上げて走る姿も又格別だと思った。
 夕刻予定の正6時静岡についた。歓迎会や講演、映画の会に出席し、静岡の朝日支局やトヨタ自動車会社のもてなしを受けて旅第一夜を明した。【以下、次回】

 朝日新聞の橋本記者のフルネームは未詳。当時の朝日新聞の記事を見れば、わかるかもしれない。
 同じ時期、東洋工業(現・マツダ)が、オート三輪車マツダ号による、広島から東京までの「無停止運転」を試みていたこともわかり、興味深い。

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中田祝夫先生の精力家ぶりに驚嘆した(築島裕)

2021-05-19 05:01:54 | コラムと名言

◎中田祝夫先生の精力家ぶりに驚嘆した(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その五回目(最後)で、奈良の薬師寺に泊りこんだ体験を回想しているところを紹介する(八二~八六ページ)。

 南都西の京の薬師寺は、三重塔や日光・月光菩薩、それに仏足石などでとりわけ有名であり、近頃は観光ブームで、訪れる人も非常に多いが、それらと道を隔てた北側、即ち、近鉄の西の京の駅から向って道の左側(北側)に本坊がある。その本坊の裏はすぐ田圃に続いているのだが、その本坊と同じ構の中で西北の隅に、小さな白い経蔵がひっそりと立っていることに、気が附く人はあまり多くないと思う。薬師寺の本坊の西側をずっと北方に、唐招提寺の方へ向って行く細い道がある。近頃はその左側に新しく駐車場が出来て騒々しくなったが、その駐車場と道を隔てて向い側の土塀のすぐ内側に、この経蔵のあるのが見える。
【中略】
 今の経蔵は土蔵造の二階建で、中に入って見ると、書籍がぎっしりと詰っていた。
 昭和二十八年〔一九五三〕の夏のことである。
 中田祝夫〈ナカダ・ノリオ〉先生・小林芳規〈ヨシノリ〉氏と私と三名が、この書箱の目録を作成する目的で二週間滞在した。
 先ずこの経蔵内の書籍を全部庫外に運び出し、経蔵のすぐ傍にある金蔵院〈コンゾウイン〉の大広間に並べた。金蔵院には、信徒の宿泊する百畳敷位の大広間があって、其処へ順々に並べるのである。尤も、今回の整理は、大略のものであるから、書目と冊数と書写又は刊行の年を注記する程度に止めたのであるが、真夏の炎暑の折に二週間連日の作業は、相当に大変であった。しかし、次々に目の前に現れる古書を整理していると、興味津々として文字通り暑さを忘れた。
 お寺に泊り込んだのは、この度が私には始めての経験であった。中田先生はその頃まだ東京教育大学の助教授で、三十歳代であられ、大著刊行の準備に忙しくしておられた頃であった。小林氏は東京文理大を卒業されたばかりで同学専攻科に在箱されていたが、その前の年〔一九五二〕の夏に京都の仁和寺へ同行したのに続いて二回目であった。大学は違うけれども、中田先生の教を受けたという同学の誼〈ヨシミ〉があった。私は当時中央大学に奉職しており、未だ独身であった。
 お寺の食事は庫裡〈クリ〉の板間で、橋本凝胤管長以下総勢十人程のお坊さん達の下座に畏って〈カシコマッテ〉正座して頂くのであった。朝は奈良茶粥【ちやがゆ】というもので、どろどろのお粥である。年来お粥の苦手な私には全く閉口であった。昼食も夕食も大抵一汁一菜位で、味付なども都会の美食に馴れた者にとっては到底口に合わぬものであった。古く、托鉢によって施しを受けた僧侶は、一山の人々が施物〈セモツ〉を持寄って雑炊などにして食するということを聞いていた。この薬師寺の粗食によって、僧寺の戒律の厳しさの一端に触れたような気持がした。
 気持の上ではよく判っていても日が経つにつれて年若い二人は、とても我慢出来なくなって来た。中田先生は元来月ケ瀬〈ツキガセ〉の産で、奈良の近くである上、以前から寺院の風などには親近しておられ、このような食事もさほど意に介せられず、朝は五時頃から起出して仕事をされ、在も夜半近くまで頑張られるという精力家ぶりで、ほとほと驚嘆した。
 或る夜こっそり内緒で二人で寺を抜出し、奈良の町へ出掛けてカツ丼をパクついたりしたことも懐かしい思出となった。又或る時には、パンが無性に食べたくなって、奈良の町へ出たのは良かったが、何処にもパンを出してくれる食堂がなく、やっと見付けた処も、マーガリンか何かを附けたもので、ひどく不味かったのを覚えている。大体奈良という所は食べ物のまずい所で、駅近くの食堂でも東京の場末〈バスエ〉などより遥かに悪く、値段だけは結構高い。観光地の悪い面が現れている感じだった。最近は近鉄の駅の附近などには中々気のきいた店も出来たようだが、当時は今とは随分違っていたものだ。

