礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

これを部下に達するは適当ならず(橋本近衛師団長)

2023-10-26 00:16:40 | コラムと名言

◎これを部下に達するは適当ならず(橋本近衛師団長)

「NHK特集 二・二六事件 消された真実――陸軍軍法会議秘録」が放映されたのは、1988年(昭和63)2月21日のことだった。その十六年後の2004年(平成16)2月22日、同番組は、アーカイブスで再放送された。
 アーカイブスでは、もとの映像の前後に追加部分があり、加賀美幸子アナウンサーが、番組の紹介をおこなった。あとの追加部分では、澤地久枝さんが登場し、二・二六事件について、あるいは匂坂資料について、熱く語っている。
 その中で澤地さんは、「誰も見ないはずの公判記録に、一か所、改竄があった」と指摘していた。これは、二・二六事件軍法会議の「判決原本」に、改竄が見つかったという意味だと思われる。二・二六事件の判決原本が出てきたのは、1993年(平成五)。「二・二六事件 消された真実」が最初に放映されてから、五年後のことであった。
 この判決原本を読み解いたのが、原秀男さんの『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)である。そこには、「改竄」の話も出てくる。澤地さんは、この本が出る以前に、原さんから、直接、改竄の事実を知らされたはずである(澤地さんのことだから、実際に、改竄部分を確認していると思う)。
『二・二六事件軍法会議』では、改竄の話は、「三 大臣告示の疑点」の章にある。というわけで本日は、同章の「改竄された記録」の節を紹介してみたい。

改竄された記録
 だが、さらに興味深いことを、新資料は明らかにした。
 回答書〔橋本虎之助近衛師団長回答書〕は先に引用した部分の後、次のように続ける。
「その真意奈辺〈ナヘン〉にあるや補捉しがたく、かつこれを部下一般に達するは、適当ならずと思惟〈シイ〉し……」
 橋本近衛師団長は、前の陸軍次官であり、その任期中に真崎〔甚三郎〕教育総監を更迭した。皇道派の巨頭と目されていた真崎大将の更迭は、皇道派将校たちの怒りを買い、昭和十年〔1935〕八月十二日、更迭を「統帥権干犯」として、相沢三郎中佐が永田鉄山軍務局長を刺殺するという「相沢事件」が起こる。したがって橋本師団長は、皇道派とは相いれぬ立場にあった。
 その橋本師団長は、蹶起を正当化せんばかりの「大臣告示」を伝えられた時、直観的に「これはおかしい」と感じたであろう。事件を有利に利用しようとする、皇道派軍幹部らの動きを察知したのかもしれない。当然、この告示を伝達してきた東京警備司令部の香椎〔浩平〕中将が、どのような立場の人間かも熟知していた。
「これは裏に何かある」
 と感じた橋本師団長は、告示を部下に伝達することを適当とせず、握りつぶしてしまう。そのあたりの橋本師団長の心中は、
「その真意奈辺にあるや捕捉しがたく、かつこれを部下一般に達するは、適当ならずと思惟し……」
 という文面によく現れている。
 問題はその次の文章である。
「師団司令部に限り三時保留す。但しその後、歩兵団隊長にのみ内示す」
 回答書は、こう続いている。だが、これでは文意が通らない。
「三時保留す」とは、どういう意味なのだろうか。「三時まで保留した」ということだろうか。それにしても、日本語として文章がおかしい。
 実は、この「三時」の部分を見ると、あきらかに改竄【かいざん】が加えられていることがわかる。回答書の原文は「一時」とあった。その「一」の上に、二本の線が書き加えられて「三時」と直してあることがはっきりとわかるのである。
 いや、改竄というには、あまりに稚拙な書き込みと言えよう。カーホン複写の原文の上に、筆で太い線を二本加えただけの、極めて無造作な書き込みである。
 原文は、「師団司令部に限り一時保留す」。これなら意味ははっきりしている。またまた、「三時まで保留す」というなら、まだわかる。それがなぜ、「三時保留す」となっているのだろうか。また、その書き込みを行ったのは、いったい誰なのだろうか。事件担当の法務官が放判の重要な証拠文書に書き込みをするとは考えられない。
 ここで思い出していただきたい。陸軍大臣告示が正式に各部隊に下達〈カタツ〉されたのは、二月二十六日の午後三時ごろとされていた。ところが、近衛師団の回答書には、午前中に下達されたとし、食い違っている。午前説を認めることは、前に述べたような〝陰謀説〟に再び根拠を与えかねない。
 軍法会議の捜査の進行については、険察官が陸軍省軍務局長、陸軍次官、陸軍大臣らに説明を行う。説明の時に、この近衛師団長の回答書を見た誰かが、大臣告示が午前中に近衛師団に下達され、近衛師団長はこれを握りつぶしたという記述を見て、「おかしいではないか」ということになった。そこで、「これは間違いだろう」と言って、机の上にあつた筆をとり、チョイチョイと手を加えたのではないか。そんな想像ができるのである。
 新資料は、事件をめぐるこうした陸軍中枢部のさまざまな思惑を浮き彫りにしていると言えよう。

