礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陸軍法会議法第47条に従い、審判を公開せず

2023-10-20 01:08:55 | コラムと名言

◎陸軍法会議法第47条に従い、審判を公開せず

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の紹介を続ける。本日は、「六 裁かれる陸軍大将」の章の最初の節である「無罪となった真崎大将」を紹介する。この節は、やや長いので、三回に分けて紹介する。

無罪となった真崎大将
 二・二六事件を法律的に見て、私にとって最も大きな謎として残っていたのが、事件の「黒幕」とも言われる真崎甚三郎〈マサキ・ジンザブロウ〉大将に対する無罪判決であった。
 真崎大将は、事件が起こると「お前たちの精神はヨオッくわかっとる」と言い、「昭和維新の詔勅をだすべき」とし、大臣告示を蹶起将校らに伝えさせ、事件を有利に収拾すべく最大限の努力をしたと非難されてきた。事件は真崎大将を頂点とする陸軍の皇道派首脳部によって起こされたのではないか、とまで言う人たちもいる。
 その真崎大将がなぜ無罪となったのか。
 二・二六事件の裁判の中で、最後に残ったのが、真崎大将の公判だった。
 すでに昭和十一年〔1936〕七月十二日、香田〔清定〕ら十五人の将校らは、代々木陸軍衛戍【えいじゆ】刑務所内の処刑場で銃殺刑に処せられた。磯部〔浅一〕、村中〔孝次〕は、同じく死刑判決を受けながら、北一輝〈キタ・イッキ〉、西田税〈ニシダ・ミツギ〉に対する裁判の証人として刑の執行が延期されていたが、翌昭和十二年〔1937〕八月十九日に処刑される。
 ちょうどこれと同じ頃、真崎大将の公判が進められていたのである。
【一行アキ】
 真崎公判は、事件発生から一年三カ月たった昭和十二年六月一日から始まった。起訴はその年の一月七日だから、公判準備に半年かかったわけである。
 二・二六事件公判の行われた代々木練兵場内の臨時法廷は、その年の一月には取り払われていたために、真崎公判は、青山の第一師団軍法会議の法廷で行われた。
 この公判の中で、真崎大将はどのようなことを語ったか。資料から見ていきたい。
  第一回目の公判調書は、次のように始まっている。
【一行アキ】
 〈第一回公判調書
  被告人 真崎甚三郎
 右反乱者を利す被告事件に付き昭和十二年六月一日 東京陸軍軍法会議法廷に於いて
 裁判長 判士 陸軍大将  磯村年 
 裁判官    陸軍法務官 小川関治郎
 裁判官 判士 陸軍大将  松木直亮
 陸軍録事         鈴木又三郎
 列席の上検察官陸軍法務官竹沢卯一立会公判を開廷す。
 陸軍法会議法第四十七条に従い、審判を公開せず。
 被告人は出頭し身体の拘束を受けず。 〉
【一行アキ】
 裁判長の磯村年〈イソムラ・トシ〉予備役大将は、陸軍士官学校四期、名誉進級の大将で、真崎大将の五年先輩にあたる。松木大将は士官学校十期。川島〔義之〕陸軍大臣と同期で、真崎大将(九期)の一年後輩である。将官を被告とする軍法会議は、同階級以上のものが判士を務めることになっていた。
 小川法務官は、高等官二等の勅任官だから少将相当で、少将と同じような白い肩章をつけていた。真崎大将よりも階級が下だが、法務官は階級に関係がなかった。
 最後の「身体の拘束を受けず」とは、手錠をかけていないという意味だ。【以下、次回】

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