「中田先生は元来月ケ瀬の産で」とあるが、中田祝夫(一九一五~二〇一〇)は、奈良県添上郡(そえがみぐん)月瀬村(つきせむら)出身。一九六八年(昭和四三)、月瀬村は、改称して月ヶ瀬村(つきがせむら)となる。二〇〇五年(平成一七)、月ヶ瀬村が奈良市に編入、添上郡が消滅。
 なお、「中田先生は元来月ケ瀬の産で、……このような食事もさほど意に介せられず」云々は、決してホメ言葉ではない。

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山科トンネル・東山トンネルで煤煙に悩まされた(築島裕)

2021-05-18 03:23:27 | コラムと名言

◎山科トンネル・東山トンネルで煤煙に悩まされた(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その四回目で、最初の訪書旅行のことを回想しているところを紹介する(七七~八〇ページ)。

 昭和二十四年〔一九四九〕の夏、中田祝夫〈ノリオ〉先生の御供をして、京都の知恩院と東寺に古訓点の調査に赴く機会に恵まれた。これは私にとって生れて初めての訪書旅行であった。戦前から戦争中にかけて少年時代を過した私にとっては、他の同じ世代の人々もそうであるように、あちこちの名所旧蹟を旅行して歩くという自由が与えられていなかった。昭和二十四年といえば、やっと汽車の切符が自由に買えるようになった頃であるが、まだ食糧は十分でなく、旅行は困難であった。丁度その頃、叔父が大津の銀行に勤めていて、その家が膳所〈ゼゼ〉にあったので、そこに止宿して、数日の間、膳所から京都まで通ったが、シートの破れたボロボロの客車、有蓋貨車を客車に改造した車で、窓が殆どない物凄い代物〈シロモノ〉に乗ったことなど、今でも記憶に残っている。又東海道線は全線電化以前で、山科トンネル、東山トンネルの中で、暑いさ中に煤煙に悩まされたことも記憶に新しい。
 その頃の東京はまだ戦災の焼跡がまだ整理し切れず、荒凉たる有様だったが、戦災を受けなかった京都の町は落着いていて、いかにも古都にふさわしい感じであった。もともと名所旧蹟などは殆ど歩いたことがなかったから、ましてや、大寺〈オオデラ〉の寺務所や庫裡【くり】などを見るのは始めてであった。焼け出されて狭い家に不自由な暮しをしていた頃だから、大広間や広々とした廊下などに入るだけでものびのびとした感じがした。
 大きな寺の中は、真夏でも暗いものである。庇【ひさし】近くの板間などに机を持出して拝見するのだが、それでもさほど明るくはない。しかし却って落着いた古寺の雰囲気があって、趣があるものである。
 東寺で、経箱〈キョウバコ〉というものを初めて見た。大体縦一尺五寸(四五糎〈センチ〉)、横一尺二寸(三六糎)、高さ一尺(三〇糎)位のもので、長さ一尺余りの巻物を収めるのにも工合よく、両手で抱えて持運ぶのにも都合の良いものである。巻子本〈カンスボン〉ならば、数十本、薄い冊子本〈サッシボン〉だと百冊以上入れられる。後年気附いたことだが、何処のお寺でも、大体同じような大きさであるのも、長い間に自然に生出された智恵の産物なのであろう。木材は白木の杉や檜〈ヒノキ〉などで、漆塗など贅沢なものは殆どない。もともと古いお経の中でも、訓点をつけたものは、坊さんたちが精魂籠めて勉強した結果なのであって、質素な学究の備品として、ふさわしいものであったのであろう。
 この一週間の旅行は、私にとって最も有益な、意義深いものであった。お寺への御挨拶の仕方、お経を拝見するときの作法、古経の取扱い方、訓点資料としての価値の有無の見分け方、ノートの取り方など、書物や教室では、絶対に得られない数々の知識を、中田先生から身を以て教えて頂いたのであった。
 「お寺は朝が早く、夕方も早い。朝はいくら早く行っても良いが、夕方は三時半か四時頃にはお暇〈イトマ〉することだ」
というような先生の御ことばも、朝寝坊で夜更しの我々にとっては、殊に適切なご注意であった。今に忘れない思出である。

