礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

粗末な木柱に刑死した人の名前が書いてあった

2023-10-10 03:00:22 | コラムと名言

◎粗末な木柱に刑死した人の名前が書いてあった

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)から、「十二 濠北の戦場で」の章のうち、「厳しい戦犯追及」の節を紹介している。本日は、その後半。

 私たちの意見は、「無理だなあ」というものだった。
 憲兵から被疑事件の記録の送致を受けると、軍律会議検察官は長官の命を受けて起訴する。軍律会議では裁判官三名(判士二名、法務官一名)が、検察官、録事立会の上で法廷を開き、証拠調べをした上で判決する。その経過はすべて調書に記録されなければならない。
 軍律会議で裁判をしたことにするためには、憲兵の調書、検察官、長官、裁判官などが作成した記録と判決書がそろってなければならない。
 連合軍の法務官は、かならず裁判記録の提出を求めるだろう。
 憲兵隊長に、
「憲兵隊で作った調書や記録はどうなっていますか」
 と聞くと、「すでにあらゆる書類を焼却した。パイロットの名前すらはっきりしない」と言う。
 調書には、供述したパイロットのサインと拇印がなければならない。連合軍のパイロットは、本国に軍籍が保存されており、そこにはサインも指紋も記録されているはずだ。誰かの拇印で調書を偽造したとしても、かならず発覚する。
 憲兵隊長も、軍律会議をデッチあげることが無理なことを悟って、この話は立ち消えとなってしまった。
 そしてついに連合軍の法務部隊がセレベスにやってきた。上陸用舟艇からジープを連ねて降り立ったのは大検察部隊であった。彼らの調査は徹底を極めた。捕虜となったパイロットたちの痕跡を墜落地点から次々に辿っていき、どこで消息不明となったかを突き止めたのである。憲兵隊は、事件のもみ消しをはかって米軍検察隊に徹底的に抗争し、実態はなかなか判明しなかった。だが、連合軍の法務官たちは、結局、隊長を始めとする数人の憲兵を捕虜虐殺の犯人として起訴し、マニラの戦犯法廷は彼らのうち数人に死刑の判決を下したのであった。
【一行アキ】
 今から二十数年前、私はモンテンルパを訪れ、戦犯刑死者の墓地に立った。
 墓とは名ばかりで、土が盛られ、板片のような粗末な木柱に、刑死した人の名前が書いてあった。汚れて消えかかった字の中に、ようやく憲兵隊長と隊員の名前を見つけることができた。私は、墓に向かって、
「お会いしにきましたよ」
 と呼びかけた。
「おお、来たか」という隊長の声、「来てくれましたか」という隊員の声が、土の中から聞こえてくるようだつた。
 墓の前で経を読みながら、私の足の震えはとまらなかった。

 刑死した憲兵隊長の名前は書かれていない。刑死した憲兵隊員の人数も書かれていない。著者は、あえて記さなかったのだと思う。

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