礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

戒厳司令官に与えられた権限は二つだけだった

2023-10-17 03:13:18 | コラムと名言

◎戒厳司令官に与えられた権限は二つだけだった

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の「五 軍法会議とは何か」の章から、「戦争とは、軍隊とは何か」の節を紹介している。本日は、その後半。
 前回、紹介した部分のあとに【一行アキ】があり、次のように続く。

 帝国憲法は、その第十四条で、「天皇ハ戒厳ヲ宣告ス」と規定している。
「第十四条1 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
     2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム」
 これで見る通り、戒厳を宣告するための条件、戒厳によっていかなることが行われるか(戒厳の効力)は、国会で定める法律、つまり戒厳法によることとされていた。
 ところが実際には、帝国議会は憲法が要求する戒厳法を制定できなかった。あまりにも問題が重大なので、立法の責任をとる内閣がなかったからである。
 そのため、戒厳令の法的根拠は、明治十五年〔1882〕の「太政官布告戒厳令」によるほかなかった。憲法制定前には、国会がなかったので、太政官布告によって法律が制定されたのである。
 帝国憲法第七十六条には、
「法律規則命令又ハ何等ノ名称ヲ用ヰタルニ拘ラス此ノ憲法ニ矛盾セサル現行ノ法令ハ総テ遵由〈じゅんゆう〉ノ効力ヲ有ス」
 とあり、憲法制定前の法令である戒厳令も有効とされた(現在も有効な太政官布告に爆発物取締罰則がある)。そこで天皇が戒厳を布告すれば、実際にはこの太政官布告にのっとって戒厳令が実施されることになるのである。
 だが、二・二六事件の際に布告された戒厳令の法的根拠は、これとも異なる。さすがに太政官が制定した戒厳令は、法治国である昭和の時代に適応できるものではなかったために、政府は、事件勃発の翌日、昭和十一年〔1936〕二月二十七日に、「戒厳令施行に関する緊急勅令」を公布、即日施行した。これは一補の特別立法による「戒厳令の一部適用」である。
【一行アキ】
〈緊急勅令
朕茲に緊急の必要ありと認め枢密顧問の諮詢を経て帝国憲法第八条第一項により一定の地域に戒厳令中必要の規定を適用するの件を裁可し之を公布せしむ
   御名御璽
   昭和十一年二月二十七日 〉
【一行アキ】
 この内、「戒厳令中必要の規定」とは、太政官布告戒厳令のうちの第九条、第十四条を指す。その二つの条項とはどういうものだろうか。
 第九条は、戒厳司令官が軍事に関係のある地方行政事務と司法事務について指揮できるとの規定である。帝国憲法では、当然のことながら行政事務と司法事務は、文官である各省大臣のもとで行政官と司法官が執行し、軍人は関与すべきでないとされている。これを特別立法によって軍事に関係のあるものにかぎり軍人である戒厳司令官に管掌させることにした。
 第十四条は、帝国憲法によって日本国民が保障された居住移転の自由、住居の不可侵性、信書の秘密不可侵、所有権の不可侵、言論・著作・集会・結社の自由権を戒厳司令官が停止できることを定めていた。
 つまり、二・二六事件の際の戒厳令によって、戒厳司令官に与えられた権限は以上の二つだけであって、軍が掌握した権力とは、ごく限られたものでしかない。いわんや軍人による「斬り捨て御免」といったものでは絶対になかった。非常事態でも国民の権利制限は最小限度のものでなければならないのだから、当然のことである。

 爆発物取締罰則は、帝国憲法発布前の太政官布告で(明治17年太政官布告第32号)、現在でも法律として有効。
 戒厳令は、「戒厳」について定めた太政官布告(明治15太政官布告第36号)。戦後、失効したため、現在では、戒厳令に相当する法令は存在しない。

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