 文中、「東海道線は全線電化以前で」という言葉があるが、東海道線の全線電化は、一九五六年(昭和三一)。
 この『古代日本語発掘』という本は、今回、引用した箇所以外にも、鉄道関係の記述が多い。著者の築島裕には、『切符の話』(真珠書院、一九六八)などという著書もある。かなりの鉄道マニアだったのだろう。

今日の名言 2021・5・18

◎お寺は朝が早く、夕方も早い

 築島裕が、師の中田祝夫から聞かされた言葉。上記コラム参照。

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斯界の大先達、春日先生の謦咳に接した(築島裕)

2021-05-17 03:02:20 | コラムと名言

◎斯界の大先達、春日先生の謦咳に接した(築島裕)

 築島裕『古代日本語発掘』(學生社、一九七〇)を紹介している。本日は、その三回目で、「訪書旅行」について回想しているところを紹介する(六六~七一ページ)。

 昭和二十三年〔一九四八〕九月に卒業、直ちに大学院に入った。旧制は無試験で、単位を取る必要もなく、呑気なものだった。連日研究室に出入して本を見ていた。
 翌二十四年〔一九四九〕四月から日本育英会の大学院の奨学生として奨学金を交附されることになり、同時に 研究室に勤務を始めた。仕事は助手の事務補助と国語学会の事務とであった。先輩の山田俊雄氏が助手で、毎日机を並べて仕取をしていた。国語学会はまだ草創時代で、雑誌『国語学』の刊行も軌道に乗らず、仲々大変だった。
 始めて訪書旅行の体験をしたのは、この期間であった。昭和二十四年の夏に、中田〔祝夫〕先生のお伴をして、京都の東寺と知恩院とを訪れた。前後数日間の調査であったが、先生から親しく経巻〈キョウカン〉の取扱い方、資料としての鑑定の仕方などを承った。知恩院では牧田諦充〈マキタ・タイリョウ〉先生の御世話になり、東寺では、故山本忍梁〈ニンリョウ〉猊下〈ゲイカ〉のお世話になった。経箱〈キョウバコ〉を幾つか出して下さって、経箱というものを始めて実際に見ることが出来たし、又、古来、訓点資料というものが、どのような状態で保存されて来たものなのかということなども、始めて知ることが出来た。
 昭和二十七年〔一九五二〕夏には、仁和寺を訪れ、故小川義章〈ギショウ〉猊下のお世話になった。この折は、広浜文雄氏、小林芳規〈ヨシノリ〉氏と一緒だった。次いで二十八年〔一九五三〕には薬師寺の調査を行った。中田先生のお伴で小林氏と私と三人の一行であった。橋本凝胤〈ギョウイン〉長老や、高田好胤〈コウイン〉管長には、この折始めて拝眉の機を得た。薬師寺で二週間程滞留して、経蔵〈キョウゾウ〉の整理を奉仕したが、その折、西大寺、唐招提寺、興福寺などにも参上した。
 東大寺図書館には、昭和二十五年〔一九五〇〕頃始めて伺った。その折は、確か中田先生のお伴で参上したと思うが、その後はしばしば一人でお邪魔した。
 昭和二十八年秋には、奈良正倉院の曝凉【ばくりよう】の際、春日政治〈カスガ・マサジ〉先生、遠藤嘉基〈ヨシモト〉先生、中田祝夫〈ナカダ・ノリオ〉先生などのお伴をして、正倉院聖語蔵〈ショウゴゾウ〉の経巻の調査を許された。斯界の大先達、春日先生の謦咳【けいがい】に接することが出来たのは、無上の感激であった。又、その折、宿所の日吉館の部屋で、訓点語学会創立の話会いが定ったことは、忘れられない思い出である。その春日先生も昭和三十六年〔一九六一〕に逝かれて、もう十年近く経った。転【うた】た感無量である。
 さて、昭和二十七年四月から中央大学文学部に就職して、始めて教壇に立った。三十年〔一九五五〕三月から 東京大学教養学部へ移り、そこで九年ほど過し、三十九年〔一九六四〕四月から現職東京大学文学部へ転任になった。この間、殆ど連年、訪書旅行をして来た。多くは夏休の間だったけれども、時には春秋の頃にも出掛けた。その他学会や溝演などで、年に数回は旅行して歩くようになった。