 文中に〝陰謀説〟という言葉がある。青年将校の蹶起の前に、陸軍上層部の間で、陰謀が成立していたというのが陰謀説である。澤地久枝さんの立場は、この陰謀説である。原秀男さんは、〝陰謀説〟というふうに、陰謀説に引用符を付している。このことからもわかるように、原さんは、必ずしも「陰謀説」に立っていたわけではない。

*このブログの人気記事 2023・10・26(9・10位に極めて珍しいものが入っています)

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NHK「二・二六事件 消された真実」を視る

2023-10-25 03:55:51 | コラムと名言

◎NHK「二・二六事件 消された真実」を視る

 原秀男は、『二・二六事件軍法会議』の「あとがきに代えて」において、「NHK特集 二・二六事件 消された真実――陸軍軍法会議秘録」という番組に言及している。この番組を私は、最初に放映された時に視聴した。その後も、数回、視聴したと思う。
 最初に放映されたのは、1988年(昭和63)2月21日、その後、2004年(平成16)2月22日に、「アーカイブス」で再放送された。今日では、そのアーカイブス版が、ユーチューブによって視聴できる。
 この番組の目玉は、「匂坂資料」である。二・二六事件の軍法会議で、主席検察官を務めた匂坂春平(さきさか・しゅんぺい)という陸軍法務官がいた(1883~1953)。その匂坂が残していた裁判資料が発見され、作家の澤地久枝氏が、それを整理・解読した。そうした過程を映像化したのが、「二・二六事件 消された真実」という番組である。ディレクターは、NHKの中田整一氏であった。
「匂坂資料」によって、初めて明らかになった事実は多いが、特に重要なのは、匂坂検察官が、東京警備司令官・戒厳司令官だった香椎浩平中将を、陸軍刑法第46条の辱職罪(じょくしょくざい)で起訴し、身柄を拘留しようとしていたことであろう。しかし、結果として、香椎中将は起訴されなかった。
 番組では、この一件について、元陸軍法務官の原秀男に対し、男性スタッフが「もしあのとき、匂坂さんが香椎中将たちを起訴していたら、軍はどうなりますか」と質問している(質問者は、たぶん、中田整一氏)。
 これに対し、原秀男は、「軍は崩壊するか……」と答えていた。
 ちなみに、陸軍刑法46条の条文は、以下の通り。

 第四十六条 部下多衆共同シテ罪ヲ犯スニ当リ鎮定ノ方法ヲ尽ササル者ハ三年以下ノ禁錮ニ処ス

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二・二六事件について美人記者の取材を受けた

2023-10-24 03:31:41 | コラムと名言

◎二・二六事件について美人記者の取材を受けた

 本日は、原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の末尾、「あとがきに代えて」を紹介してみたい。この「あとがきに代えて」は、かなり長く、十三ページもある。本日、紹介するのは、おわりのほうの三ページ分である。
 順序が前後することになるが、明後日は、同書本文の紹介に戻る予定である。

