礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

筏勲(いかだ・いさむ)の「古事記偽書説」

2023-10-05 00:39:02 | コラムと名言

◎筏勲(いかだ・いさむ)の「古事記偽書説」

『論集 古事記の成立』(大和書房、1977)には、古事記偽書説で知られる筏勲(いかだ・いさむ、1906~1984)の論考も載っている。〝「古事記偽書説」の提示〟が、そのタイトルである。
 本日は、この論考を紹介してみたい。ただし、紹介するのは、冒頭の「いわゆる通説」の節のみ。

   一 いわゆる通説

 江戸時代中期に『古事記伝』が完成されて以来、その精緻該博な研究に、人々は圧倒されて、古事記に関する事項は記伝の説がもっとも確実な説として信じられている。試みに、座右の文学辞典、歴史辞典、百科辞典等の古事記の項を引けば、みな判で押したように、「天武天皇の勅命に依り稗田阿禮が誦習した帝皇の日維及び先代の旧辞を太朝臣安萬侶が三巻に撰録した我が国最古の古典、和銅五年正月二十八日成る。」と記している。それら解説書の根本の拠所は、いわゆる古事記序文の中に記録されている文面通り信じて採用しているのである。爾来幕末の勤皇佐幕の争乱を経、明治政府によって国定教科書にも採用せられ各種の文書記録にしばしば繰り返され、ついに国民の常識とされるに到った。現在「日本文学大系」とか何とか「文庫」とかで何十万何百万と出版されている古事記の解説にことごとくそのステロ版が繰り返されているから、多数決で表決するとすれば、その通説と言われる説は、圧倒的絶対多数で決定してしまうであろう。しかし、学者研究者と言われる者は、定説に対しても、真実それがその通りか否かを確認するために再吟味する使命を負わされているのである。そこで御苦労なことであるが、『古事記伝』の後二百三十年の今日の確かな眼で古事記序文を調べ直してみよう。
 まず第一に、古事記は奈良朝の和銅五年に完成されたと序文に書かれているが、現在私たちの知る限りの知識では、古事記が奈良朝に存在していたという証拠を示す文献は何もない。即ち古事記が和銅に書かれたということを証明してくれるものは何もない。これは重要な事実である。
 ある文献が何年何月に出来たものに間違いないと認められるのは、その文書そのものにそう書いているからということでなく、他にそのことを証明する第三者(文書)があってこそである。残念ながら、古事記には古事記の成立が和銅に間違いないと身分証明してくれる確実な保証人がないのである。では古い時代に全然ないのかと、探してみると、平安時代に下って、「弘仁私記の序」という書類がやっと見つかった。これはどのような文書かと言うと、日本書紀がわが国最初の官撰の史書として養老年間に完成して以来、朝廷では廷臣たちに国史の教養を身に着けさせるために、しばしば講筵を設けて当時の碩学を講師に選んで聴講させたが、その時々の記録が『釈日本紀⑴』に編修採録されて伝わっているから、ほぼ状況を窺うことが出来る。弘仁私記というのは、弘仁三年に催された講筵の時、聴講した弟子が講師の講義をノートした記録であり、それに附録として「序文」が併せられている。これらのノートは現存の物はみな偽書だという学者もあって、あまり信用されていない嫌いがある。とくに、『弘仁私記序』は、本来日本書紀の講義のノートであるからには、日本書紀に関して何かを記録すべきはずなのに、それは全然なしに、古事記のことについて、古事記の序文通りの記事を書留めているので、中沢見明〈ナカザワ・ケンミョウ〉⑵氏などは偽作文書であると否定している。古事記の身分証明をしてくれる保証人はこんな怪しげなものしかないということはまことに古事記にとって悲しい事実である。最近、神宮皇学館教授の西宮一民〈ニシミヤ・カズタミ〉氏が、卜部〈ウラベ〉氏に伝えた神秘書の「亀相記」の中に、古事記所載の記事を確かに引用したと思われる「旧記」が発見されたと力説していられるが、その旧記というものも、「平安時代末期の物であろう⑶」との推定である。『釈日本紀』に伝える平安時代朝廷での講筵の記録がもし信用出来るなら、平安時代に古事記が講義の中に度々引用されているのである。しかしそれは断片的な語句で、古事記が和銅の書であるということはなんら証明されない。現実に、われわれが読むことが出来る古事記のもっとも古い本は、はるかに時代が下った南北朝時代応安四年ごろ、賢瑜〈ケンユ〉が写した真福寺本である。日本書紀などは朝廷で講筵が開かれたりして早くから研究されたから、これを写し伝えた本も古い物が伝えられているが、古事記は古写本もきわめて少い。あまり読まれなかったのであろうか、あまり特殊な場所に秘蔵されて人々の目から遠ざけられたらしい。古事記序文に強調されているような、邦家之経緯、王化之鴻基として「削偽定実」の真正の記録として後世に伝えようという抱負とは似合わない内密な神秘のべールに包まれたあり方であったらしい。最新の研究書として、大和岩雄氏が『古事記成立考⑷』でその特殊な場所に専住する人々の正体を解明しておられるのは注意すべきであろう。

  注
 ⑴ 『新訂増補国史大系』(第八巻所収)
 ⑵ 中沢見明『古事記論』(雄山閣、昭和五年)
 ⑶ 直木孝次郎「回顧と展望」(『史学雑誌』八五篇第五号)
 ⑷ 大和岩雄『古事記成立考』(大和書房、昭和五〇年)

 同書巻末の「執筆者紹介」によれば、筏勲の肩書きは、「元大阪学芸大学教授」。氏名の読みは、この執筆者紹介に従った。

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