◎二・二六事件裁判は「暗黒裁判」だったのか
原秀男『二・二六事件軍法会議』(文藝春秋、1995)の「五 軍法会議とは何か」の章を紹介している。本日は、同章の最後の節「戦場での軍法会議」を紹介する。
戦場での軍法会議
戦地、戦場や、戒厳時に設置される軍法会議は、平時の常設軍法会議とは多少異なっている。これを特設軍法会議、臨時軍法会議と呼んだ。
戦地、戦場や非常時に発生した事件は、まず第一に迅速に処理されなければならない。そのためには、手続きが簡易でなければならない。犯罪が行われたか否かを判定したら直ちに判決をし、結果を全軍に周知させ、同じ事件が起こらぬようにしなければならない。軍法会議が、現在の裁判所のようにひとつの刑事事件の審理に十年以上もかけていたら、大抵の戦争は終わってしまうだろう。このために、特設軍法会議は、弁護人をつけず、上告も許さない一審制とされた。
次に、公開の制限がある。裁判所は審理が公正に行われていることを世間に知らせ公正をまもるために、審理を公開するのが原則である。だが、戦場における軍法会議を公開し、誰でも傍聴できるようにしたら、軍事機密が漏れる危険性が高い。警備も大問題である。そのため、特設軍法会議の法廷は非公開で行われることになっていた。
【一行アキ】
では、二・二六事件を裁いた「東京陸軍軍法会議」とは、どのようなものだろうか。
この軍法会議は「東京陸軍軍法会議に関する件」という緊急勅令(特別法)で設置された臨時軍法会議である。その審理方法は、特設軍法会議に準じると定められていた。すなわち、非公開、弁護人なし、一審制である。このことから、二・二六裁判が暗黒裁判であったといった批判が聞かれる。
このような特別な軍法会議を設置したのは、五・一五事件、相沢事件公判の苦い教訓からであったことは、緊急勅令を審議した枢密院の議事録でも明らかである。
二・二六事件は、第一師団と近銜師団の将校、兵士、そして少数の民間人が加わって起こした事件であり、法律に則れば事件の審理は第一師団軍法会議と近衛師団軍法会議そして民間人については、それぞれの居住地の地方裁判所と、別々に裁判をしなけれぱならないことになる。
五・一五事件では、陸軍、海軍、そして民間人が三つの裁判所に分かれて審理されたが、法律の適用と量刑が不均衡になったと批判された。たとえば、陸海軍軍法会議は反乱罪、普通裁判所では殺人罪を適用した。また、陸軍側の士官候補生に対する求刑は、一律に禁固八年。彼らと同格の土補生に対する民間側の求刑は、懲役十五年。変電所に手榴弾を投げただけの愛郷塾の青年は懲役十年を求刑されたが、これは陸軍の殺人実行犯よりも重かったのである。そのために、二・二六事件の審理をひとつの裁判所でまとめて行うのが妥当だろうと考えられた。
五・一五事件と相沢事件の公判は、通常の軍法会議にかけられ、審理は公開で行われた。ところが、このことを最大限に利用しようとしたのが、皇道派といわれる軍人たちであり、これを支持する右翼陣営の人たちだった。法廷では弁護人により被告人たちを「国士、英雄」とする活発な弁護活動が行われ、その模様は新聞やパンフレット、怪文書などで広く一般に伝えられた。結果的に軍法会議の審判は、皇道派と右翼の大宣伝の場となったのである。
このことがひいては、二・二六の蹶起を引き起こすきっかけにもなった。青年将校らは、五・一五事件の被告たちや相沢中佐に対する共感で結びつき、裁判を通じて結束を固めていったのである。
こういった教訓から二・二六裁判は、特設軍法会議の規定を適用する特別立法による軍法会議において行われることとなり、非公開、弁護人なし、一審かぎりとされ、さらに民間人もこの軍法会議で裁かれることになったのである。
二・二六事件裁判は、「東京陸軍軍法会議」で裁かれた。これは、緊急勅令によって設置された「臨時軍法会議」であり、「戦場での軍法会議」に近い性格のものであった。――二・二六事件が、「臨時軍法会議」で裁かれたことの是非は措くとして、原秀男の説明は、非常にわかりやすいと思った。