礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

川副武胤、「原古事記」の存在を論じる

2023-10-06 02:01:47 | コラムと名言

◎川副武胤、「原古事記」の存在を論じる

『論集 古事記の成立』(大和書房、1977)にある論考を、もうひとつ紹介する。川副武胤(かわそえ・たけたね、1922~1993)の「古事記の成立」である。ただし、紹介するのは、「一 序文について」の節のみ。

   一 序文について

 古事記は、その序文によれば、和銅四年(七一一)九月十八日に、太安万侶が元明〈ゲンメイ〉天皇の命をうけて、かつて天武天皇の御世に詔命によって討覈〈トウカク〉・撰録され、舎人稗田阿礼の誦習していた帝紀、旧辞(あるいは勅語の旧辞)をあらためて撰録し、翌五年正月二十八日に献上したものであるという。
 この序文は、漢文学上「表」とよぶ形式のもので、それを序文に転用したものである。その文章は四六駢儷体〈シロクベンレイタイ〉といい、唐の長孫無忌〈チョウソン・ムキ〉の進五経正義表や、同じく進律疏義表その他の漢文学(文選など)と関係の深い、奈良朝初期を代表する名文として知られる。
 この序文が右の長孫無忌の進五経正義表等を典拠としたものであることは多く指摘されているが、井上頼圀〈ヨリクニ〉氏は、五経正義の上表が永徽四年で、これは和銅四年に先立つこと六十年に過ぎないから、その伝来も不明であるし、また表文を彼此〈ヒシ〉対照するに、同一文字はわずかであることをあげて典拠説を否定している。
 それはともかく、この文体はいたるところに対句を用い、また文の平板を避けるために代語を用いたり、省略したりすることを特徴とするので、この古事記序文の場合も、そのためにその文の意味が必ずしも論理的に的確に通じないところが生じている。この序文の解釈、ひいては古事記成立に関する意見が、古来混乱し、容易に結論を得ないのはそのためである。
 賀茂真淵はこの序文に疑問を抱いた一人であるが、その本居宣長宛の書翰の中で「惣て〈スベテ〉古事記は序文を以て安万呂之記とすれども、本文の文体を思ふに和銅などよりもいと古かるべし。序は恐らくは奈良朝の人之追て書し物かとおぼゆ。序中にみことといふに尊の字有。尊は至貴をいふと日本紀にしるし、古事記は皆命字のみ也……」と書き送り、序が和銅以後に安万侶ならぬ別人によるものではないかとしている。この真淵の説は後述の私見からみて注目すべきものがあるが、しかし宣長はこの説を否定し、安万侶の作であることを強調している。なおその後に至って序文のみか本文までも後人の偽作かと疑う説が登場する。
 沼田順義〈ユキヨシ〉『級長戸風〈シナドノカゼ〉』は序文の奥書〈オクガキ〉に拠る和銅五年の成立ではなく、それ以後、これを偽作したという説を提唱、勅撰書であるのに正史に載らない事実をあげた。また中沢見明『古事記論』も沼田説と同じく正史に記載のないことを挙げ、稗田阿礼の実在についても正史にその名のみえないことを疑っている。中沢氏は、この序は平安朝初期に仮託された文らしいとしたが、この中沢説はかなり影響力があった。安藤正次〈マサツグ〉氏の『古事記偽書説について』は中沢説を論駁、また沼田説をも批判した。その中で安藤氏は、序文に「運移世異、未行其事矣」とあるのは、「天武天皇の修史事業が、御在世中に実現されなかつたことを意味する」としながらも、「古事記は天武天皇が訓み解きにくい旧辞を、稗田阿礼に仰せて誦習せしめられた、おそらくは天皇御自身の研究の結果を、記憶のよい柯礼をして誦習せしめられた。その旧辞を、元明天皇が、安麻呂をして書き改めしめられたものである。古事記が一つのまとまつた統一体を成してゐるのはこのためである。異伝を取捨折衷してこれを一つにまとめたものでなく、安麻呂以前の前代にすでに一つのまとまつたものとなつてゐたと見るべきものなのである」と論じている。
 さて、今日までの古事記研究の成果によって、安万侶の撰上以前の段階で稗田阿礼の前に置かれていたものは一箇の成書であって口伝や素材としての資料の集積ではなく、その誦習とはいったん文字に表わされたものの口誦読習の事であるとすることに異論はない。だが阿礼の暗誦以前に右のように一成書として著作されていたとしても、その材料となったはずの帝紀・旧辞の内容等の問題はいぜん未解決である。帝皇日継・先代旧辞をふくめて今日これらの名でよばれる書物は残っていない。日本書紀欽明二年条の注に「帝王本紀」の名が見え、天武十年三月十七日条に川嶋皇子〈カワシマノミコ〉らに帝紀及上古諸事を記定せしめたとあって、この一類の書名との類縁を思わせるほか、上宮聖徳法王帝説に引かれた「帝紀」、正倉院文書等に単に書名として「帝紀日本書」「日本帝記一巻」「帝紀」が見えるだけであるが、私は阿礼の前に書かれた成書こそ、安万侶の「撰」を経てもなおその文章の意味と順序の変ることのなかった〝原古事記〟と考え、諸般の事情からそれが天武十年代の著作と推定しているので以下そのことを論じたい。

 文中、「運移世異、未行其事矣」には、送り仮名・返り点があったが、省略した。
 川副武胤は、当時、山形大学教授。氏名の読みは、「執筆者紹介」に従った。

*このブログの人気記事 2023・10・6(8・9・10位は、いずれも久しぶり)

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