 旧軍時代の、特に戦地における思い出は、苦いものが多い。軍の法務官は不詳事件の処理のために軍の恥部に触れることが多いから、そんなことはさっぱりと忘れてしまったほうが気が楽である。ところが、私の場合はそうはいかなかった。
 昭和二十七年〔1952〕十月頃、私は法務官の先輩で裁判所の判事をしておられた菅野保正氏の訪問を受けた。同氏は旧軍の憲兵学校の教官や、高等軍法会議の裁判官を務め、陸軍刑法や軍法会議法の著書もある陸軍きっての学者で、二・二六事件では予審、裁判を担当されていた。
「保安隊(現在の自衛隊)業務学校が、司法警察の業務を行う警務官の教育をすることになった。旧軍の軍法会議と軍司法警察の話をしてやってくれないか。新しく発足する警務官は、旧軍の憲兵の弊害と欠点を受け継がないようになってもらいたいと思う。君が適任だ」
 と言われる。固辞しても許されないので、郷里の土蔵から旧軍関係の資料を引っ張りだして、「旧軍の警察制度と軍司法制度、各国の制度との比較」の題で話をすることになってしまった。自衛隊の諸君は、私の話に興味を示して聞いてくれた。勉強は面白かった。
 昭和三十九年〔1964〕頃から「週刊文春」が、松本清張氏の「昭和史発掘」の連載を始めた。これが二・二六事件に及んできた頃、私は文藝春秋社から美人の女性記者の取材を受けた。当時は大木さんといっていた藤井康栄〈フジイ・ヤスエ〉さんである。私が旧陸軍法務官の集まりの幹事役をやっていたことが耳に入ったのだろう。旧法務官たちには法曹資格があったので、戦後は判事、検事、弁護士になっている方がほとんどだった。藤井さんは、昔を語りたがらない旧法務官たちを歴訪して、口を開かせた。
 二・二六事件の裁判記録、予審調書、公判調書、そして判決原本を探し出すのも彼女の仕事だった。その成果は、「昭和史発掘」、そして松本清張氏との共編である『二・二六事件研究資料』(全三巻)として結実した。
 久しぶりで藤井さんと再会したのは、東京地検にあった二・二六事件の裁判記録を閲覧できるようになった一昨年〔1993〕のことであった。彼女は、地検の係官が出してくれた判決書と裁判記録の表紙をいとおしそうに手で撫でていた。深しに探しぬいた資料である。その前年〔1992〕に故人となられた松本清張氏にこの記録を見てもらいたかった、と思っておられたと思う。
 また、私が二・二六事件に関係する機縁を作ったのは、匂坂〈サキサカ〉哲郎氏、NHKのプロデューサー中田整一氏、そして作家の澤地久枝さんである。
 匂坂氏から、「父の持っていた旧軍法会議の資料を見てもらいたい」と言われたのは、昭和六十二年〔1987〕の暮れであった。匂坂春平法務官は、私の尊敬する大先輩である。喜んで整理に協力することになった。
 これがきっかけで、NHKの中田さんから取材を受け、昭和六十二年〔ママ〕二月二十一日に放映された「NHK特集 二・二六事件 消された真実――陸軍軍法会議秘録」で解説をすることになった。
「もしあのとき、匂坂さんが香椎〔浩平〕中将たちを起訴していたら、軍はどうなりますか」との質問に私が、
「軍は崩壊するか」
 と答えたことが話題になった。
 そして、六百三十点にのぼる匂坂資料を入念に調べ、そこから浮かび上がるものを凝視してまとめたのが、澤地さんの『雪はよごれていた』である。私は、旧軍のことは旧軍時代を経験した人にしか理解されない、まして女性にわかるわけがない、との偏見をもっていた。この偏見は、藤井さんと澤地さんによって見事に打ち破られた。
 これが機縁となり、中田さんの協力のもとに、匂坂、澤地両氏、そして私の三名共編で、五・一五事件四巻、二・二六事件四巻の『匂坂資料』全八巻が公刊された。

 文中、「昭和六十二年二月二十一日に放映された」とあるのは、原文のまま。「昭和六十二年」は、「昭和六十三年」(1988)の誤記である。「NHK特集 二・二六事件 消された真実――陸軍軍法会議秘録」の話が出てきた。明日は、この番組について述べる。