 このようにして、大学卒業以来二十余年が過ぎた。古寺の中には、未だ採訪の機を得ない所も極めて多いけれども、既に訪れた寺院、図書館、個人の蔵書家など、数十箇所に及んだ。実見した書籍の点数は数え切れないけれども、平安時代、鎌倉時代の訓点本だけに限って見ても、約二千点に上っている。この間、私のこの訪書の希望を快諾され、格別の御厚情を示された幾多の所蔵者管理者の方々に対しては、感謝の念で一杯である。又、永年の間私のこの研究を指導して上さった東京大学名誉教授の故時枝誠記先生、東京教育大学教授の中田祝夫先生、この御二方は私の恩師であり、私の研究が曲りなりにも今日の段階まで進んで来たのは、専らこの師恩によるのである。又、九州大学名誉教授故春日政治博士、京都大学名誉教授・親和女子大学長遠藤嘉基博士、島根大学教授大坪併治〈オオツボ・ヘイジ〉博士、奈良教育大学教授鈴木一男氏、九州大学助教授春日和男博士、天理大学教授広浜文雄氏、京都府立大学教授吉田金彦〈カネヒコ〉氏、広島大学助教授小林芳規氏、静岡女子短大教授稲垣瑞穂氏、滋賀大学助教授曾田文雄〈ソダ・フミオ〉氏、四天王寺大学助教授門前正彦〈カドサキ・マサヒコ〉氏、同志社大学附属高校教論松本健二氏などの先学同学の方々の学恩も深く測り知れないものがある。これらの方々は、何れも訓点語学会の主要メンバーで、昭和二十九年〔一九五四〕の学会創立以来、毎年の学会の度毎に大きな啓発を受けて来た。殊に小林芳規氏は、中田先生と同門〔東京文理科大学〕の誼【よしみ】で、昭和二十七年以来、しばしば訪書の旅行を共にした間柄となった。訪書の際は概して時間が限られているものであって、二人で調査の方針を細目打合せた上で手別〈テワケ〉して仕事をし、あとでノ卜を交換して写せば、能率は倍増するのである。この他、国語史学関係の先輩、同学の方々は、一々御名前を記す遑【いとま】はないけれども、高等学校〔第一高等学校〕時代から御指導を賜った岩淵悦太郎先生、大学時代の金田一春彦先生、先輩の亀井孝教授、林大〈ハヤシ・オオキ〉氏、松村明教授、大野晋博士、〔東京〕教育大の馬淵和夫〈マズチ・カズオ〉博士、福島邦道教授、京都大の浜田敦教授、阪倉篤義〈アツヨシ〉博士、小島憲之博士、寿岳章子〈ジュガク・アキコ〉教授、塚原鉄雄助教授、慶大の阿部隆一〈リュウイチ〉博士などの学恩を忘れることが出来ない。
 又、これら探書の際に私をお連れ下さって、実地に色々な面で御指導を賜った、中田祝夫先生、山岸徳平先生、長沢規矩也〈キクヤ〉先生、宝月圭吾〈ホウゲツ・ケイゴ〉先生、佐和隆研〈サワ・リュウケン〉先生などの御恩も忘れることが出来ない。京都建仁寺の島原泰邦氏は、令息が小林氏の教え子であったという因緑から、しばしば京都でのお宿を賜り、又、高山寺、京都国立博物館、興聖寺〈コウショウジ〉など、諸処へ御紹介の労を惜しまれなかった。その御厚情に対しては、どれ程お礼の言葉を捧げても足りないほどである。
 訓点本の閲覧に至る手続、閲覧の際の礼儀作法から始って、文献の価値の鑑定の要領、その調査の心得など、諸先生の御指導によって、始めて習得することが出来た。このような勉強は、教室の講義や演習だけでは、決して体得出来るものではない。直接資料に当って、手を取って教えて頂くより他に方法はないと断言してもよい。他の学問のことはよく知らないが、考古学の発掘や、臨床医学での手術の方法なども、恐らくこのように、実地に臨んで師の教を仰がなければならないものが多いように感ずる。近頃問題にされている所謂マスブロ教育のような、単なる機械的な教育などでは、決して得られるものではないと思う。

 途中から、「あとがき」風の謝辞に化してしまっているが、当時の訓点学関係者が網羅されているので、あえてそのまま、引用した。
 文中に、調査のため薬師寺を訪れ、二週間ほど滞留したとある。このときのことは、あとで、やや詳しく語られる。【この話、続く】

*このブログの人気記事 2021・5・17(8位になぜか戸坂潤)

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