礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

教育の基本方針を憲法に規定すべきではなかったか

2023-10-01 01:46:06 | コラムと名言

◎教育の基本方針を憲法に規定すべきではなかったか

 南原繁著『人間革命』(東京大学新聞社出版部、1948)中の「憲法改正」という文章のうち、「二」を紹介している。本日は、その六回目。

(六)更に憲法内容につき第四項目として質疑いたし度いのは教育及び文化の問題である。凡そ新憲法制定にも比すべき今回の改正に当つては、初めから偉大なる構想と体系がなければならぬ筈である。然るに前述の国民の社会経済生活についても同様であるが、国家の文化的な使命については前文に一言の挿入もなく、僅かに「国民の権利及び義務」の章下に於て、これに関する二三の規定が散見せるに過ぎない。これを今世紀に於ての新しき諸国の憲法について見るときに、為に特別の章を設けのもあり、少くともこれが基本的方針を明確にしてゐることは、参考すべきではないか。殊に今後の日本にとつては、世界に向つてひとり戦争の否定を宣言するのもでなく、進んで世界人類の間に将来わが国民の寄与すべき文化国家としての使命を自覚せしめる上からも、また内に於ては、新たに民主主義を完全に発達せしめるために、国民の経済生活と相俟つて、否、それ以上に国民一般の道徳的知的教養がその基礎的条件である関係からも、その必要があるのではないか。政府は別に学校教育法の如きを制定せんとする方針と承るも、教育の全般に通ずる基本方針、並びにこれに対する国家の任務についての根本規定を、他ならぬこの憲法に於て規定すべきではなかつたか。
 これと関連して更に文相に伺ひ度きは、その宣明してゐられる「教権確立」の方針は、誤解を起す虞〈オソレ〉がないかといふ点である。それは再び旺〈サカン〉ならんとする各政党の対立抗争とその勢力の交替から教育の独立を確保せんとすることに一〈ヒトツ〉の狙ひがあると考へられ、その限りに於て正しい主張を含むと思ふが、他面、その結果、教育が国民の政治的社会的基盤から遊離し、文部省を頂点とする一種の「教階制度【ハイアラーキー】」と、それによる新しい「文部官僚主義」の樹立に導く惧れはないか。殊に地方教育制度について、伝へられるが如く、全国を各国立大学総長を長官とする幾つかの学区庁に分ち、これを文部省に直属せしめると共に、その下に文部省の支庁を各府県に設置する如き構想は、教育民主化に逆行しないであらうか。これは寧ろ、今後全く新にせらるべき地方自治体との連繋に於て、各層の教育家、殊に一般国民の間より公選せられた者を以て組織する「教育委員会」の如きによつて運営するを適当と思ふがどうか。これ教育の「地方分権化」の問題であり、米国教育使節団の報告もこの線に沿へるものと了解せられるのである。要するに、国民一般から分離することによつて教育の権威を確立するのでなくして、寧ろ国民と直結して国民公衆の自覚とその手によつて教育の進歩を図ることが眼目でなければならぬ。凡そ教育理念は真理とか正義とかいふ単なる抽象性に止まらざる限り、その時代の政治的社会的精神から超越して立てられるものでなく、これが具体的内容は必ずや国民公衆の現実生活から生れて来なければならぬ。ここに於て必要なことは、各政党間の世界観的分裂と対立を超えて、苟くも新憲法下の国民の何人〈ナンピト〉もが持つべき国民的世界観乃至政治観をつくり、高めることであつて、蓋し、それは近代民主主義の使命であると思ふ。この意味に於て一般国民の政治教育は新たに重要な役割を有し来るものと考へるが、政府はこれに対しいかなる方針と用意があるかを承り度い。
 その場合特に承り度きは、文部大臣は、凡そ本草案に描かれたる我が国の政治的基本的性格に関する形体と内容についていかに考へられるかといふことである。本年〔1946〕一月下旬、当時文部省学校教育局長兼東大教授で在られた文相が、朝日新聞紙上に『天皇制の弁明』と云ふ一文を発表せられたのを人々は今なほ記憶してゐる。それは日本の長き歴史的事実と民族の固有性から天皇制の合理的根拠を認め、就中〈ナカンズク〉わが国の法的秩序の理念から天皇制の必要を強調し、その点に於ては寧ろ「保守的」なる名称をも敢て辞せずとし、これを支持する同士の出現を普く〈アマネク〉江湖に呼びかけたものであつた。当時若き学徒並びに心ある人々はこれに共鳴し、その所信と勇気に称讃の辞を送つたのである。その君の良心的な態度と努力を以てして、なほ本草案を変更することはできなかつたか。それともその所信と心境に於て変化を来したのであるか。事は我が国文教の根本に関する問題である。心ある多くの人々、文相の態度について、深き注意を払つて来たのである。吾々はこの機会に文相の所解と心境の卒直なる説明を伺ひ度い。

 このときの文部大臣は、元文部省学校教育局長の田中耕太郎であった。
「憲法改正」の「二」は、ここまで。続いて、「三」を紹介する。

*このブログの人気記事 2023・10・1(9位の椋鳩十、10位の石原莞爾、ともに久しぶり)

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