礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

倉庫は陸軍の裏面史を集大成した博物館だった

2023-10-12 04:04:26 | コラムと名言

◎倉庫は陸軍の裏面史を集大成した博物館だった

 原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の紹介を続ける。
 本日は、「一 消えた裁判記録」の章のうち、「軍法会議の倉庫で」の節の前半部、すなわち、本書の冒頭部分を紹介してみたい。

軍法会議の倉庫で
「二・二六事件」の記録と私は、まことに長い因縁で結ばれているように思えてならない。
 昭和十五年〔1940〕、高等文官試験司法科(いまの司法試験)に合格した私は、大学を中退して陸軍法務官試補となった。いまでいえば司法修習生というところで、近衛師団軍法会議、第一師団軍法会議に配属され、軍の司法業務を実習することになった。
 その当時、軍法会議は、東京青山の第一師団司令部の構内にあった。第一師団の庁舎が並び、その横に、近衛、第一師団軍法会議、高等軍法会議の建物がコの字形を作るように並んでいた。法廷は別棟に置かれ、その隣の長屋のような粗末な建物が予審廷と証人控室で、三つの軍法会議が共同で使用していた。
 その軍法会議の建物の向かい側に、もうひとつ木造の建物があった。まるでちいさな小学校の体育館のようなこの建物は、軍法会議の記録を保管するための倉庫として、陸軍高等軍法会議と近衛師団軍法会議、第一師団軍法会議が共同で使っていた。
 中には棚がズラリと並び、書類や押収された証拠品などがうずたかく積み上げられていた。膨大な書類の中には、明治十一年〔1878〕、近衛砲兵大隊の兵士が反乱を起こした竹橋事件の記録まであった。倉庫はいわば、日本陸軍の裏面史を集大成した博物館だったと言ってもよいだろう。
 その資料の中で、他とは別にして、ひときわ大きな部分を占めていたのが、二・二六事件〔1936〕関係の資料であった。
 蹶起【けつき】将校ら十七人に対して死刑の判決が下されたのは、わずか五年前のことだった。しかし、事件の詳細までは公表されておらず、国民は真相を知らなかった。
 私の教官でもある先輩法務官たちは、裁判官として、あるいは検察官、予審官として、この裁判を担当した人たちだった。死刑執行に立ち会った方もおられた。先輩たちが折にふれて聞かせてくれる二・二六事件の話は、私たちにとってたいへん生々しい教材となった。それだけに私自身も、この事件に強い関心をもつようになっていったのである。
 じつはもっと切実な理由もあった。
 当時の陸軍内部の情勢を考えると、私には二・二六事件が、けっして「よそ事」には思えなかったのである。これから自分が法務官として陸軍にいる間に、おそらくこれと同じような事件が再び起こるだろう。その時、私はどう判断し、どう身を処せばいいのだろうか?
「ひとつ二・二六裁判について、真剣に研究をしてみよう」
 私はそう考えて、許可を受けて扉を開けてもらい倉庫の中に入ったのである。
 私の目にまず飛び込んできたのは、「尊皇討奸」の旗と、十数振りの軍刀、十数丁の拳銃であった。軍刀と拳銃は事件の際、重臣殺害に使用された凶器であり、判決によって没収・保管されていたものだ。血の染まった軍服などの証拠品もあったような気がするが、さすがに目をそむけた。この軍刀で殺された人がおり、この拳銃の所有者は死刑になったと思うと、鬼気迫る感じを受けて、手に取る気持ちにはならなかった。
 裁判記録は、和紙の調書類を麻糸で和綴じにしたもので、十センチほどの厚さに合本製本されたものが百冊以上もあった。だが、その中に判決原本だけは入ってなかった。軍法会議の事件記録は膨大なものであり、万一火災など起こった時に、全部持ち出すことは不可能である。そのために、焼失しては困るものだけを、非常持ち出しの木製の箱にいれて保管しておくのが軍の規定であった。おそらく、判決原本も、高等軍法会議事務室の非常持ち出し箱の中に入っていたであろう。
 私はそれから、誰もいない倉庫に入って記録に目を通し続けた。まだ太平洋戦争が始まっていない昭和十六年〔1941〕の春の頃であった。【以下、略】

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