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喫茶『川の音』があった場所を訪ねる

2023-10-23 02:31:03 | コラムと名言

◎喫茶『川の音』があった場所を訪ねる

 原秀男の『二・二六事件軍法会議』を紹介している途中だが、いったん話題を変える。

 今月の初め、大塚に行く用事があったので、ついでに、喫茶『川の音(かわのおと)』があった場所を訪ねてきた。この喫茶店(現在は閉店)は、警察庁長官狙撃事件(1995)の犯人が、犯行後、逃走に使った自転車を乗り捨てたところである(本年3月24日・26日の当ブログ参照)。
 都電荒川線大塚駅前駅から、三ノ輪橋(みのわばし)行きの電車に乗る。停車駅が多い上、電車そのものの速度が遅い。道路と交差するところでは、信号で待つこともある。荒川区役所前駅に着くまで、40分以上を要したと思う。
 荒川区役所前駅に着く直前、進行方向左側に、NTTの文字が見えた。NTT東日本荒川電話交換所のビルである。
 荒川区役所前駅で下車すると、目の前が千住間道(せんじゅかんどう)である。千住間道を右に進むと、すぐにNTTのビルとその駐車場がある。狙撃事件の共犯者某は、この駐車場に車を停め、狙撃犯が逃げてくるのを待っていたとされる。事件当時、この駐車場が、どういう形になっていたのか、外部の者が、早朝、この駐車場に車を停めることが可能だったのか、などは不明。
 千住間道を隔てた向う側(北側)には、アクロシティ方面に向かう道の入り口がある。つまりここは、T字路になっている。そのT字路の西側の角(NTTから見て左側の角)が、喫茶『川の音』があった場所である。東側の角には、間道睦会館(かんどうむつみかいかん)がある。ストリートビューで、何度も眺めている場所なので、初めて来た気がしない。
 喫茶『川の音』は、すでに廃業。元の建物は、2018年以降に解体され(ストリートビューに拠る)、民家風の新しい建物となった。この日の印象では、現在は空き家になっている模様だ。どういうわけか、その建物の脇、事件の際、犯人が自転車を乗り捨てた場所には、やはり一台の自転車が停めてあった。

*このブログの人気記事 2023・10・23(10位の郭務悰は久しぶり)

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訊問に先だち、一言申し上げておきたい(真崎大将)

2023-10-22 00:01:30 | コラムと名言

◎訊問に先だち、一言申し上げておきたい(真崎大将)

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の「六 裁かれる陸軍大将」の章から、「無罪となった真崎大将」を紹介している。本日は、その三回目(最後)。

 小川〔関治郎〕法務官が「裁判長の命により自分が尋問をする」と言うや否や、これをさえぎって真崎大将は、
「私は、訊問を受くるに先だちまして、一言申し上げておきたいと存じます……」
 と発言許可を求めた。これはまったく異例なことである。真崎大将の発言は、次のようなものであった。
「私は、これ迄、検察官及び予審官の御取調に対しては、事のありの侭に、又私の感じた侭を、極めて率直に申し上げて置いてあります。しかし腹の立った事もあり、不都合な云い現し方、こう申し上げた方が判り易かったと思うことがあります。私は実は公判廷では何も申し上げまいと思いましたが、天皇の御名に於て行う神聖な法廷ですから、真相を究めるために、どんな御尋問に対しても、お答申し上げ、閣下方に訴えたいと思います」
 続いて、小川法務官から、
「只今、検察官が述べられた公訴事実に意見があるか」
 と尋ねられると、
「意見があります。香田清貞を招きどうしたとか、教育総監更迭に最後まで同意しなかったと述べたとか、昭和維新を何したとか、述べられましたが、実に驚き入った次第であります。磯部〔浅一〕の問題も違っており、漸く〔だんだんと〕挙げて承りますと、御読み聞け〔聞かせ〕の事柄は、全部も全部まるっきり事実と相違しております。何所で御聞きになり、何うして御調べになったか知りませんが、何うも殊更このような理屈を付けられた感じがいたし、作り事をした様な気がいたします。いずれ御尋問に従いまして、如々〔徐々〕申し上げて参ります」
と述べて、全面的に否認している。
 続いて審理が開始される。先に述べたように、戦前の刑事裁判では裁判官は捜査や予審における調書を読んでおき、これに基づいて質問、被告の反論・弁解を聞くという形で行われる。戦後に改正された刑事訴訟法による裁判のように、検察官の冒頭陳述と証人の尋問、それに対する弁護側の反対尋問という順序をとらない。真崎大将の公判の場合も、まずさまざまな関係者の陳述、証言要旨を告げたり、調書を読み聞かせたりして、これに対する言い分を聞くという順序で行われた。
 当然ながら、読み聞けされる調書の中には蹶起将校らのものが多くある。真崎大将の登場を期待し、実力行動に出た彼らが真崎大将についてどんなことを語り、これに対して真崎大将は何を語ったのか、公判調書と記録にそって見ていきたい。

「六 裁かれる陸軍大将」の章は、この節のあとに、〝「磯部は嘘を言っております」〟の節、および「お前たちの精神はよくわかっておる」の節があるが、割愛する。

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