礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

磯部浅一、真崎大将と予審廷で対決

2023-10-27 02:22:51 | コラムと名言

◎磯部浅一、真崎大将と予審廷で対決

 原秀男の『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)を読んでいて、最も興味深かったのは、「八 対決」の章だった。
 同章は、〝「青年将校は私を買いかぶっているのです」〟「国士になれ」、「異様な姿で磯部は現れた」の三節からなるが、今回は、あとの二節を紹介したい。本日、紹介するのは、「国士になれ」の節の全文である。

国士になれ
 実は、真崎〔甚三郎〕大将と青年将校との対決は、一度だけ現実のものとなった。蹶起の中心人物であった磯部浅一が証人として真崎大将の予審の場で対決したのだ。昭和十一年〔1936〕七月十日のことだった。
 この「対决」については、磯部、真崎双方が、証言を残している。ところが、二人の証言は真っ向から対立している。
 戦後、真崎大将は次のように書いている。
【一行アキ】
〈昭和十一年七月十日、磯部と私は対決せしめらるることとなり、私は先に入廷し、磯部を待って居たが、間もなく磯部も大いにやつれて入り来り、私にしばらくでしたと一礼するや狂気の如く昂奮して、直ちに「彼等の術中に落ちました」と言うた。私は直ちに頷けるものがあったけれども、故意に、徐々に彼を落ちつけて、術中とは何かと問い返したれば、沢田法務官(注・藤井法務官の誤り)は壇上より下り来りて「其れは問題外なる故触れて下さるな」と私には言い、磯部には「君は国士なる故そんなに昂奮せざる様に」と肩を撫でて室外に連れ出し、これだけで対決を終った。何のことか分らぬ。私は不思議でたまらなかった〉(「暗黒裁判二・二六事件」「特集文藝春秋」昭和三十二年四月号)
【一行アキ】
 一方、戦後になって、仙台で発見された磯部の遺書には、次のように書かれている。
【一行アキ】
〈真崎とは七月十日に対决した。真崎は余に国士になれと云いて暗に金銭関係等のバクロを封ぜんとする様子であった。余は国士になるを欲しない。如何に極悪非道と思われてもいいから主義を貫徹したいのだ。だから真崎の言は馬鹿らしくきこえた、余は真崎に云った、大臣告示も戒厳軍隊に入りたる事もすべてをウヤムヤにしたのは誰だ、閣下はその間の事情を知っている筈だから純真なる青年将校の為に告示発表当時、戒厳軍編入当時の真相を明かにして下さい。これによって同志は救われるのです。閣下は逃げを張ってはいけない、青年将校は閣下を唯一のたよりにしているのだ。故に軍内部の事情を青年将校の為めにバクロして下さいと願って簡短に引きあげさせられた。
予審官たる藤井は余の論鋒をおそれてオロオロしていた、余等を死刑にしたのは藤井等だからおそるるのもムリはない〉(河野司編『二・二六事件』)
【一行アキ】
 だが私は、長い間納得がいかなかった。二・二六事件の軍法会議がいかに特殊な法廷であったとしても、二人が書き残したような予審廷の取調べがあるはずはない。予審廷は、被告人と証人に口喧嘩をさせて、どちらが正しいかを判定する場ではない。藤井〔喜一〕法務官はその後、日本最後の陸軍省法務局長として軍司法部の頂点に立った人である。こんな不思議なことをするはずがないと思ったのだ。
はたして、二人の対決場面は本当にあったのだろうか。
 対決の場面を記録してあるはずの予審調書は、これまで誰も見ることがなかった。予審を担当した藤井法務官は、何も語らず、何も書き残していない。
 その記録は、東京地検の記録の中にあった。はたしてあの二人の描く「対決」場面はいったいどういう状況で起こり得たのだろうか。予審廷を再現しながら、調書を読んでみよう。

 文中、「被告人と証人に口喧嘩をさせて」とあるが、この場合、真崎甚三郎大将が被告(反乱幇助の容疑)で、磯部浅一が証人である。磯部は、この予審の五日前に(同年7月5日)、死刑の宣告を受けていた。

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